7月4日、この日は10時に病院へ行く予定だった。
しかし、わさびの容態は刻々と変化し、ぐったりとして病院へ行ける状態ではなかった。
尿はもう48時間以上出ず、口からぷつぷつと音がしてきた。目は開いているが虚空を見ているようだった。
不思議だったのは、100ミリリットルの補液がスッと身体から消えたこと。
いつもだったら背中にこぶの状態でしばらく残るか、胸から腕のあたりに溜まるのに。
それだけ脱水が進行しており、すぐさま吸収されたということなのか。
それでも頼みの綱である尿が、出ない。
私としては最初、はっきりと原因を知りたい、今の状態を把握したいという思いだった。
家人は否定的でこの状態で運ぶのはもう無理、わさびの立場だったらもうそっとしておいてという感じだと。
9時、私も家人に同意し、まず家人が病院へ向かい、先生に状態を報告し指示を仰ぐ。そして連れてきてと言われたら車で直行する。
家人の連絡を待つ間、悲しみが込み上げてきた。もうがんばらなくていい、14年間ありがとうと声をかけた。
母が様子を見に来て、湿らせたコットンで水をふくませてくれた。何度か小さくこっくんと飲みこんだ。
てっきり水も受け付けないと思っていたので、これは意外だった。とともにまだ大丈夫なのかもと、かすかな希望を見た。
たくさん身体や頭を撫でてもらった。私たちが長期留守をしていたり、私の2度の入院中の間、母にたくさん世話をしてもらった。最後までなつかなかったけど・・・。
だんだんと呼吸が早くなってきた。
わさびは時々苦しそうに大きく口を開き、はあはあと苦しそうに息をする。
不安でいっぱいだった。ただただわさびを撫でてあげることしかできなかった。
家人が帰ってきた。
ショックで死んでしまうかもしれないから連れてこなくてよい、そして、利尿剤をうってくださいと。
おそらく肺に水が溜まっているのではという。
そこで尿を出すことで体の水分が抜けて楽にさせるために利尿剤を打つ。
家人とあれこれ話し合って、だめもとでもやってみようとなった矢先、
わさびの大きな目がふわっと開いて瞳孔が大きくなるのを見た。
そして次の瞬間、小さく息をして呼吸が止まった。
静かに、スッと、旅立った。
享年14歳11カ月 あとひとつきで誕生日だった。
2021年4月の腫瘍の手術ではわさびを失うことに不安でいっぱいだった私は狂ったように泣いていた。
外耳炎で診察を受けた時、鼓膜の穴に気付かずアルコールを入れられて、眼振を起し入院したときも、
2021年12月に補液で一気に具合が悪くなった時も、
事あるごとに不安と恐怖に襲われて、パニックになっていた。
それが今回、わさびが目の前でスッと旅立った時、心が穏やかだったのはなぜだろう。
これまで泣かないと決めていた家人は、その瞬間、ダムが決壊したように泣いていた。
死因はおそらく腎不全悪化による多臓器不全。肺水腫も関係しているだろう。
今まで懐疑的だった腎臓病につきものの補液について、3日の時点であの脱水状況と膀胱に尿が溜まっていなかったことで、まずは補液によって尿を出すという納得の上での選択だったが、あの時補液しなければよかったのかと何度も自問自答し、家人とも話した。
短い時間の中での難しい判断だったと思う。
しかし家人と一致したのはやはり、その選択しかなかっただろうと。
そしてそれ以前にもう腎臓が機能していなかった可能性もある。
3日にとったエコー検査では残っていた片方の腎臓が2倍に腫れていた。
腎不全の終着駅=無尿になってしまうと、こんなにも早く連れていかれてしまうのか。
呆然とした。
自分についても感情が責めてくる。
わさびがガクリと体調を落とし始めたのは6月の中旬、おもらしをしてしまったころから、持病の外耳炎が再発し、変な太くて深い声で鳴くようになり、わけもなくウロチョロするようになっていた。
その頃から尿量が減っていた可能性がある。しかし、「安定期」という言葉により心にフィルターがかかっていたのと、とりあえず尿が出ていれば安心という固定観念で見損なっていたかもしれない。
なにより私が、「わさびは元気、わさびは大丈夫」と思いたいがために、自分自身にイリュージョンを見せていたかもしれない。
もしも6月早いうちに乏尿に気付き相談できていたら・・・。
たられば思考の波に何度も襲われた。
他方、こうも思う。
昨年12月、よく理解せぬまま受けた補液でわさびの容態が非常に悪くなり、水もごはんも受け付けず、くらがりで小さく鳴きながらうずくまっているわさびを見た時、その後悔と怒りはすさまじかった。
医師は良かれと思ってやってくれているから責められない。その時の獣医さんも10年お世話になった優しくて親身なお医者さんだった。
だから刃は自分に向いた。そうならざるをえなかった。
無知は罪だ。無知は怖い。
自分たちの無知のせいでわさびを苦しませたと、家人とともに責め合った。
しかし、その一件から近所の良いお医者さんと出会え、緻密で的確な診断と処方薬でみるみるわさびは元気になった。
一時は2キロに落ちた身体も、5月には体重2.4キロになり、ごはんを何度もおねだりし、
軽快に階段を駆け上がった。
半年ほとんど元気に暮らせたのもこの医師のおかげだと心底思っている。
言葉では伝えきれないほどの感謝がある。
ここ何日間かも無理をして診てくれていた。
思い出深いのは、いつも忙しそうな先生がふとリラックスしていた時に、
わさびについて尋ねてきたことだった。
「わさびって洋猫がまざっているのかな」
かわいいですね、漫画のようだと言ってくれた。
数多くの猫を診ている寡黙な先生からの最高の誉め言葉と思っている。
よかったね、わさび。
実際、わさびはほんとうにかわいい猫だったのだ。
家人はよく、わさびは猫ではない、かわいいといういきもの、
かわいいのかたまり、かわいいの権化だと言っていた。
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2016年ころのまんまる顔とまんまるおめめ。 |
わさびのことを愛してやまない家人だったが、こうもよくぼやいていた。
わさびは自分になついていない、嫌われていると。
それは違うということが今回ではっきりしたでしょう。
だってわさびは、家人の帰りを待って、旅立っていったのだから。
最後に私のことを少し。
わさびを半年間、つきっきりで看病できたことは幸運だったと思う。
朝早く、そして夜遅く、日中何度も投薬するのは私も正直辛いところもあった。
特に苦手だったのはカリウム補給のフィトケアで、これをわさびはとても嫌がり、
最終的には私の顔をみるとえづくようになっていたのにはこたえた。
日中、仕事がある方は思うように看病できなくてつらいという話も聞いたことがある。
その点、私はほぼすべての時間をわさびに費やすことができていた。
12月にいったん死を覚悟してから、少しづつ元気を取り戻し、春に桜が見れて、あとは8月の誕生日を迎えようという希望を抱きながら、楽しく前向きに過ごしたわさびとの濃厚な半年は私にとって一生の宝物であり、ほんとうに幸せだった。
ありがとう、わさび。
14年間、ほんとうにありがとう。
これからは病気も投薬もなにもない、苦しみの無い自由な世界で、
軽い身体で、蝶を追いかけ飛び回ってね。
友達であり、相棒であり、家族だったわさび。
絵を描くとすぐに邪魔してくるから、なかなか描画が進まなかったけど、
今ではそれもかけがえのない時間でした。
だんだんと布団にもぐってこなくなったり、
トイレのフタにのって肩もみもしなくなったり、
高いところでひなたぼっこしなくなったり、
同居猫のくるみにいじわるしたり、絵を描く邪魔もしなくなって、
いつもいる場所にいないことが増えて、
だんだんとあなたの姿を探すようになっていった。
それは近い未来への、さよならの練習だったんだね。
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2011年ころのわさび(右)とくるみ。 お互いに鼻であいさつしたり、おしりをかぎあったり。 それ以上でもそれ以下でもない関係。 |
これからあなたのいない日々が、日増しに辛くて寂しくてどうしようもなくなってくるだろうけど、
いつかまた会えると信じているよ。
それまでどうか、待っていてね。
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あごのせ大好き、ベットの二段重ねも大好き。 |