Kyon {Silence Of Monochrome}

Kyon {Silence Of Monochrome}
上記をクリックするとKyonイラストのホームページとなります。ぜひご覧ください。

2009/12/30

年末の過ごし方

この時期は今以上にテレビを見なくなります。
年末年始独特のあの雰囲気がとても苦手です・・。
そこで旧作レンタルが100円ということもあり、
今まで見たかった映画を10本ほどレンタルしておきました。
ラブコメやロマンスは殆ど見ません。かわりに好きなのはファンタジーやサスペンス、ホラー映画等、特にS・キング氏の作品は良く見ています。
「甘い愛の物語」や「恋バナ」は心を華やかにしますが、
へそ曲がりの私には結局嘘っぽく映って終了してしまいます。
しかしホラー映画、とくにB級と呼ばれるものは更に嘘っぽいのも事実です。
なので、同じ虚構の世界なら私はこちら・・という感じで見ています。
今回も、ホラーとノンフィクション系とサスペンスを沢山借りたので、
年始から心は重い空気になりそうです。これも自己責任ですが・・

小さい頃は、大人に混じってサスペンスドラマを見るのが大好きでした。
火曜サスペンス劇場のテーマが流れるとワクワクしていました。
横溝正史氏の映画も好きで、こたつに入り座布団を抱えて怖い怖いと思いながら、
祖父と祖母に囲まれて見るのが幸せでした。
恐怖に心が包まれても、傍には優しい家族がいる・・
子供心にその絶妙なバランス感が心地よかったのかもしれません。
そんな幼心を秘めながら、
年末年始は映画三昧の日々です。

2009/12/29

Webサイト更新しました

今回、ギャラリーのLoversのページに、
1枚 【媚 薬】 を追加しました。

どうぞ、ご覧下さい。

2009/12/28

秘密~Instinct~

「秘密」
この絵も随分初期に描いた絵で、気に入っているものです。

絵の前方で交わっているのは男女なのかあるいは同性同志なのか、
それはあまり関係はありません。
「秘密」の情事が、多くの傍観者に見られ、吹聴されている事が問題です。

これは、日々世間に流れているゴシップや愛憎劇、事件等、
それらに吸い寄せられて、貼り付いて離れない人間のイメージです。
「人の不幸は蜜の味」とはよく言ったものです。
そのような話題で、メディアはひしめき合っているように見え、
それは、それらを好物としている人々がいるからだという需要と供給の構図が、
私には時々恐ろしく感じます。

「壁に耳あり障子に目あり」そのようなイメージとも近いかもしれません。
東京では20年後4人に1人が、独りでご飯を食べることになるかもしれない、
と聞きましたが、
ご近所との付き合いは希薄になる一方、
でも、世間では「人の噂話」が軒並み連なって手招きしている。
不自然なアンバランスが、ゆっくりと人の心を蝕んでいくように思えます。

「秘密」は誰の心にもある。 
生きている上で、秘密は大なり小なり必然的に生まれるものだと思います。
しかし、「秘密」があることすらも秘密にしておかないといけない世の中になってしまったら、
それは不健康で、寂しい気がします。

2009/12/26

猫道

職場に「カブ」という雄のブチ猫がいます。
もう8才近くになりますから身体も大きく堂々としたもので、
お客様が来ていても、どんと寝床から離れません。
騒がしく忙しくしていても、ぐっすりと寝ているその姿を見ると、
多少のイライラなど吹っ飛んでしまいます。
カブくんが、心の中の通り雨にそっと傘を差し出してくれているようです。

猫はどんな良い子でも「いたずら」をします。
ワサビはとてもおとなしい子ですが、
食卓に置いてある魚を舐めてしまったり、
テーブルの上に乗って、知らずのうちにペンや消しゴムを落としていたりします。
カブちゃんもたまに忙しくしていると、ちょっかいを出してきます。
ノートの上にドスンと寝転んだり、
やはりペンや消しゴムを落としていたりします。
遊んでおくれ、とニャアニャア騒がしく鳴いたりもします。
でも、それを見てカチンときたり、怒ったり、イライラしたりしません。
彼らは悪気は無いからです。
無邪気で純粋な行動に、怒る気にはなれません。
 「まあ、いいか。しょうがないや」と思います。
猫を飼うようになって、こう思う事が多くなりました。
一見諦めに似た消極的な言葉に見えますが、
これが硬くなりがちな頭や心をほぐしてくれるようです。
決められたスケジュール通りに行かなかったり、不本意な事を言われたり、
不可抗力で物事が上手くいかない事はままあります。
私の場合、そんな時、ワサビやカブくんの寝顔やいたずらをした後の得意げな顔を思い浮かべて、
「ま、いいか」と思うと、自然と不愉快な気持ちが収まります。
心の葛藤や怒りや苛立ちに、この言葉が上手く折り合いを付けてくれるようです。
もちろん、そんな投げやりではいけない事もありますが、
日常に起きる些細な不愉快は、
さらりとかわしてしまった方が良いと思います。
猫達の気まぐれにいちいち怒っていては彼らと上手くいかないのと同じように、
人と人とが関わって色々な道が出来上がっていくこの世界で、
些細な進路変更は、むしろ面白がって進んでいけば、
今までと違う景色に出会えて、
それはそれで前に進んでいけるのではないかと思います。

心の中の小さな猫道を、
愛猫達に導かれて歩いてみたいと思います。

2009/12/24

冬の空

冬の空は、星が綺麗です。
こんな東京の少々くすんだ空でも、夜には小さな宝石がキラキラと瞬いています。
今日は苦手な新宿に行った帰りで、
小さな星の輝きが一層美しく見えます。

夜道を歩きながら、こんなことを思いました。
寒さが増すほどに美しく見える星があるなら、
心の中でも同じ事が起こっているのではないかと。
人間関係に疲れたり、頑張り過ぎて燃え尽きてしまったり、
自己嫌悪に落ちたり、心の中が寒々と冷え込んでいる時、
ふと立ち止まってその奥の暗闇を見つめてみると、
一瞬の瞬きが見えてくるような気がします。
その瞬く「星」は、冷たい夜の空にキラキラと輝く小さな星達と同じように、
澄んだ空間の中でしか見られないもので、
その一瞬の瞬きを見るために、人は悩むのだと思います。

時には立ち止まってみても良いと思います。
特に何か自分の中で違和感を感じ始めた時、
暗闇をじっと見つめる日があっても良いと思います。
その時にしか見れない「星」の輝きが、
次の夜明けに導いてくれるような気がします。

2009/12/21

視線


ワサビに限らず猫は、じーっと見つめてきます。
この視線が、猫好きにはたまらなくて、
例外でなく私も、この視線のとりこです。

「他の人をじろじろと見てはいけない」のは人間関係の常識ですが、
この子たちは、それこそ四六時中、じっと見てきます。
人の「じろじろ」と質が違うのは、
彼らの目線の奥は「無」の状態だからでしょうか。
何が「有」かと例えれば、それは感情や思考だと思います。
猫に感情が無いわけではありません。
ただその感情はシンプルで、
安全か安心か、危険か不安かというような基準で働いているものだと、
聞いたことがあります。
そのかわり、人間の感情はとても複雑です。
「可愛さあまって憎さ百倍」のような、相反する感情の愛と憎しみが実は表裏一体であったり、
「あばたもえくぼ」のように、好意的な感情が様々な事をひいき目に見せたり、
豊かであるがゆえに、複雑な化学反応を心の中で起こしてしまう。
それがどんな結果になるか、本人さえも解らない事さえある。
そのようなものの「窓」が「目」であり、
「窓」からは、その複雑怪奇で魅力的なものが覗いているから、
人が見つめるという事は、意味が深いのだと思います。
私は人と視線を合わせるのが苦手です。
苦手な人は鼻先をみろ、といいますが、すぐそばに「目」があるので、
やはり苦手です。
ですから人と対面で話していると、たまに目眩がしたり意識にほんの一瞬空白ができるような感じがします。。
大体、緊張などが理由だと思いますが、困ったものです。
もしかしたら、自分の把握しきれていない部分で、
その「窓」から何かを受信、察知しているのかもしれません。
よく「目は口ほどにものをいう」といいますがこの事でしょうか。
それは、意識のレベルでは気づいていない事が多いと思います。
「これは良い感じだ」とか「不安な感じだな」 というように、
うっすらと認識しているのだと思いますが、その感性を研ぎ澄ませようとすれば
ある程度は研磨できるのかもしれません。
ただ現代において、それは逆に自分の心を茨の道に放り込んでしまう可能性があるかも知れないとも思います。
だから、ぼんやり程度が精神的には調度よいのかもしれません。

しかし、愛猫の見つめる「視線」はやはりたまりません。
本人たちはただ、飼い主さんの様子をうかがっているだけだと思いますが、
愛猫=ワサビには、いつまでも見つめられていたいと思ってしまいます。






2009/12/19

青い鳥























先日自転車で井の頭公園に行きました。
夕方だったので、燃えるような夕日が井の頭の木々を赤く染め、
いつものようなゆったりとした時間に情感を添えていました。

男の人が、立ち止まって何やら一生懸命見ています。
私も気になって遠目からそっと見ていたのですが、
男の人が振り返って教えてくれました。
「カワセミがいますよ」
指差す方向を見ると、美しい1羽の青い鳥が優雅にたたずんでいます。
カワセミでした。

いつだったか、体調を崩してずっと病院通いをしていたことがありました。
原因も解らず、しかし調子が悪いので、気分もふさぎこんでいたのですが、
ある日、病院へ行くために自転車で川辺を走っていると、
青い宝石のような輝くものがちらりと視界に入ってきました。
カワセミでした。
午前中のまだ若々しい日光に羽を輝かせて羽ばたいていたのです。
一瞬の出来事でしたが、青い鳥は幸運の鳥というイメージが、
私を元気付けてくれました。
「なんか良いことがありそう、検査の結果もきっといいはず」
それから、体調は不思議と回復の方向に向かいました。

病は気から、という言葉がありますが、あながち嘘ではない気がします。
特に私のような、単純なのに考え過ぎ症候群のような者には、
些細な幸せの象徴が、気分をがらりと変えてくれるようです。

井の頭で男の人が教えてくれたカワセミも、
過去のそのような記憶と共に、私の心にささやかな幸せをくれました。

しかし本当に幸せだったのは、
見ず知らずの人が親切に声を掛けてくれてカワセミを教えてくれた、ということです。
人間同士の不信感や人間関係の希薄さなど、
冷たい風がいよいよ強くなってきたなと思う現在、
このような事は奇跡に近いように感じてしまうのは、
私自身が冷え切っているからでしょうか。

本当の「青い鳥」は人の心の中にいる、
そう思えた幸せを頂いた1日でした。

2009/12/17

過去からの手紙

20代の頃に書いた「日記」を久々に読みました。
丁度、井の頭公園デビューした頃のものです。
その頃、人生の袋小路に入り込んでしまったような私は、
お金を「虚構」だと思っていました。
日記にはこう書いてありました。

「お金に操られている生活は幻想に近く、お金で動くこの世の中も幻想のようだ」
「お金を得るために時間を売っている自分が時々悲しく思えてくる。
もっと大事なものがあるのではないか、自分という現実をもっと感じることが必要なのではないか」

10年以上たった今の自分の感性で見ると、
とても歯痒くて恥ずかしい文章ですが、
時間と仕事と自分自身と人間関係と、いくつもの狭間で不器用に立ち回っている自分の姿がぼんやりと脳裏に浮かんできました。
当時はアルバイトだったと思いますが、学生だったし実家でしたから、
そんなにお金に困っていたとは思いません。
ただ仕事を通して、人と関係することの難しさに悩み、社会人として行動することへの反発めいたもの、自己中心的な視野の狭さから、 あわよくば働きたくなかったのかもしれません。
しかし、流されるように仕事を任されて没頭し始め、社会人としての自覚を持ち始めた時から、
「お金は虚構」などと簡単には言えなくなってきたように思います。
生活するため、生きていくため、やはりお金は必要なのです。
祖母が生前「一番汚いものはお金だよ」と言っていましたが、
(これは小さい頃に言われたので様々な人が触って「不衛生だ」という意味だと思います)
「良いお金」の活かし方は沢山あると思います。
人へのプレゼントを購入したり、頑張った自分に少しご褒美をしたり、
友人と美味しいものを食べに行ったり・・
若い自分は日記にこうも書いています。

「仕事が重なり、我を忘れてしまう時、それはほぼ自分が幻になり下がったのと同じこと。
それこそ、絵も描けないくらい疲れきってしまう時、私は私を消してしまいたくなる」

この頃から仕事=お金は大事だが、自分を見失ってしまいそうで恐れていました。
仕事=お金=幻想という図式が頭の中で出来上がっており、それが精神的に脅威だったのです。
しかしそのうち、本当に流されるままに、私は自分を見失うことになり、
そのことすら気付かない日々が続くことになりました。
多忙と喧騒の日々から解放され、正常な自分に戻ったからこそ、
このように過去を冷静に見つめられるのかもしれません。
過去の自分は未来の自分に密かに警鐘を鳴らし、失っていく日々を予感し、
更に未来の(現在の)自分がその事実に気付くというのは、
何とも不思議な感じがします。

「仮面を付けてほぼ毎日を過ごしている。底の無い壺の中に手を入れてまさぐっている感じです」
この感じは何となく今も続いている気がします。
仮面の数は以前よりぐっと少なくなりましたが、私には世渡りするために「仮面」はまだまだ必要です。

日記には最後にこう書いてありました。
「自分が半透明から本当に無になってしまわないように焦っている」
誰もが生活している中で気づいていないか、あるいは見ないように封印している「恐怖」が、
そこにあるような気がします。
下手な文章でも、当時のその感覚が臨場感を持って表れました。

この過去の日記を読んで思ったのは、
「自分を見失う恐怖」と戦う自分、自分を見失いつつも仕事に専念しそれを楽しんでいた自分、
この二つの点が繋がって見えてきた線があり、それが未来への指針となってくれるだろうということです。
そしてこの二つの相反するものが絶妙なバランスを保ち、今平穏に暮らせているのは、過去の自分が悩み行動し、失敗もあったからこそなのだと思います。


「扉を開けると、狭い階段をゆっくりと降りていく、闇の中を独りで行く時幸せです」
絵を描くということが、過去も未来も私を支え続けてくれている、
唯一無二の「友人」であることは確かなようです。
この「友人」をいつまでも大切にせねばと、純粋に思いました。

さて、こうして今綴っている「日記」は、未来の自分にどう響くのでしょうか?

2009/12/15

優しい音

猫のワサビはメスなのですが、基本ドライな性格なので、
必要最低限にしか甘えてきません。
飼い主としては少々寂しいのですが、
ご飯が欲しい時と、遊んでほしい時のみニャンと来て、
あとは、別の部屋でゆっくり寝ていたりします。
しかし昨日は寒さのせいか、珍しく私の布団にもぐりこんできました。
めったにあることではありません。
最初ワサビも違和感からか、瞳がランランとしていましたが、
そのうち体勢も崩れてゴロゴロとご機嫌な音を出し始めました。

猫のゴロゴロという音は、子猫がお母さんに、
ここにいるよと教えるために鳴らすものとか、
リラックスしている時、安心している時に出す音だと聞いています。
お腹の近くで聞こえるワサビのゴロゴロは、
温かいよ、安心だよ、と語りかけているように聞こえます。

 最近読んだ本の中に、
日本の若者の他者への信頼感が、
低下しているというデータと記事がありました。
人は大体において善良であるという「信頼」が、
薄らいでいるというのです。
それが真実であるなら、とても悲しいことです。
警察や法律の存在や、報道にある数々の残虐な事件を見ると、
性善説が疑わしくなり、
性悪説のほうが信憑性が高くなるような気もしてきますが、
人が人と関係して生きていくのが必然のこの世界で、
人に対する不信感を抱いて、人と温かい関係を築けるかといえば、
それはとても難しいでしょう。

私は以前、財布を3度程落としたことがありましたが、
幸運にも 財布は無事でした。この「幸運にも」と思うこと自体、
私にもある種の不信感があることは否めません。
買い物をしてもレシートはすぐに確かめますし、
実際、打ち間違えがあったり、財布の件でも、
中のお札を抜き取られていたことが1度だけありました。
経験に基ずく自己防衛本能というものに近い感じでしょうか。
生活をしていても、なんだか世知辛い世の中になったなあ 、
と思うことは少なからずあります。
それでも信頼関係が無ければ、
社会は正常に成り立っていかない気がします。

まず自分が身近にいる人々を信頼し、
その気持ちを少しでも具体的に示していくことで、
豊かな信頼関係が築けるのではないか、そしてそれが生まれてほしいと思います。
「正直者が馬鹿をみる」というような、悲しくもある意味真実を伝えていることわざもありますが、
それでも、騙すよりは騙される方がいい、
不信感を抱いて関係するよりは自ら信頼していきたい、と思うのは、
いささか綺麗事すぎるかもしれませんが、
そう願って行動していくことが大事だと思います。


人との会話の中で、具体的にあなたを信頼しています、や、
あなたといると安心です、という言葉はそんなに聞けません。
ですから、たとえ相手が猫であっても、
自分に信頼と安心感を抱いてくれていることを、
ゴロゴロという音で素直に伝えてくれることが、
ただただ嬉しく、感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。


しかしその夜は、ワサビを押し潰してはしまわないかと心配し、
更に、思考の渦巻きにのまれてしまい、
混沌とした中でよく眠れませんでした・・・・・

2009/12/14

恍惚~Instinct~

「恍惚」
ペン画を始めた初期に描いた絵です。
当時は、60・70年代に興味があり、
その思想や文化、音楽にかなり傾倒していた時期でした。
この絵のように、アンニュイな女性の表情は特に好みでした。
頭の中では、様々な事が乱舞しているような、錯乱しているような、
しかし独特の楽しげな色彩が、広がっていたのです。

白と黒のニ色で描くのですが、
個人的には原色が好きで、特に赤は大好きです。
部屋の中も、ほぼ赤い色で統一されており、
人によってはやや疲れるかもしれません。
モノクロで描いていても、
頭の中は極彩色が広がっている、ともいえるのでしょうか。
以前絵を見てくれた知人から、こんな言葉を頂いたことがあります。

「Kyonさんの絵は、白黒なんだけど、
家に帰って思い返してみると、あれ?カラーじゃなかったっけ、と思うんだ」

非常に印象的な感想で、とても嬉しかったのを覚えています。
まるで頭の中を見透かされたような・・・・・
しかし、現実に描くのであれば、やはり白と黒のニ色がしっくりきます。

「恍惚」は、私の憧れでもありました。
深い快楽の瞬間に落ちて行く様を描きたかったとも記憶しています。
当時は、迷路のような人生の道にたたずんでいる状態で、
心の中は「恍惚」とは全く逆の心模様だったと思います。
「悶々」という感じでしょうか。

絵は時にその紙面上のみで、夢を叶えてくれることがあります。
それはいつか現実のものとなりうるという希望を抱いて、
儚い夢のように、未来の自分へ託されて行きます。

2009/12/11

お酒と珈琲

私はお酒が1滴も飲めません。
煙草もお酒も好きそうだ、とよく言われますが、全く飲めません。
以前、お酒好きの上司に、
「君は人生の楽しみの半分を失っているよ」
と笑いながら言われました。
それがどんな意味なのか、
飲めない私にはその時はいまいち解せませんでした。

私にはとてもお酒の強い友人がいるのですが、
その友人が楽しそうに飲んでいる風景を見ていると、
お酒は良いものなんだなあ、としみじみ思います。
その友人に先日、行きつけだという飲み屋さんに連れて行ってもらったのですが、
そこはカウンターだけの小さなお店で、店主のこだわりが良く出ている、
洒落た雰囲気のお店でした。
夜も更け始めた頃、次々とやってくる様々なお客さんは、
どうやら皆顔見知りのよう。
友人にも挨拶をして、程よい会話を楽しんでいます。
多分、その上司が言っていたのは、こういうことなのではないか、と思いました。
お酒は人の心を穏やかにしてオープンにしてくれる。
適度なお酒は人と人との関係の橋渡しとなって、
コミュニケーションの潤滑油となってくれる。
お酒の飲めない私にとっては、
そのお店でのアットホームな光景は、
ちょっとした驚きであり、憧れの時間でもありました。
その光景ができる要素には、お酒の他に、
お店の暖かい雰囲気や、友人の性格の良さもあるのでしょう。
人見知りで人付き合いの下手な私には、
真似のできないことです。

下戸なかわりに、よく飲むのは珈琲です。
1日10杯以上飲んでいる時もありました。
喫茶店も好きで、学生の頃から、
吉祥寺や下北沢等のレトロな喫茶店に吸い寄せられるように入っては、
窓際の椅子に座って、本を片手に珈琲を飲むのが幸せでした。
今は多くのファーストフード店などに押されて、
純粋な喫茶店はめっきり少なくなってきたので、
レトロな喫茶店の写真集を眺めたりして、
そこへ行った気になって楽しんだりもします。

下戸でもお酒の席は好きです。
相手の普段聞けない本音や心の中が少しでも見えてくるからです。
人間同士の温かい交流を客観的に見ていることで、
私も楽しくなります。

喫茶店には、それとは間逆の空気と時間が流れています。
静けさの中に、 対話の相手は自分しかいません。

インドア派で、一人遊びの多い自分。
・・・どちらかといえば、やはり、
私には珈琲の香りの方が、似合っているのかもしれません。

2009/12/09

金色の道




















とても気持ちの良い日です。
久々に自転車で遠出をしました。
しばらく自転車をこいで着いたのは、
「蘆花恒春園」。
明治 ・大正期の文豪、蘆花恒春が後半生を過ごした住まいのある、
広い公園です。

銀杏の木が沢山あって、その葉が散り積って、
地面が金色に輝いていました。
近くには紅葉の木もあちこちにあり、
美しく紅色に染まった葉がとても印象的でした。
「秋」というのは、今まで、はらはらと木の葉が散り、
木枯らしが吹く、寂しげなイメージでしたが、
こんなにも色鮮やかで、情熱的な季節だったのかと、
初めて気付いたように思います。
そして、金色と紅色と青空と、素晴らしい色彩のコントラストの中で 、
自然の有難さ、偉大さにため息がでました。
大げさかもしれませんが、本当にそう思いました。
ワーカーホリックだった時分は、
毎日冷たいコンクリートの中で缶詰状態でしたので、
晴れているのか、雨なのか、
寒いのか、暑いのか、朝なのか夜なのか・・・
ましてや春夏秋冬の移り行く様など、
殆ど気にしていられませんでした。
改めて、「春夏秋冬」が過ぎゆく日本の美しい姿を、
良く見、感じてみようと思いました。

私は花に加えて、鳥や蝶なども大好きなのですが、
その自然が生み出す配色や色彩の妙は、
到底真似のできるものではないと思っています。
花を見ても、自然の風景を眺めても、
私には、この絶妙な色彩を描く術も無ければ、
畏怖の念すら感じてしまいます。
だから私は色を操れずに、モノクロームの世界でしか
生きてゆけないのかもしれません。

しかし、白と黒の限られた世界で、
この美しい「色彩」を少しでも表現できたら、
どんなに素晴らしいでしょう。
それが私が目指している目標であり、夢でもあります。


恥ずかしながら、蘆花恒春の有名な作品「不如帰」等、
読んだことが無いのですが、
その「人と接するのが苦手だった」という性分や、
自然を愛し自然と共に生きた姿に、何となく共感を覚えたので、
1度手に取り読んでみようと思います。

遠くへ行かなくても、
美しい場所はすぐ身近にあるものです。
特別なことをしなくても、感動は、
ずっと身近にあるものだと思いました。

2009/12/07

Webサイト更新しました

Webサイトを久々にUPいたしました。

GallaryのFlowers のページに、絵を3点追加いたしました。

またItemのページもUPいたしました。
こちらのページで、作品集とポストカード(セット)が、
ご購入頂けます。

是非ご覧下さい。

トランジスタ ラジオ

最近いつも以上にテレビを見なくなりました。

昔からテレビに依存し過ぎると、頭の中で雑念が多くなり、
それが飽和状態になると非常に疲れ、
「描く」という事に対しても、あまりよい影響が無いので、
適度に付き合っていかなければならないツールだと思っていましたが、
ここ最近、ラジオの魅力に目覚めて、
テレビはニュースと本当に好きなドラマや映画以外は殆ど見なくなりました。

テレビと違い、ラジオは自分の想像力頼りなところがあるので、
言葉の端々から色々と想像したりするのは、頭の活性にも良さそうですし、
興味のない時は、それこそ右から左へ流して聞けばよいです。
また、 視覚的な情報はインパクトが強いので、
一度見てしまうとなかなか脳裏から離れないのですが、
耳で聞く情報はリスナーに対し、選択肢の幅が広いように思え、
テレビよりも負担が少ないと感じます。
以前より、頭の中がスッキリ整頓されているように感じます。

私の場合、特に自分の内なる声に耳を傾けたい時など、
その小さな声が聞こえるように、
頭の中に静寂な空間を用意しておかなければなりません。
余分な情報や雑念は無い方が健全です。

この、莫大な情報が氾濫する中で、
本当に重要な情報は案外少ないようにも思えますし、
受動的になり過ぎず、
自ら情報を選ぶ能動的なスタイルに変えていくことが、
自分の本質を見失わないために、
また自分の心を大切にするために、
必要な事ではないかと、改めて感じています。



















愛用のトランジスタ ラジオです。
父のお下がりで、30年くらい前の物のようです。
デザインが当時を物語っていて、
ノスタルジックで素敵です。

まだまだ、現役で楽しいラジオを聞かせてくれています。

2009/12/05

ひとりセッション

10年程前はMTRを使って音楽を作るのが主流だったように思います。
私はそのようなものは扱えず、もっぱら「テレコ」でした。
今でもテレコは持っていますが、知人に笑われます。
たしかにテレコを今使っている人はいないでしょう。
これで録音した音を普通に聞くと、再生速度も何やら違います。

久々に曲を作りたくなり、テレコではどうにもならず困っていたら、
パソコンで音楽編集できるフリーソフトがあると聞き、
早速入手して試してみることにしました。

説明書が200P以上もあるので全て読むのは諦め、
要所要所で手探りで始めてみたら、
なるほど・・楽しいのです。
音にさまざまなエフェクトもかけられるので、
生音が微妙に変化したりして、久々に夢中になってしまいました。

ベースとドラムは、絵でいう下書きのようなものでしょうか。
そこに他の音をのせて、色付けして・・
と、実際は下手なリフを単純に乗せているだけなのですが、
童心に戻ったようになかなか楽しい作業です。

音楽はもちろん、メンバーと集まってセッションするのが一番楽しいのですが、
たまには一人で黙々とするセッションも良いものです。

出来上がったものを聞くと、「???」な事も大いにありますが・・・
それでも、絵を描くのと同様に、
頭の中で生まれたイメージや感覚を、可視化あるいは可聴化してみることは、
精神的にも良いと思います。
それらを客観的に見聞きすることで、
自分自身の本質や新たな魅力を、もっと知ることができるように思います。

2009/12/01

時は流れる~Dreams~

時は流れる
同じ時はないのに 何故か同じような流れにのって 日常はくるくる回る
素晴らしい1日 花のように美しく 儚い日々 」


ある日、お皿洗いをしていて思いついた絵です。
ふとした日常の中に、「絵の種」は沢山見つかります。

同じような事を繰り返し、掃除や洗濯、お皿洗い・・
エンドレスな家事を毎日こなして、
あっという間に過ぎてしまう1日。
仕事に追われて、矢のように過ぎてしまう1日。
同じ時間や1日なんて1秒たりとも存在しないのに、
毎日が同じように感じてしまう、
それはなんだかとてももったいない気がしていました。

特別でなくてもいいから、1日を大切に過ごしたい。
儚い夢でも、人生は前向きに生きて行きたい。
そんな希望を抱きながら、大切に仕上げた絵です。
普段は点描など大変な描写が多いのですが、
この絵は比較的楽しくのびのびと描いた記憶があります。
せめて絵の中では、
自由に生きていたい、という思いがあったのかもしれません。

絵は時に、魂にだけ自由を与えてくれるように思います。
身体は様々な事に拘束されていても、
魂は自由に、好きな時間や場所を行き来できるような気がします。
時々、頭の中で様々な夢や風景を描いてボーっとしてしまうのは、
それが理由、かもしれません。