Kyon {Silence Of Monochrome}

Kyon {Silence Of Monochrome}
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2010/01/29

猫バカです















猫アレルギーなどで、どうしても猫に触れない知人や親戚がいます。
猫嫌いの友人も昔おりました。
ワンちゃんの方が好きな方も大勢います。

私は、いわゆる猫派です。
ご飯を食べている姿も、佇んでいる姿も、
丸くなって眠っている姿も、時には噛まれたりひっかかれても、
全てが愛しく可愛いのです。

私の連れ合いは几帳面な性格なので、
猫を飼うには、ちょっと難しいかと思っていました。
しかし、小さい頃に猫と接していたようで、
難なく猫生活に慣れ、私同様立派な猫バカに成長しました。

その連れ合いが、ワサビの事を「この子は猫じゃない」と言い出しました。
どういうわけかと聞くと、
「これは、可愛い という生き物だ」

なるほど、確かに何をしても可愛いその姿、
可愛く感じてしまう気持ちをよく表しています。
「可愛いという生き物」

また「猫を飼う」とは言わない、と言います。
「ワサビと一緒に生活を共にする」と表現しています。

私の場合は、
それ以上に、「この家に、居て頂いている」という感じです。
気がつけば、頭の中はワサビの事ばかり。
それを考えている事が、心の幸せに繋がっている今日この頃です。

2010/01/27

プラセボ

満員電車がとても苦手です。
こういう方は多いと思いますが、仕事上避けられない立場の方が大半だと思うので、
本当にご苦労されていると思います。
最近、朝の満員電車に乗る機会が増えたのですが、
もう、途中で降りようかと何度も思い、
満員電車を避けるために、家を出る時間が早まる一方です。

閉ざされた空間で、密着しあうというのが何とも苦痛でなりません。
個人的に閉鎖された場所も苦手で、いわゆる「閉所恐怖症」に似た症状なのかもしれません。
エレベーターも苦痛で、閉鎖空間で楽しむアミューズメントアトラクションも避けます。
酷く疲れている時など、映画館などもストレスになる時があるので、
困ったものです。

そんな時、絶対に手放せないのは、私にとっては「水」です。
この透明で、無垢なものが体内に入るイメージが、
私をすぅっと楽にさせます。
水を得た魚のようなイメージでしょうか。
ふっと一瞬、深呼吸したような感じになります。
満員電車に乗らなければならない時も、
手にはこの「水」が握られています。

飲めば安心という、一種のプラセボ効果なのでしょうか。
それでも、たった一杯の水で、
閉塞感から解放されるなら、
私にとってはそれは「薬」のような存在ですから、
人間の脳や心というのは、やはり不思議です。

2010/01/22

職人気質

最近、縁あって様々な職種の方とお話できる機会を得られました。
人は皆、生きていく為に一生懸命仕事をして、
1日の半分以上、1週間のほとんどを費やすのですが、
その中でも、専門職でずっとお仕事されている方々のお話は、
面と向かってめったに聞けるものではないので、
狭い中で生きている私にとって、
それはとても楽しく驚きや感動が沢山詰まっています。

先日は寿司職人の方のお話を聞くことが出来ました。
職人というと、どの世界でも「職人気質」というものがあり、
私個人の中で、気難しいという感じや、
頑固という感じがイメージとしてどうしても拭えないのですが、
今回お会いした方にも、最初はそのような「職人気質」を勝手に感じていて、
おっかなびっくりお話を伺っていました。
しかし、ご主人に握ってもらった美味しいお寿司に強張っていた顔も解れ、
普段、緊張すると食べれなくなってしまう私でも、
殆どを食してしまう程でした。
お話を聞いているうちに、当のご主人も、
職人としての1本筋の通ったプライドと気質を持ちつつも、
笑顔の素敵な、優しくて気さくな方だというのが分かりました。
「職人」という言葉にずっと先入観を抱いていた私にとっては、
ちょっとした驚きでもありました。

お寿司は大好きなのですが、
マグロとカツオ以外は殆どネタの種類を知らない私に嫌な顔もせず、
生簀に泳いでいた魚を見て、
ある魚を指差して「この魚はなんですか?」
と尋ねた時に「アジだよ、それぐらい覚えなさい」
と優しく言ってくれて、
最後には魚の本など2冊も貸して頂き、自分のあまりの無知ぶりに、
自分で呆れつつ、そのお気遣いにすっかり恐縮していました。

どの世界でも、これときめて、ずっと続けている人には、
特別な輝きや魅力があると思います。
そして、その苦労と努力と費やした多くの時間の上に成り立っているその知識を、
知識の無い者に惜しげなく優しく教えてくれる姿に、
本当の自信とプライドと、あるべき「仕事」の本来の姿を見るような気がします。
時にはそんな姿に、憧れさえ抱いてしまいます。
しかし、実際に職人の方や、専門職で頑張っておられる方の話を聞くと、
私のイメージは単に幻想で、「となりの芝生は緑」という諺のように、
実情はもっと違う事も分かります。
現実に翻弄され、想像以上の苦労や努力、忍耐を重ねている、
一筋縄では行かない難しい道だというのを感じます。

私の凡人感覚で言えば、好きな事を生業として生きていければ、
それはそれで素晴らしく、
しかもその仕事が人を助け、あるいは人を感動させ、笑顔にするものであるならば、
同じ苦労を重ねる上で、やはり「となりの芝生」に憧れてしまいます。
たとえそれが「生業」にならなくとも、
自分が自ら選んで進んで苦労して努力でき、
それを楽しめるものがあるという事は、それだけで素敵な事だと思います。

「絵を描くこと」、それは私にとって「仕事」ではありませんが、
ライフワークとして、死ぬまで続けて行きたいものです。
絵を通して人の役に立とう、とは今の自分ではおこがましくてとても言えませんが、
昨年作品集を作ったことで、あとがきに、
絵を描く喜びを最初に教えてくれた亡き祖父母への感謝を記し、
それを読んでくれた親戚がとても喜んでくれた事は嬉しい事でした。

現在、運良く様々なプロフェッショナルの方のお話を聞けたという事が、
自分の中で新たな財産となり、
これからも、大きな懐の「職人気質」に憧れ続けて行きたいと思います。
そして、いつか私も「絵を描いている事」を自分の中で誇れるようになりたい、
という思いが、果てしない旅路で私を勇気づけ、支えてくれるように思います。

2010/01/18

針と糸と感性と














とても美しい刺繍の作品です。
これは、連れ合いの祖母の若い頃の作品だそうです。
このような繊細でダイナミックな美しい刺繍作品が、
実家に多数飾ってあります。
それを始めてみた時は、本当に驚きました。
祖母は現在80歳を過ぎていて、とても元気で明るい女性です。
今は作成していないようですが、
聞けば、これらの刺繍作品はデッサンから配色まで全て行い、
一日中針を刺して、3、4日で出来てしまうというのです。
これにも驚きました。
見れば、本当に細かい糸で緻密に配色され、
豊かな色彩を奏でています。
作品の中には、故郷である栃木の原風景の作品もありました。
正直を言いますと、この素朴で朗らかで、人懐っこい笑顔のお婆さんから、
このような相当な労力と根気とセンスを要する作品が生まれたとは・・という驚きがありました。
自分、まだまだ相当甘いな・・と反省したのも事実です。

以前帰郷した時には、
その祖母が、庭で拾ったという玉虫の死骸を見せてくれました。
3㎝もある大きなものから、1㎝くらいの丸っこいものまで、
いろいろな形の玉虫が、大事そうにお皿に入れてありました。
そして、これを持って帰れと言います。
「綺麗だから、持って帰れ」と。
たしかに、マイナスのイメージで使用される「玉虫色」とは全く異なる、
深い紫と鮮やかなグリーンに金色を品良く添えたような、
それはそれは美しい光を放っていて、
作りもののブローチのようにも見えました。
虫はどちらかというとあまり得意ではないのですが、
「持って帰れ」と言われて、素直に「いいんですか、ありがとうございます!」
と言ってしまうほどの美しさがありました。
東京ではまず見れない姿ではないでしょうか?
そして、玉虫の死骸を美しいから大事に取っておく、
そんな祖母の屈託のない感性を、
私は全く真似できないと思い、
私が絵描きとして足りない部分だと思いました。

この美しい刺繍作品を見る度に、胸に迫るものがあります。
こういう作品こそ、もっと多くの人に見てもらいたい、
そして、いつかそういう機会をこの作品達に与えられたらと願います。
身近に良き師がいるということは、
本当に恵まれたことだと思います。

2010/01/17

15年

15年前、阪神大震災の起きた時、
当時テレビで報道された、あまりにも過酷で悲惨な状況を、
今よりもずっと無知で視野の狭かった私は、
対岸の火事の様な出来事に感じていたことを、
今になって、とても恥ずかしく思います。
現在15年経ち、改めて各メディアで 報道されているその過酷な現場、
被災された人々の姿、そして現在見事に復興した町並みを見ると、
失ってしまったものははるかに想像を絶する思いますが、
それ以上に町や人々が固く温かい絆に結ばれ、
大きなパワーを抱いているように感じます。

親しい友人が傍で悲しみに暮れていて、
その感情に共感し、慰めの言葉をかけてあげることはできても、
その心にある本当の悲しみを理解してあげられない辛さがあるように、
ましてやこの様な、抱えきれないぐらいの巨大な悲しみを、
いくら理解しようとしても感じようとしても、
自分には限界があることを痛感します。
ただこの年になって、昔の様に対岸の火事とは思えない、思ってはいけない、
そんな緊迫感が心に宿るようになりました。
いささか遅すぎる感じもします。
しかし、やっとそう思うようになったのなら、
次は行動に移してみようと思います。
例えば、もう一度震災の時の集合場所を家族で確認しておいたり、
家にある災害グッツの中身を点検して、足りないものは補充しておいたり、
悲しくも多くの人々の犠牲において得た大事な「教訓」を、決して忘れてはならないと思いました。

昨年出版した私の本も、
神戸の出版会社の方々が時間をかけて作って下さいました。
メールだけのやりとりだったのですが、
とても温かく、親切に応対して頂きました。
15年前は多大なご苦労をされているのだろうと思うと、
作って頂いた本を大事にしなければ、と思います。

もともと旅行をする機会が少ないのですが、
神戸や広島は、是非一度は訪れてみたいと思います。

2010/01/13

光と影

私が井の頭公園で絵を売っていたのは、10年も前のこと。
当時は焼鳥「いせや」さんの近くの階段付近から、
ハの字になって、色々なアーティストの方々が出展していました。
今は都の方で管理され、私が出展していた時よりも、
とても洗練された印象です。

先日はお天気も良く、久々に訪れた公園は、
家族連れやカップルなどで賑わっていました。

私もお店を見ながら、懐かしさに思いをはせながら、
ぶらりと歩きました。
そして、人を笑顔にする芸術作品はやはりいいものだなぁ、と思いました。
人間には、こういう笑顔が必要なんだと思いました。


私の作品は、どちらかというと笑顔とは真逆の位置にあるように思います。
私自身、描いている時は楽しいのですが、
発想の原点やその着地点は、寂しさや悲しさ、心の闇の部分に行き付くと思います。
インスピレーションも大体そこから来るものです。
悲しい時や辛い時ほど、心の底から湧きあがってくるのです。
そして、この世に生きている以上、これからも一生懸命生き続けていく上で、
描く為の「素材」は、胸の中で枯渇することは無いと思います。

 悲しい時には、悲しい映画や音楽を聴き、
心のデトックスを思いっきりすることが、次の元気につながるように、
絵画にもその時の気持ちに対して、それぞれの役割があると思います。

 夜の画家と呼ばれるルドンや、分裂の画家ムンク、
世紀末の画家ビアズリー、ハリー・クラーク等の描く世界がとても好きです。
マグリットの静かなる狂気の世界は、私の永遠の憧れでもあります。
彼らの絵に出会ったのも20代前半の頃ですが、
それらは皆、 自分を代弁し、
心の中の得体のしれないものを可視化してくれているようでした。
そして、それが自分への理解につながり、
夜から明ける朝の光を見れたような気がします。

絵画は大体において、描く側のカタルシスとなって機能しますが、
それは一線を越えると、他人には理解しがたいものになり、
闇の中へと沈んでいく一方で、
その断片を読み取り、感じた人にとっては、
その人自身のカタルシスにもなりうると思います。
それが、私にとってはムンクであり、ビアズリーであったのだと思います。

私自身、描くことで助けられてきました。
絵が精神浄化の産物といってしまえばそれまでですが、
その1枚がわずかでも、誰かの心象風景とつながってくれれば、
それはとても嬉しいことです。

モノクロームの世界に引き込まれた私にとって、
「夜の画家」への道のりは、とても険しいものがあります。
巨匠と呼ばれる画家達には、その旅路から帰ってこなかった人々が多くいます。
私にそのような勇気はありません。
猫と戯れる時間、家族と過ごす時間、友人と会話を楽しむ時間、スタジオに入る時間、
様々な「太陽の時間」がとても大切です。
しかし、光のさす所に、影は必ずできる。
描き続けていくことは、私にとって、
太陽と月、光と影、朝と夜のように、それらの時間と一対なのだと思います。
そしてそれが自然体なのだとも思います。


最も、マグリットやシャガールのように、陰と陽、二つの要素を巧みに融合させ、
静かに暗示させている絵画もあります。
そのような絵を、私も影の側で思考錯誤しながら、
いつか描くことができれば、と思います。

2010/01/08

再生




















昨年の10月の個展の時に友人から頂いた見事な胡蝶蘭は、
それから花を次々と落とし、ついにはすっかり花を落としきり、
美しい姿から寂しい姿に一変しました。
蘭は育て方が大変難しいと聞いていたので、
正直諦めていました。

しかし、しばらく経った頃、小さな小さなつぼみをつけ始め、
それは徐々に大きく膨らみ、
以前のような美しい花になりました。
本当に変わりないその美しさに、はっとしました。

大変おこがましいのですが、今の自分とかぶって見えてしまいます。
この有様に対して、これまでの歩みがふと重なります。

一度は花を散らし寂しい姿になっても、
また同じ美しい花を咲かせる事が出来る・・・
憧れと同時に、ひとひらの希望の花弁を受け取ったような気がします。

小さな命はいつも謙虚に、
生きている事の希望と真意を教えてくれます。

2010/01/06

映画の話

年始に借りて見たDVDで、とても心に残った作品があります。
C・イーストウッド監督の「グラントリノ」です。
前々からその評価の高さから見よう見ようと思っていたのですが、
この機会にじっくりと見ることができました。
そして、「百聞は一見に如かず」、噂以上の作品でありました。

海外の映画を見るといつも感じるのですが、
宗教や人種の問題、戦争の後遺症の問題等は、
本当に理解しようとすると、とても難しいということです。
私の勉強不足や、想像力の乏しさも原因しているのでしょうが、
それ以前に、この国のこの町に住んでいて、まず実感として感じ得ないことなので、
私には理解するのがとても難しいのです。

この映画にも、アメリカの実像として、それらのシーンは沢山出てきますが、
それ以外に、日本でも直面にしている老いと家族の問題や、老人の単身化、
地域社会の問題なども含み、
「人間として生きていく上での不可避な問題」を取り上げていたので、
国や生活様式は違っていても、
背負う問題は同じものがあるんだと、共感できる部分が沢山ありました。
切り口を変えれば、いくつもの違った問題やストーリーが見えてくるのです。

「そうか」と思ったシーンは、
モン族の食事会に、主人公のウォルトが招待された時のことです。
美味しい食べ物に段々と心を許していく主人公に、
「美味しい食べ物の前では人は笑顔になる」という通説を、
確信したように思いました。
映画におけるフード理論提唱者の方が以前ラジオでお話しされてましたが、
良い映画には良い食事のシーンがあり、食べ物を大切に扱っているとのこと、
なるほど、と思いました。
私は家事の中で、食事を作るのが大の苦手なのですが、
これからの人生において、食べ物への思いをちょっと考えなおさねば、とも思います。
同時期に「スーパーサイズミー」というドキュメンタリー映画も見ているので、
なおさら・です。

そしてウォルトが愛車を洗車して満足そうに眺めているシーン。
愛車のグラントリノは、主人公のアイデンティティであり、心の拠り所であり、
良き日々の象徴であり、宝物であり、誇りである。
こういうものを一生のうちに持てるか持てないかで、
心の在り方は随分と変わるのかもしれないと思います。
さて、私には何がある?と問うた時に、
「家族」以外に思いつくとしたら、やはり「描くこと」でしょうか。
それは、高価であったり誰に相続するものでも無いけれど、
やっと描けた絵1枚を眺めて思うことと、
主人公が磨き上げた愛車を眺めている時に思うことと、重なる点が有る気がします。

細かい絵を描いていますから、
そのうち身体的に描けなくなる日も来るでしょう。
でも、その「大切な日々」を眺めながら、
懐かしい気分に浸るだけの日々が来ても、
それはそれで、幸せなのかもしれません。


この映画では、感動した・とか、良い映画だった・というよりも、
深く考えさせられる点がいくつもあったということが、私にとって魅力でした。

両親の老いが更に現実味を帯びてきた時に、私はどう対処するのだろう
連れ合いはいるけれど子供は無く、このまま生きていくとどうなるのだろう
単身になった時、地域コミュニティとはどう接している?
孤独で命を断とうとする老人がいる、長生きしてごめんねという老人がいる・・
そんな社会はけして健全とは言えない

暴力は、更なる暴力と憎しみしか生まない
温かく美味しい食は、人と人との繋がりを豊かにする
良き師が若い頃私にも大勢いた、そしてその人たちが私を育ててくれた・・

そして、私にとっての「グラントリノ」は?


こんな思いが見た後に走馬燈のように 頭に広がり離れません。
当たり前の様な問題、事柄だらけですが、
気付くことと、気付かないまま、あるいは気付いても無視し素通りしてしまうかでは、
これからも生きていく上で、それは大きな分岐点に思えてなりません。

2010/01/04

走り続ける

大晦日から今年の三が日は、家で映画三昧でしたが、
さすがに頭が疲労してしまいました。
見た映画にシリアスなものが多かった為、いろいろと考えさせられた反面の、
自業自得の結果です。

そこで大晦日から少々充血ぎみの頭をクールダウンさせようと、
知り合いの大学が出ていることもあり、初めて「箱根駅伝」 を2日に渡り、
拝見しました。

最初は家事をしながらなど、そんなに集中していなかったのですが、
段々と引き込まれ、2日目の最終ゴール直前では、
すっかりその情熱と青春の世界に引き込まれていました。

とても単純な感想ですが、頑張るって素晴らしい! と思いました。
走っている時の表情はとても苦しそうなのに、
ゴールしてインタビューを受ける選手は皆、楽しかったと言っています。
肉体的にも精神的にも、お茶をすすりながらのんびり見ているこちら側からは、
到底想像ができないほど、過酷で苦しいはずなのに。

絵を描くというのは、マラソンに似ているなあ、と思うことがあります。
「駅伝」を見ていても、そう感じました。
走り続けている間の孤独との戦い、彼らが背負うプレッシャーとは比較になりませんが、
それでも、昨日の自分を少しでも超えたいという思い、
ゴール=描き終えた後の爽快感・・
私の描く白黒の細密描写は、油彩のようなダイナミックさも無く、
水彩のような淡い色彩の妙を楽しむことも無く、
とても淡々として、地道な作業が多いです。
点描などを施している時は、それこそ耐える精神力も必要となってきます。
日々黙々と、着実に描いているうちに、
気がつけばゴールが見えてきます。
そして思うのは、描き終えたその瞬間も素晴らしいのですが、
それよりも、淡々黙々と描き続けているその時間に居ることが楽しかったということです。

ゴールは次へのスタート地点でもあるので、
気持ちが多少緊張することもあります。
手書きのペン画は、ある意味、修正がききませんから、
点一つ描くことにおいても、とても慎重になります。
ただ、自分を信じて描き続けていれば、
そのうち描く絵そのものが意志を持ち、ゴールへと導いてくれるのです。

マラソンの選手達が、仲間を信じ、自分自身を強く信じて、
20キロ以上もの道のりを走破したように、
私も自分を信じて、これからもずっと描いて行こう、
そんな勇気をもらったように思います。

2010/01/01

四季

大晦日前に借りていたDVDが残り1本となってしまいました。
思ったより余力があって1日に数本見てしまいます。
大晦日に見た映画は実話に基づいたシリアスな作品で、見た後に涙が出ました。
悲しいとか可哀想という感情ではなく、自分の無力さ、
現実を知っても、知ること以外に何も出来ない不甲斐無さに心が震えました。
この同じ星の下で、新しい年が明けても、
様々な「現実」に直面している人々がいます。
こんな考え方は不謹慎かもしれませんが、
暖かい部屋で大好きな絵を描ける私は贅沢すぎる、とも思ってしまいます。

前職の時は、年末年始のこの時期が一番忙しく、
お正月休みも無いに等しかったので、
こうして普通に休んでいるのが、何だかとても悪いような気がしてしまいます。
町に行くと、様々なお店で必死に働いている方々を見ると、
昔の自分と重なって苦しくなり、そのご苦労を思います。

人生は紆余曲折で「四季」があるように思います。
仕事に没頭していた自分は、体裁上、あるいは経済的には今より豊かだったが、
自分自身の心の中はというと、いつも自分の真ん中がもぬけの殻で、季節に例えれば冬だった、と思います。
それが今は逆さなだけなのかもしれません。
記憶は残念ながら、喜怒哀楽の極端な場面をスクラップしているだけですが、
穏やかな春や秋のような日々は、
静かな旋律となって、心の片隅で優しいメロディを奏でているような気もします。
それが私の救いでもあります。
極端な日々など本当はいらない、今は普通であることが大切で、
絵を描く時間と心の余裕さえもてれば、それが幸せです。
しかし、それさえも贅沢すぎるのでは?と自問自答せざるを得ない現実が、
この世には沢山あるのも事実です。

自然界に春夏秋冬があるように、
人の世にも四季があり、人の人生にも四季があるように思います。
冬を越せば、命の芽吹く温かな春がやってくると、自然の流れに沿えばそうなるし、
春は必ず来ると、信じたいのです。
そして、昔の日本人が四季折々の美を愛でたように、
冬の寒さの中にいても、一面の銀世界に心を揺さぶられるような 、
夏のうだるような暑さの中にいても、キラキラと輝く海を見たときに心が躍るような、
そんな感性を持ち続けていけたらと、願います。

2010年

昨年は2回目の個展を開催できて、様々な人々に絵を見て頂き、出会う事が出来ました。
また、良き理解者の協力のもと、ホームページを立ち上げ、
本を出すことも出来ました。
見て頂いた方、協力して頂いた方にここでお礼申し上げます。
本当に、有難うございました。

今年もいろいろと挑戦していきたいと思いますので、
どうぞ、宜しくお願い致します。

Kyon