Kyon {Silence Of Monochrome}

Kyon {Silence Of Monochrome}
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2011/08/31

あしたが消える ~どうして原発?~

これは、22年前のわずか55分のドキュメンタリー。
だけど、過去の物語ではない。今の物語か、それ以上の「現実」となっている。


22年前、原発の定期検査など指導的な立場で働いていた父親を、
52歳で失った葛西真紀子さんの「父は何故死んだのか?」という純粋な疑問から、
話は進められていく。

骨ガンだった。入院後わずか4ヶ月で亡くなられた。
生前、父親が働いていた福島原発を見つめながら、葛西さんは言った。
「父は原発は危ないから、もう辞めるよ・と言っていた。
だけど、留めさせられた。父は、こうも言っていた。
人々が今の生活を維持したいなら、危険でも原発は必要だろう。
でも、本当にそうだろうか・・・」

父親の病気との因果関係は認められていない。
だが葛西さんの疑念は揺るがない。
「父は原発は二重三重の安全装置があるから絶対安全だと言っていた。
原発をずっと信じていた父が、裏切られたように感じる・・」

チェルノブイリ事故の映像が流れ、幾人もの防護服を着たリクビダートルが、
忙しく走りながら、収束作業にあたっていた。
自ら福島原発を設計した元プラント設計師の田中三彦氏は言った。
「チェルノブイリでは、国民のヒロイズムと愛国心が収束を導いた。
しかし、この二つは日本では機能しない。
大事故が起こった時、誰が止めるのか。・・誰も止められない・・」
そして、放射線で被曝をしているのは人間だけではないという。
「中の配管なども被曝している。そして老朽化する。
美浜原発はそれが著しい。大変に危険だ。」
22年前の話である。

驚いたのは、チェルノブイリ事故後、
食品はほぼノーチェックで輸入されていたという・・
1986年以降、私達は死の灰を添加されたものを食べていたという事か?
いったい、どの程度を、どれくらい?

元被曝労働者が被曝実態調査する医師に向かって話す。
金属が落ちてきて足の小指を切断する事になったが、
下請けだったために労災は下りなかった。
「燃料棒の交換作業がいちばん辛かったなぁ。
なんで辛かったんかって・・うぅ~ん・・」
「ある日、窯の中にナットが落ちて、皆で拾おうとしたがどうやっても拾えない。
そこで親方が、『おまえ、特攻隊でいけ』っちゅうた。
いろいろとすっかり支度してくれて・・。
もうどうにでもなれと、行った」

線量計をつけずに作業に入る事もあったという。
累積が多いと働けなくなるからと、作業員の思いは切実だった。
一番被曝が多いのは「責任者」だという。
その人一倍の責任感の強さに、全てまかせっきりと言う事だろうか。
今はもう着用されていないという防護服の燃えるような赤い色が、
なんだか私にはとても悲しく、恐ろしげに見えた・・
労働者の被曝実態調査は、労働者のプライバシーなど、
様々な理由で困難を極めるという。
それは今も全く、変わっていない。


 今は既に建設されている、青森六ヶ所村の建設予定地が映し出された。
そうか・・22年前はまだ建っていなかったのか・・。そう思った。
年月とは恐ろしい。
でもそこで酪農を営む男性の言葉は先を見通していた。
「一番先に影響がでるのは牛乳だって聞いている。
ここでもし大事故が起きたら、日本全体がだめになるのでは・・」

葛西さんの最後の言葉が今でも突き刺さる。
「東京で裕福に暮らしている人は、
豊かに暮らすその陰で、誰かが亡くなり、
または病気になり、その家族も苦しんでいるという事を考えて欲しい・・」
これは、原発労働者に限らず、
過酷な労働下で働く全ての人々にあてはまる事だろう。
私達の豊かさは過度に装飾、加味される分だけ、
多くの犠牲になりたっているともいえるのではないだろうか?
24時間営業の店や飲食店で長時間勤務する人々は?
猛暑の中、または極寒の中、交通整理や警備、建築に携わる人々は?
配送ニーズが増す度に、昼夜問わず走り回らなければならない配達員は?
考えれば考える程、社会の闇は部分は深くて、
この多大な労力とエネルギーを消費する「豊かさ」とはいったいなんなのだろう・・と深く考えさせられる。


最後の場面で、チェルノブイリ事故の汚染地図と、
日本地図が重なり合った映像が流れた。
それは福島原発がもし事故を起こしたらどうなるか・という、
22年前の1つのシュミレーションだった。
それは、まさに今の現実、そのものの姿だった。愕然とした。
そしてこんな言葉で締めくくられる。

「福島原発が万が一大事故を起こしたら、日本中全てが汚染されてしまう。
そしてその事故はあした起こるかもしれない」

「もう・・起こってしまった・・」
心でそう呟いた。

警鐘はあらゆる時代にあらゆる場所で、あらゆる媒体で鳴らされ続けていた。
「チャイナシンドローム」「シルクウッド」「アトミック・カフェ」
そして、「チェルノブイリハート」・・・
パンフレットにはその他にも多くの映像や映画の名が記載されている。
こんなにも、あったのか・・と思った。
知らされなかった・のでも、教えてくれなかった・のでもない。
知ろうとしてこなかった、自分自身に問題があるのだろう・と思った。


・・原発のない世界が良いと思っている。
心からそう思う。
生命にはとうてい許容できない核の脅威を感じ、不安を抱えながら生きていく事は、
たった1度限りの人生において、その意味や価値を大きく揺さぶると思う。
もしかしたら私の生きている間は、核の撤廃は望めないかもしれない。
そして、放射性廃棄物は、未来人の為にモニュメントが必要では?と揶揄される程、
何万年も、途方もない間残され、放射能を出し続けていく。
事故が起きた今、一度しかない人生に、
これからは放射能はどうしようもなく、組み込まれていく。
そういう世界になってしまった。
でも、人は変わろうと思えば内から変われる。人の作る世界も変化できると思う。
 時間はかかっても、希望は持ち続けたい。
この国の人々の関心や認識は確実に変わってきている。
また、もっと多くの人々が関心を持つ事も必要だと思う。
対岸の火事ではなく、自分の人生のことして。

そして「海や大地や空は、未来からの預かり物」だということを、
これからは、ずっと、忘れてはいけない・・。


PS:80年代の映像と音楽・・今とは違うサスペンス的な黒い香がして、
私にとっては(ホラー映画よりも)心底怖かったです・・。
でも、午前中だったのに、老若男女、人は結構いました。
映画の内容を一部抜粋しましたが、記憶をたどっての記述の為、
多少誤差があるかもしれません・・。

2011/08/28

ミツバチの羽音と地球の回転

率直に感じたことを言えば、
「生きる」とは、こういうことだよな、ということ・・
そして原子力=核は、まるで生物全ての頂点に立ったかのような人間のエゴそのもの、
生命・生きるものすべてと、全く相容れない代物だ、ということ・・

祝島・・およそ500人の人々が暮らす島。高齢化、過疎の著しい島。
28年前に、島のまっ正面にある田ノ浦に上関原発の建設計画が持ち上がった時から、
島の人々はずっとずっと、戦ってきている。

私より遥かに年上のおばちゃん達が、「原発反対!」のハチマキをしめて、
大きなのぼりを担いで、雨の中でも、長時間でも、
原発を阻止しようと頑張っている姿に、
今までの私達の享楽に満ちた生活が、
その陰で苦悩し、戦う人々の上に成り立っていたこと、
そして、それは今日も続いているということに、
また、今まで自分が知らなかった・知ろうともしなかったことについて、
悲しみと苛立ち、苦しみが交差した。

島で一番若い青年は、ある日こんな問いかけを電話で受けた。
「祝島の人々はなんで原発にあんなに反対するんだ?」
この問いに、青年は「自分達の生活や暮らしを、守る為です」と答えた。
至極まっとうな返答だと思う。
しかし、電話の主に、そんなものの為に沢山の人に迷惑をかけて恥しくないのか?
と返されたという・・
そうだろうか?「生活や暮らし」は「そんなもの」だろうか?
だとしたら、私達の生活も「そんなもの」であり、「そんなもの」の為に、
原発事故を起こし、国中を暗澹とさせている。
それは、「迷惑」どころではなく、もはや「犯罪」ではないのか・・

また、中国電力が土地の埋め立てを強行突破しようとして、
漁師達が猛反発し、船を連ねて抗議をした時に、投げつけた言葉は酷過ぎた。
「第一次産業だけでこの島がよくなるとお思いですか?
人口は年々減っていて、お年寄りばかりの町になる・・・
このままでは上関町は衰退していくばかりですよ」
だから我々は貴方達の雇用を産み、若者を島へ呼び戻す救世主です・とでもいいたいのだろうか?
原発から絶えず放出される温水や、立地の為の埋立てによって地形が変化することで、
海の生物多様性が失われ、豊富な海が死に、
果ては島民の生活や、生きる糧の全てを失わせること自体が、
島を「衰退」させるのではないか?

ビワの実に大切そうに袋をかぶせながら、青年は言った。
「まえに原発推進派の人にビワだけで食っていけるわけがないだろう、と言われた。
・・・ビワだけで食っていけるとは言わない。この祝島で、全体で生きていく」

本当の豊かさとは、何だろう?
キラキラと光るネオンに、24時間体制の店、レストラン、テレビの中の渇いた笑い、
捨てる程にあふれたモノ、物、もの・・・

一方で、足るを知る生き方を、脈々と選択していく人々。
自分のできる範囲で慎ましく、子を育てながら、老人をいたわりながら、
自然を愛しみながら、感謝しながら生きる人々。

私達は、そろそろ真剣に「豊かな暮らし」を考える時期に入ったのではないだろうか。
うわべだけの豊かさは、かえって人間の魂を貧しくする。


祝島の人々、そしておばちゃん達が一生懸命守ろうとしているのは、
島だけではない。
「生きる」権利、そして「生命」そのものだと思う。
私達人類全体の為に戦ってくれているといっても過言ではないと思う。
そして未来への責任を、切ない程に尽くそうとしている。
綺麗な海を、空を、大地を、島を後世に残したい!残さねば!
という強い思いが一丸となり、強固な絆となっている。
それが、上っ面だけで「絶対安全、絶対海はよごれません」などと「言わされている」人々とは全く異なり、敵わぬ点だろう。
どちらの魂が澱んでいるか、崇高な程に輝いているか・・一目瞭然だと思う。


甚大な原発事故が起きた今、
そして今も収束がつかず、深刻な状態が続いている今だからこそ、
「生きること」そして「命」を一番に大切にするエネルギーの選択は何かを真剣に考えたい。
一部の権力や組織が私達の未来の行く末をにぎる世界は、もう嫌だと、心底思う。
心「豊かに」、魂が「崇高に」生きられる世界に向かって、
たとえ小さな羽音でも、考え続け伝えていきたいと思う。

『ミツバチの羽音は、地球の回転にさえ影響を及ぼしてるかもしれない』
私達1人ひとりの思い=羽音が、やがて国を、世界を動かしますように・・・

 鎌仲ひとみ監督に頂いた言葉・・「心つなげて!」をお守りに。。 


2011/08/27

十字架

「チェルノブイリハート」を見た時に、
今でも心に突き刺さっているのは、
自分の子供の手術をまえにさめざめと泣いていた母親の姿です。
母親は子供に何かあったら、一生悔い一生十 字架を背負うでしょう。


私も大事な家族だった子猫のあずきを亡くしてから、
もう半年以上経とうとしていますが、
悲しみが癒える気配はありません。
むしろ、想いはどんどん強くなり、
時々、強い自責の念にかられます。
ましてや自分の産んだ子であったら・・
きっと言葉を失うだろうと思います。

食品の基準値は、米だけでもありえない500ベクレル・・
それより厳しい値をとったベラルーシでは何が起きているのか?
考えただけでも、恐ろしい・・
子供に何か起きてからでは遅すぎるのです。

子供を、その誕生以前から脅かそうとしているこの国。
いったい、どこへ向かおうとしているのか・・

2011/08/22

外食が悩ましくなった日

原発事故以来、外食に行く足どりが重い。
食品の汚染状況が日々悪化していき、
そもそもの基準値の高さに、自分自身が納得していないから、
自ずと食品・食材に過敏になる。
やむを得ず外食を取る事になっても、
まず野菜や肉の産地が店頭や、メニュー、ホームページに明記されているかチェックする。
これをみて、私のツレはあまりよい顔をしないし、
友人や知人クラスでは、もしかしたら亀裂が入るかもしれない。
「わたし、放射能が気になるから、遠慮しとく・・」
なんて「ダイエット中」よりも酷に響くだろう。
なぜなら、放射能は皆に平等で、
その影響の出方はあらゆる病魔にして酷く、そしてロシアンルーレットに近いからだ。
皆、心の底では、不安に思っている。
でも、それを認めたくない・・認めたら、大変な心労や手間暇・労力が待っていると誰もが思う。
だから、意識は安全ベクトルの方へ自然に傾く。
信じたいものだけ見聞きするようになっていく。
そして疑う事もなく、「基準値以内」だから「安全」と信じるだろう。
そこに、「基準値」に対する疑問や、
本当に「安全」か・など、考えてはあってはいけないのだ。
「忙しくって、そんなの考えている余裕がない」という言葉を聞いた事がある。
本音だろうと思う。
放射能は見えないから、無視しようと思えばできるし、
あとは思考停止させて、「安全宣言」に従っていればいい。
そのうち病気になるかもしれないが、
それは自分の健康管理や不摂生のせいかもしれない。
そして「人間、やがては死ぬのだし」という諦めにも似た結論と結果が待っている・・

放射能を心配して食材を選んだり、浄水器等をつかったり、色々と情報収集する事に、
「やっても無駄、考えても無駄、しょうがない」と
何度か言われた事がある。私も閉口する。
そこで思う。
なぜ、他人に「無駄」等と、そこまで言われなければならないのだろう。
無駄、取り越し苦労と思いながらも「そうか、心配なんだね、頑張って」でいいではないか。
私も、自分は放射能に対して策を講じるが、
「一緒にやろう!頑張ろう!!やらないとやばいよ」等とごり押しした事はない。
会話の中での、一節に過ぎないのに、
「無駄」等と、逆に過剰反応するのは、相手側にも不安心理があるのではないかと思う。

「図星」という言葉があるが、相手の弱点を突いたような事をいうと、相手が怒る場合がある。
それは相手が自分の中で一番気にして、触れられたくない部分、
見られたくない部分を見られた事への、過剰防衛反応とでもいうのか。
放射能問題の会話はそんな事と似ている気がする。
心の奥底では、本能のレベルで、「身体」自身が不安に感じていてもおかしくはない気がする。
それだけ、放射能は不気味で恐ろしいモノという事だろう。
人々にとって、放射能のミエル化がまだ確立されていないゆえに、
霊魂のように「信ずれば見える。信じなければ、みえません」の世界に未だ等しい気もする・・

防御するも、しないもその人の選択だ。
押し付ける事もないし、侮蔑する事もない。
それぞれの人生、それぞれの生き方だ。
だけど、例えば自分が、自分の放射能への不安や防衛策を相手に話すには理由がある。
いたずらに不安を煽りたいわけではなく、共感して欲しいわけでもない。
だんだんと自分に嘘がつけなくなってくるからだ。

不安とおもっているのに「安心」であるようにふるまうこと・・
心配なのに「安全」だと装って、食材を口に運ぶこと・・
そこの土地や食材は「危険」だと思っているのに、それを黙っていること・・

徐々に外面だけ装っていることに疲労し、嘘をつくことに耐えられなくなってきた。
だから最近は、「変な奴」「過敏症」と思われるのを承知で不安や不信感を口にするようにしている。
それで、離れていっても、それはそれで良いという前提で。
もしかしたら、その人の心の片隅に、私の言葉が一片でも残っていて、
いずれ役に立つことがあるかもしれない・・それはそれで良いではないか。
あらゆる情報を多方面から収集し、「チェルノブイリの子供達」など、
影の真実を知った人々は同じ様な悩みを抱えているのではないだろうか・・
ツイッターを通しても、日々それを強く感じる。


「しょうがない」という言葉は苦手だ。
「考えてもしょうがない」は思考停止を意味していると思っている。
思考を水の流れに例えてよく思う。
水は流れ続けているから、清らかなのだ。
思考も一緒・・流れ続けるから、クリアな能力を保っていられる。
そう信じている。
だから私は、これからもずっと、考え続けます。



2011/08/20

チェルノブイリハート

まず、映画の詳細についてはあまり触れずに、
率直に感じた事だけ、書いていこうと思う。

正直をいうと、「福島や日本も、いずれこうなるのでは」と、思ってはいても、
軽率に言えないし、言いたくない。
口に出すのも、ためらう。
それ程に、深刻で残酷で、悲しい内容だった・ということだ。

子供を心配して、苦渋の表情に、大粒の涙を浮かべる母親の姿・・
疲労と困惑の表情を浮かべて、半ば諦めにも似たため息をつかざるを得ない医師や看護師達・・
「ちきしょう!!くそったれめ!!」と、表情を変えずに唱える様に呟き続ける事故当時の避難者・・

これらがすべてを物語っている。
これらすべてを、今の日本に当てはめられる程、私の心は成熟していない。
理解するのを阻止しようとする、余分な感情までも湧き出てくる。
「そんなことない、そんなことないよ」だって見渡せば、
何事もなかったかのような、汚染等ないような景色が、
いくつもいくつも、そこいらに、散らばっている・・・

そこで、思う事がある。
今も、チェルノブイリ原発事故の悲惨な後遺症に悩まされるベラルーシやウクライナ。
そこの事故当時のセシウムに対する食品の基準値よりも、
今の日本の食品基準値が高いという事は、
一体どういう事を意味するのだろう?
例えば、「ウクライナの飲料水の基準値は1キログラム当たり2ベクレルに対し、
日本はセシウム134と137の合算値は200ベクレル(7月:AERAより)」
野菜や肉に関しても、同雑誌に解り易いグラフがあり一目瞭然だが、
日本より基準の厳しい場所で、
25年経った今でも深刻な後遺症に悩まされているという事実を目の当たりにし、
では、それよりも明らかに緩い基準での日本は、
今後どうなってしまうのか?っと率直に思う。

今日、初めて米からも検出というニュースを聞いた。
米の出荷制限の基準は500ベクレル・・・それ以下なら、私達の食卓に・・
日本人の大事な大事な、ほぼ毎日摂取する主食である。
本当に、安全なのか?

罪深いのは、原発を選択してもいない、
まだ見ぬ生命が脅かされているという事だ。
映画の中で、「ナンバーワンルーム」には、親から見捨てられた障害児達が、
所狭しと寝転がり、ただ生きているという現実。
大きなコブを後頭部に負いながらも、抱かれたその胸に頬を寄せる赤ちゃんのその愛らしさは、
他の健常な赤ん坊と何ら変わらく見えた。
それは、知的障害児でも、水頭症の子供達でも同じ・・
彼らの笑顔は、天使の微笑み、そのものに感じた。
だから、余計に、悲しく切なかった・・・
この子たちの両親もきっと、苦しみ、断腸の思いを味わったろう。
目玉がふやける程に、泣明かしたに違いない。
その現実を、例えば、私自身に当てはめる勇気が、
私はまだ、持てない・・・
私も自分が子を持つ望みを、まだ捨ててはいないからだ。
いかなる場合でも、私は自分の子を愛します、愛せます!と、
胸を張って言える自分が、悔しい事に、いないからだ・・・

だから、これは日本の向かう姿だろう・・と、うっすらと、ぼんやりと、
しかし強烈に感じてはいても、
私は声に出して言う勇気がない。
それ程に、恐ろしく、悲しい映画だった。

今後、内部被ばくの直接の原因となる、食品や水・飲料に対する基準が厳しくなり、
子供と妊婦、さらに今後次世代を生むであろう女性の身体を第一に考える方向に進んで欲しい。
そして、増大は避けられぬであろう、癌の他、多種多様の病魔に対し、
医療機器や医師の教育等、万全な体制を整えて「その時」に備えて欲しいと切に願う。
もしかしたら、私自身や私の大切な人達も、
何年後、何十年後かに、病に倒れるかもしれない。
自分の事、大切な人の事と重ねて思う程に、
この映画は「真実のもの」として、語りかけてくると思う。


日本で放出された放射能は、世界を、地球をも汚染した。
国境は人間がつくっただけのもの・・
海や空に国境は無い。
ということは、この原発事故の問題は、
私達だけの問題ではないという事も素直に理解でき、
また、頭に入れておくべきだと思う。
命はつながっている・・その言葉通りに。

過酷な運命を背負いながらも、懸命に生きている「チェルノブイリ」の子供達に、
土下座をして謝りたいくらいです。
過ちをまた、犯してしまった国の、1人の人間として・・
本当に、本当に、ごめんなさい。


PS・・
セシウムの検査で値が高く出てしまった、高校生。
大好きな木イチゴのジャムを計測したら、みるみるセシウムの値が上昇した。
「これは食べるのをやめなさい。これを食べる度に君はセシウムを摂取する事になるのだよ」
と先生に言われ、はにかむ笑顔を見せた。
きっと、このジャムを毎日、パンにたっぷりつけて、ほおばっていたのだろうな・・
状況が目に浮かんで、微笑ましくも、辛かった・・
これが、日常が破壊されるという事だ。


そして、本日の映画館、場所は渋谷であったが、
鑑賞者の少ない事もショックであった。
雨にもかかわらず、街にはあんなに沢山の人がいたのに。
この国の関心度はこんなものか・・と思いたくないが、目の当たりにしてしまった。
辛いのは百も承知だが、「知る」という事は、
自分の中で考える事に通じ、やりなおすきっかけになると思う。
そういう意味で、この国の人全てがこの「事実」を知る事も必要だと思っている。
この無残で悲惨な現状を幾つもふまえた上で、包括した上で、
このリスクを背負ってでも、原子力=核を推進しますか?
という問いかけをした時、
私達は、どう答えを出すであろうか・・・
出すべきだろうか。








2011/08/12

イルカの日

この作品は以前聞いたラジオで紹介されていて、
見るのにはいささか心の準備が必要な作品だと感じていた。

痛烈に悲しい作品だと、冒頭から感じて、苦しかった。
イルカの姿がそれは神々しく、和やかで美しくあるほどに、
悲しく切なかった・・・


これは、イルカの知能の高さと信頼感、「心」そのものを、
私利私欲のために利用しようとする、人間のエゴのおぞましさを描いた作品。

前半の、博士とイルカの、愛に満ちた交流が心を揺さぶるだけに、
後半は胸が締め付けされるように、辛かった。

研究所で産まれたアルファというイルカが、その知能の高さゆえに、
人の言葉を理解し、話し始めた時から、悲劇は始まっていた。

自分の名前を呼ばれて、
けなげに 「ファー!」 と返事をする姿・・

「ファー パパ 大好き」
と言って、博士の足に愛らしくすり寄るアルファの姿・・

恋人のビ―と別れ別れにされ、猛烈に怒りながら、
「ビー 今すぐ かえして」 と、懇願する姿・・

どれも胸に迫る。


人を信頼し、人の言葉を信じるが故に、
暗殺利用目的で誘拐され 、爆弾を装着される姿・・
人はこの時、恋人のビーをも利用する。
恋しい、愛しい、守りたい・・という心そのものを利用しようとする。

そして、最後は人に追われる身となり、
安全の為に、大好きな博士と、永遠の別れをしなければならなくなった。
「ファがいるから パパはいじめられる」と聞かされ、
 寂しそうな表情をうかべて、
「 ファー 行く 」と・・
そして、いつまでも、博士を追う姿が、
福島原発事故により、20キロ圏内でやむを得ず置いて行かれた、
かつての犬や猫や牛、馬、鶏などの悲しい姿と重なる・・

イルカだけではなく、私は全ての動物達には「心」があると思っている。
そして、それを信じる人にとっては、
この作品はあまりにも悲しい。
きっと、原発事故により亡くなっていった多くの動物達も、
その死の直前まで、もしかしたらそれ以後も、ずっと、
飼い主さんの事を信じて待っていたのかもしれない。


この映画は映像や音楽が素晴らしいが、
ただそのイルカの魅力=賢さと愛らしさを表現しただけではない。
その無垢で純粋な魅力が、
生物の頂点に立ったかのような奢りと傲慢さで、
権力の為には、何でも利用しようとする人間のおぞましさをより恐ろしく、
増幅させる。


嘘ばかり言う人間に対して、ファーは言う。

「人間 無い事ばかり 言う」

それでも、人を信用し、愛そうとするファーやビ―の姿を、
むしろ、人間が真似し、学ぶべきではないかと思う。


昨今、とある水族館で、イルカが稽古中にジャンプの着地を誤って、
胸を強打し、亡くなったというニュースがあった。
悲しい事故だった・・
狭いプールの中で、人に芸を見せるためだけに産まれてきたわけではないだろうに・・
私はこのような事故が二度と起こらない事を、本当に心から願う。

そして私達は、自分達の私利私欲や娯楽、興味のために、
不必要な命を犠牲にはしていないだろうか・・と
いつも心の中で問うていく必要があると思う。














2011/08/09

アトミックカフェ

映画「アトミックカフェ」を見た。
きっかけは、今年のフジロック。
311以降に発生した原発震災を機に、フジロックで反核を掲げる「アトミックカフェ」が復活した。
フジロックでは開催中の三日間、自然エネルギーで運営されるアバロンステージにて、
有識者のトークショウやアーティストのライブで盛り上がり、
また福島原発や日本の現在の実情について様々な話がなされた。
そこにいた人々はそれぞれ、何かを感じ、想い、核について真剣に考えたのではないだろうか。



「アトミックカフェ」・・1982年に公開された、核兵器に関するドキュメンタリー映画。

冷戦時代の当時、人々がどのように国やメディアによって扇動・洗脳され、
核の時代へと盲進していったかが皮肉をこめて、如実にスクラップされている。

水爆実験の爆発を、「美しい」と豪語する兵士・・
放射能は何ら問題ないといわれて、
不安を抱きながらも爆発実験に間近で参加させられる若い兵士達・・
線量計をつけていたが、一体どれほどの被曝をしたのか。
多分本人達には知らされず、科学者たちの興味深々な眼差しを、
長期に受けたのではないだろうか・・

実験により生成された放射能の危険性を軽視させるような情報の拡散。
近隣の住民には、バスタブで石鹸を踏んでころんだり、
台所で日常おこるような危険性と同程度だから、安心せよというプロパガンダ・・
万が一ハゲても、とりあえずかつらをかぶっておこう。そのうちまた生えてきますよ・等と、
ユーモアを交えて伝える。

そして子供たちへの洗脳。
可愛らしいカメさんが、「ピカっとしたら、すぐ隠れる!いいね!」とにこやかに言う。
そして、避難訓練の様な、被ばく防止訓練の模様・・
(私はこれをみてプルトニウムを飲んでも大丈夫と言っていた、プルトくんを思い出した)
 危険な事実をはらむモノは、いつだってまず子供達を抱き込もうとしないだろうか。

世界の平和を守るために、我々の生活・日常を守るために、
「核は必要です!」と言い続ける国とメディア。何かに似てないだろうか。

そう・・・今のこの国そのものに見えてしまう。

「停電が起こるとクーラーが止まり熱中症で死亡するかもしれません。」
「経済が衰退し、日本はこれ以上の繁栄は望めない。私達のこの生活水準も保てない。」
(=だから、原発必要です)
最近まで、TVで嫌という程、耳ににしてはこなかっただろうか。
そして、放射能は、「直ちに影響はありません。」と言われ、
子供は20ミリシーベルトまで安全とされ、
食品の安全性も不確かなまま、
「スピーディ」であるべき放射能拡散予測等、情報公開は一切なされてこなかった。
そして今も煙にまかれたまま、私達は、放射能の霧の中をさ迷っている・・。

連日、NHKなどで、ビキニ環礁の被曝者やロンゲラップ島の住民の証言、
広島・長崎の被爆者の告白や、
チェルノブイリ原発事故被曝者の今も続く過酷な実状が報道されている。
それら点の数々が、この映画で一つの「線」となった。

核=原子力。これは紛れもない事実と思う。

この映画をみて、国民への情報操作の有り様を見ただけでも、それを痛烈に感じる。
そして、今もに似たような事が起きている最中ではないか・とすら思う。


この映画には冒頭に、広島と長崎の原爆投下の映像も出てくる。
第二次世界大戦当時の映像であるから、
私達の立つ位置とは真逆の視点で語られており、
映像や言葉は無残で辛く、思わず目をそらしたくなる。
明日は、長崎の原爆投下の日・・・・・とても複雑な思いで、この映像を見た。

やはり核は人を幸せにはしない・・・
核のある未来に平和は来ないだろうと、猛烈に思う。

今、「チャイナシンドローム」と同様に、多くの人に見てもらいたい映画です。









2011/08/03

わさび 4回目の誕生日

写真は来たばかりの頃の、幼いわさび。
この表情によく釘づけになったものです。
今も、時折、様々な事を中断させる名人(猫)ですが・・。

今月は、わさびの4回目の誕生日。

推定ですが、8月1日にお祝いしています。
私達の家族であり、宝物です。

出会えてよかった!これからも、よろしく。
そして、どうか長生きしてね。。

夢の中の子供

今週のアエラ「放射能と妊婦の心」を読んで愕然としました。
福島ではすでに、放射能の影響ででるといわれる先天性の異常を懸念して、
せっかく授かった命を中絶している事例もでてきていると・・・

昨今の報道で、日本の人工中絶が増えていると聞きました。
その原因の一つに、妊娠中の検査がより精密になり、
先天性の異常の可能性が、
以前にもまして発見し易くになってきたからだといいます。

非常に悩ましい事態の上に、さらに放射能の不安です。
この国の未来である子供達は、
この世に誕生する以前から、命を脅かされてしまっている・・
あまりにも残酷な現実です。


最近、「子供の夢」をよく見ます。
乳幼児を抱いている夢、幼い女の子の頬を拭う夢・・
一生、子供を持たないだろう・・と思う一方で、
子供が欲しいという潜在的な願望もあるのでしょう。
そして、この放射能に汚染された国にいる限り、
本気で子供が欲しいと思ったとしても、
もう叶わないのではないか、と本能的に感じているのかもしれません。

だからこそ、私の心は充足夢をみる事で、
自分自身を癒そうとしているように感じます。
そんなふうに思うと、
昨日拭った幼い女の子の頬には、
涙がつたっていたのではないかとさえ、
思えてくるのです。