Kyon {Silence Of Monochrome}

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2015/10/23

映画『マチルダ』

映画『マチルダ』
何気なく目にした1996年のアメリカ映画だが、見終わった後に、どうもひっかかるものがあり、
まるで喉の奥に小骨がささっているかのようである。

マチルダというリボンの似合う、可愛らしい少女が主人公。

赤ん坊は、その生まれ落ちる家庭や家族、環境を決して選べないが、
そうだとわかっていても、マチルダは特に不運な子だった。

家庭は俗にいうB層の貧困家庭。学がなく反知性的、享楽的で拝金主義。

ネグレクトに暴力、暴言・・・マチルダへの両親や兄の態度は、非道な虐待そのものであった。

一方でマチルダは、トンビがタカを産んだというのはこのことで、
赤ん坊の頃からとびぬけた才能を発し(両親は気づかない)
抜群の知性を持ち(ここでも両親は無関心)、
6歳にして図書館に足げく通い(両親はやはり気づかない)、ありとあらゆる本を読みあさり、
スポンジが水分を吸収するかのように、様々な知識を得て、
その才能に磨きをかけていった。


印象深かったのは、この映画に出てくる、家族の「文化」の低俗さ。
象徴的なのは父親のステレオタイプにまみれた、稚拙な差別的発言。

父親がマチルダの本を取り上げ「こんなものを読むんじゃない」と怒鳴りつける。
それをマチルダが拒否すると、

「子供は悪 大人が善、子供は間違い、大人が正しい」と平然と言い放つ。

そして本を奪い取り、放り投げる。これは立派な虐待行為だ。
普通の子であれば、いっぺんに恐怖を植付けられ心理的ダメージを与えられる。
これを繰り返されれば、本を読む気力も起きぬことだろう。
禁止されればなおのこと。子供にとって、どんな親でも、親は「絶対の存在」なのだから・・・

母親の態度も底抜けに悪い。学校から帰ってきたマチルダに対しての無関心。
マチルダが一生懸命、学校での出来事を話しても、聞く耳も持たず、
受話器片手に、もう一方の手は片方の耳をふさぎ、
友人とエステや豊胸手術の話で盛り上がり、完全無視をきめこんでいる。
マチルダが「なんで話をきいてくれないの」と聞くと、「重要な話をしてるのよ!」と突っ返す。
「自分が学校どうだった?と聞いてきたんじゃない」ともっともなことを言い返すと、
ばつが悪そうに「それは社交辞令でいったのよ」などと子供に言う・・・

これも子供の人権を無視した、卑劣な虐待行為だと、私は思う。

この家庭での、食事の質や行儀の悪さ、いい加減さも目に余る。
こういう家庭では、普通の子であれば常に栄養失調状態であり、
大切な発育期に重要な栄養素も欠け、しいては子供の知能や性格、健康面、その後の将来にも悪影響を及ぼす可能性があるであろう。
恐らく、朝食や夕食を家族そろって食べ、談笑しながら団らんをするという慣習もないだろうから、
家族間の意思疎通も希薄なものとなり、その様な場で培われる子供の情緒やコミュニケーション能力も貧弱なものになるだろう。

極めつけは「テレビ」の場面だった。

父親、母親、兄はよってたかってのテレビ好き。
B層の好みそうな下劣なお笑い番組を見て、添加物盛り盛りの菓子やジュースを飲食しながら、下品な笑い声をあげている。
その傍らで、ソファにちょこんと座り、静かに本を読むマチルダに、父親は「そんなくだらんものばかりよむんじゃない」と本を取り上げ、自分たちと同じように下品なテレビ番組を見ることを強いる。

マチルダが「そんなものばかりみていると馬鹿になるわよ」とさらりと悟し、頑なに拒否すると、
「家族ならお前も見ろ!」と小さな女の子の顔をむんずとつかみ、両手で固定し、強制的にテレビを見させた。

賢いマチルダは、学の低い粗野な両親や兄にとって、自分たちの貧弱な知性を顕在化し、その事実を否応なしに確認させる憎き存在。イコール、自分たちの存在を脅かす「脅威」そのものなのである。

反知性主義的享楽に溺れる集団の、時に顕著となる仲間意識は、同じ行動を共にすることで強化される。
同じような服を着(ファッションセンス)、メイクをし、言葉を使い、時に逸脱行為をするのは、お互いが同じ「仲間」=いつメン(いつものメンバー)であることを確認し、互いを安心させる。
だから、両親と兄は自分たちの保身と安心感のためにも、
「家族」としてマチルダには強制してでもテレビをみさせる必要があった。
ひるがえって、家族の歪んだ愛の表現だったのかもしれない。

しかし、嫌だということを無理やり強制させるのも、私は子供の人権を無視した虐待行為だと思う。


こういったマチルダへの憎悪と虐待行為を促す原因となっている、両親たちのコンプレックスが垣間見れたシーンがあった。

マチルダを心配し家庭訪問してきたハニー先生。美しく聡明な女性の教師である。
ここでも、両親はおかまいなしに、スポーツ観戦のためテレビに釘付け。
それでも、大切なマチルダのことだから・と面談を要求する先生に対し、
「テレビを消すと女房の機嫌が悪くなるぜ」といいながら、しぶしぶテレビを消す夫。

夫の言う通り、すっかり機嫌を損ねた妻は、ハニー先生にこう言い捨てる。
「大学を出ているからって、偉そうにするんじゃない」

そして、「インテリさん、あんたより私のほうが幸せだ。こうして美貌を手にし、金持ちと結婚している。あんたはただしけた子供の相手をしているだけ」だと言い放った。
しかしこれこそが、この両親の秘めているコンプレックスであり、それが源泉となって生まれる視野狭窄的ステレオタイプの発想、表現そのものだと感じた。

学の無い自分・・いや、もしかしたら、彼らの両親もまた同じで、そのうえ貧困家庭でもあり、学べる環境が備わっていなかったのかもしれない。
親の学力の低さや貧困状況は、往々にして連鎖するという。
その家族特有の「文化」もそうだ。言葉使いや思想、癖、食事の好み・・こういったものが文化として、家族で代々受け継がれていく。
両親が太っており、子供も同じく肥満体型なのは、遺伝というよりも、食生活に原因があると聞いたことがある。
それは時に深層意識にまで到達するような、刻印(スティグマ)として・・・

若い頃は知性や学問などそんなものに頼らなくとも、気合と勢いで生きてこれたかもしれないが、ミドル世代に突入し、気合と勢いだけではどうにもならない現実を、まじまじと見せつけられる。
そういう苛立ちや不安、恐怖感といったものが、自分達よりひ弱で無力な子供たちに、虐待という形で向けられるのではなかろうか。



これは子供向けの映画であるから、天才少女であり超能力をも備えたマチルダは、幾多の困難も乗り切っていく。

しかし、現実は、そうはいかない。
私は、このような劣悪極まりない家庭や環境に身をゆだねるしかない、多くの不幸な子供たちのことを考えずにはいられなかった。
現実には超能力も、魔法もないのだから・・

しかし、唯一救いだったのは、良識と愛の備わった先生の存在だった。

現実にも、ハニー先生の様な存在に、救われる子供たちは沢山いるだろう。


テレビの場面で思い出したことは、私も両親がテレビを見て大声でゲラゲラ笑うその姿が、心底いやだったということだ。
「そんなものばかりみてたら頭が腐る」と吐き捨てたこともある。

テレビのおかげで、家族の会話もあまりなかったように思う。
皆、一様に画面に向いて、お互いの顔も見ず、話などしなかったからだ。
テレビ以外にも、テレビゲームについても同様の憎い思いがある。
だから、私は今でもテレビとテレビゲームは好きではない。
人間が、魂と魂を触れ合う機会を、これらは奪うものだと、今でも考えている。
(これに関しゲーム好きの人が反論するには、ゲームを通して互いのコミュニケーションをとっているのだというが・・)


冒頭の「ひっかかり」は、この幼少期に感じた家族の違和感、
深層意識に置き去りにされたその頃の憤りや悲しみのようなもの、だったのかもしれない。
マチルダが、テレビを念力で破壊したときは、おもわず微笑んでしまったが、
幼いころの私も、同じことをしたかったのだろうと思う。

1996年に放映されたこの映画も、
既に到来していた拝金主義・テレビ信仰時代のアンチテーゼだったのかもしれないと思うと、
子供向けとはいえ、なかなか深い作品だったと思うのである。


そして何より、子供にとって親は唯一無二の存在であり、絶対なのだということだ。
どんな親でも、子供はかばうのだ。それが虐待する親であっても・・

マチルダの様に天才でなくても、超能力がなくても、
その家庭の低俗な文化に溺れることなく、人知れず知性を磨き、知力を備えておけば、
いつか、そこから脱出し、飛び立つ時がやって来たとき、
それらの力が自分を助けてくれるものだ。


とくに、今、この国に蔓延る、反知性主義的、野蛮な空気に対し、
「知は力なり」と強く思うのである。

















2012/11/22

映画『希望の国』

ヒューマントラスト渋谷にて『希望の国』を観てきた。
午前中はやい時間帯にもかかわらず、老若男女、様々な人がそれなりに入っていた。

園子温監督の作品は『愛のむきだし』が好きだ。
この映画については観て随分経った後に、園氏の作品だということを知った。

『希望の国』は3月11日のあの福島原発事故を描いた作品ということもあり、
ずっと注目をしていたが、『愛のむきだし』の園監督の作品ということもあり、
個人的には、「観なくてはならない」作品の一つだった。



この映画は、単純に反原発の映画ではないと思う。
切り口によっては印象が変わり、様々に感じ取れるような表現が随所にあった。


個人的に印象的だったシーン。

・最後の海辺のシーン。高線量域から避難してきた夫婦。妻:いずみ(神楽坂恵)は身ごもっている。
何気なく夫:洋一(村上淳)がガイガーカウンターを見ると、1ミリシーベルト以上の数値が表記されている。
不安げな表情を浮かべていずみを見る洋一・・・
近寄っていき、それを伝えるのかと思いきや、何も言わずにそっと妻を引き寄せ抱きしめる。
妻は「愛があれば大丈夫」という言葉を繰り返す・・・

これは様々な見方ができるのではないかと思う。

あれだけ放射能を怖がっていた妻が、近所の笑い物になっていた防護服を捨て、空気の汚染を気にせずにマスクを外し深呼吸し、輝くような笑顔を浮かべている。たとえ線量が高くても、気にせずに、愛と希望をもって生きていければよいではないか・・という見方。
狭い土地に54基もの原発がそこかしこに立ち並ぶ日本・・・そのような国に、もはや安全な土地など無いといえる。どこでも原発事故は起こりうる。それでも、生きていかねばならない・・という見方。

私は後者の意味を感じたが、人によって様々だと思う。


・妻、いずみの放射能に対しての極度な対応。それを心配した洋一は医者から言われる。
「奥さんは放射能恐怖症です」
一方で、医者は放射能の安全性に対して「医者が嘘をついている」と言う。 現実的な危険があるということを認識していながらも、妻の症状に対して「放射能恐怖症」という言葉を当てはめる。

たしかに、あの宇宙服のような防護服、スーパーで購入するもの全てを計測しようとする、
窓を全て塞ぎ寝室にもラップ等を敷きつめる・・その姿は滑稽に見え、病的な「恐怖症」の域なのかもしれない。
でもその姿を笑えない自分がいる。自分も相応に放射能が怖いし、ずっと嫌だと思っている。
検査をしていない食材は口にいれたくないし、それ以前に国の基準(100ベクレル安全)を信じていない。マスクは常につけているし、風向き、近所の放射線量もチェックしている。
あの妻の恰好はいわば、内なる恐怖を「可視化」したものであり、メタファーであると思う。
あのような極端な表現をすることで、既に311以降見えない恐怖と闘い続けている、特に女性・妻達の息苦しさを吐露させ、カタルシスを生む効果を有しているとも。
自分は「放射能恐怖症」と言われた妻のその恐怖がよく理解できた。

「これは見えない戦争なの。弾もミサイルも見えないけど、そこいらじゅう飛び交っているの。
見えない弾が」
いずみの言葉は見事に、現実にある「恐怖」を言い当てていると思う。


矛盾ともパラドックスともおもえる表現の中で、様々な印象や解釈をしながら、311原発事故を再考する。特に、忘却の早い都会の人間には必要な作業だと思われる。

長期間にわたり、福島から電気をもらい、危険なものは地方に押しつけて、湯水のように電気を使い、享楽的な生活を享受してきた、都会の人間にとって、もう一つ必要な作業・・・
それは311原発震災を胸に「刻む」こと。

ラストシーンには、賛否があると思う。
園氏はかつてNHKの番組で「あのラストは確かにきつい」いっていた。
でも、忘れない為、「刻み込む為」に必要なのだと・・・

現実に、2011年3月、あの原発事故の後、酪農家の方や農家の方の自殺が相次いだ。
残された馬や牛、犬や猫達が、餓死や共食い等、壮絶で悲惨な死を遂げた。

私達は映画を見る時に、単にエンターテイメントや、喜びや多幸感ばかりを求めているだけではない。
2時間、暗闇の中でとっぷりとその作品と向き合いながら、自分の問題として考え、感情移入し、胸に刻むということをする。それが映画の仕事であり、魅力であり、私達が映画を見る動機の一つであるとも思う。

『希望の国』は私にとってそういう映画だ。
ラストシーンでのあの衝撃と悲しみは、実際3月11日に現実に起こったものだ。
いや、現実はもっともっと、厳しくて辛く、耐えがたいものだと思う。
自分の今感じている気持ち以上の事を感じた人々が、実際に存在し、今もその苦しみと闘っている。今この時も、明日も明後日も・・・そう考えること感じることが、
私達都会の人間にはもっともっと必要なのではないか。


終始一貫して出てくる、「帰ろうよ」と言う言葉・・
この言葉が全てを物語っていると思う。
帰る場所は、311以前の平和で満ち足りた普通の生活なのか、
心のふるさとのことなのか、
あるいは死の世界のことなのか・・・


認知症の妻:智恵子(大谷直子)への、夫:泰彦(夏八木勲)の応対の仕方は、
とても丁寧に描かれていて好感が持てた。
決して否定せず、言葉をかけて優しく寄り添う。同じ会話を繰り返されても、
言葉遊びを楽しんでいるかのように、大らかに。
そうなるにはきっと茨を踏みしめるような思いをしてきたのだろうと想像する。
いかなる人にも尊厳を忘れない、人間として尊重する姿勢というものの大切さを考えた。

そして、そんな自分を20代と思いこんで可愛らしく微笑む智恵子こそ、
全てを知って、受け入れようとしているのだと・・・


津波の被害も忘れることはできない。
かつての面影を失い、荒れ果て閑散とした街に、何度も行方知れずの家族を捜しに訪れるミツル(清水優)とヨーコ(梶原ひかり)。
そこに二人の子供の姿・・・男の子と女の子がふっと表れ、すっと姿を消すシーンがあった。
一見微笑ましい光景にもみえた。が、あれは、この世の者ではないと、私は感じた。
そういう、あの世とこの世の境目にあるような言い表せない凍てつくような悲しい空気が、
今も被災地にはあるのではないかと思う。
そして、この子供達は、ラストの認知症の妻とその夫の姿にも通じる、伏線ではないかとも感じた。

 一方で、随所に出てくる、食卓で何気に付けられているテレビの映像。
一般家庭ではどこでもみられる風景だろう。
ただ、このテレビの存在が、特に都心において、いかに原発事故や震災が他人事のようにとらわれているか、皮肉に物語っている。
「不安は忘れて、どんどん、食べ、どんどん、頑張りましょう!」
軽快にアナウンサーがうったえ、うんうんとうなずく一般人・・・
そんなテレビを前にして静かに食事を続ける、被災者である老夫婦の姿・・・
そこに漂う空気のその違和感こそ、地方と都心の認識の乖離そのものだと思う。
それは事故により、より顕在化したのに、それを認識し改めようとする人々は少ないと感じる。
皆が同じならそれで、皆が安心と言うならば安心でOK!という空気にそった生き方が良しとされている。
自分と違った考えや行動をする人=異端者への偏見、差別は、こうなると地方も都会も何ら変わりはない。
その偏見・排他意識を生む「装置」の一つが、私はテレビだと思っている。
またテレビというフレームのなかに入る(入れる)ことで、なぜか現実が「非現実化」してしまう不思議。 不気味さ。視聴者の意識を現実から乖離させるのは、テレビの特性とも思える。
それを如実に表しているように感じた。


一緒に見に行ったツレアイが「なんで、希望の国、のなかな?」といった。
「それでも、希望を持って生きていこうよ、いうことではないか?」と返したら、
ツレは「自分はアンチテーゼのように感じる」と言った。
なるほど・・・と思った。この国への、アンチテーゼ。


忘れる・ということがいかに危険なことか。
その危険がどれほどのものか。
忘れるということは、次にまた繰り返すということだ。
戦争も、原発事故も・・・
だからこそ「刻むこと」が大切なのだと、この映画は教えてくれる。

タイトル一つをとっても、意見が分かれる。
ましてや、原発事故の映画。土地や、立場、性別、年齢、観る人の価値観などで様々な解釈がなされ、物議が生まれ、賛否させることだろう。
それこそが、今必要なのではないか?
それこそ、この映画が投げ掛けているものではないだろうか。


あるラジオでの園氏のインタビューでは、こうも聞いたことがある。
「原発の映画と言った途端に、スポンサー候補が蜘蛛の子散らすように去っていった」と・・・
事故以前ならまだしも、悲惨な事故をおこした当事者である現在であってもこの有り様なのか・・。耳を疑った。なんて残念なことだろう。
原発の闇は、底がみえない程に、深い。


その中で一筋の光・・「希望」といえば、やはりこの映画のことだろう。
わたしはあまり日本映画は好まないけれど、
日本の映画にはまだ「希望」ある!、そんなふうに思えた作品だった。


様々な圧力や逆風に耐えながらも?この映画を取って下さった園子温監督に感謝します。
そして特に都会の人々に、1人でも多くこの作品を見てもらいたい。
存分に感じ、話し合い、胸に刻んで欲しい。
後世に、こんなことがあったのだと、語り継いで欲しい。
なにより、3月11日あの日に起こったこと、
そして今も・・・未来永劫ずっと続く放射能汚染についても、忘れてはならないと思います。

『希望の国』公式サイト













2012/06/07

映画「フード・インク」~安田節子氏・枝元なほみ氏の対談を聞いて

TPP=環太平洋戦略的経済連携協定。
今月にでも野田首相は参加表明をするのでは…という懸念が広がっている。
そもそも、TPPとは何なのか。
まずTPPを推し進めてくる米国(多国籍企業)を知ることから始めたらよいのではないだろうか、
そして米国を知り日本の未来を推測するためのよい参考になると思い、
この映画『フード・インク』を観ることにした。

冒頭から整然と商品の並ぶ、清潔感のあるスーパーが映る。
山積みにされた大量のトマト。
そして「これは、トマトという『概念』を食べているに過ぎない」という
不可思議な言葉が続く・・・

大量消費時代(これも仕組まれたシステムと思う)の効率至上主義にのっとった食の「工場化」。
畜産の飼育場や養鶏場も例外ではない。
今、鶏は従来より半分の日数で育つように改良(操作?)され、49日で育つ。
人は胸肉の部分を好むという。だから、従来よりも胸肉が大きく育つようになっている。
それを「化学技術の成果だ」と手放しに喜んでよいものか?
不自然ではないだろうか?
鶏自身はその急激な成長についていけず、成長した鶏は立とうとして何度もよろけ、
中には骨折するものもあり、悲しいうめき声を上げながら生きたえ、処分される。
鳥たちは太陽の光の届かない暗がりで一生を終える。
大企業に雇われ、借金まで背負った養鶏家は、
圧力に屈して口を閉ざし、多くを語らず、内部の撮影も許されない。
鳥達が寝静まった頃に回収しにくる者達は、これも下層にいる者達ばかり…
それは畜産現場でも同じで、汚れ役はマイノリティや低所得者にまわされる。
ある現場での話では、従業員は「豚」と同様に扱われるという。
「豚はすぐに殺されるから、快適さを考慮する必要はない」
そして鶏も豚も牛も、末端にいる従業員も、虐待されるという…

「豚を命ある者として扱わないということは、私達自身にもふりかかってくることだ」と指摘したのは、
この映画の後、お話をお聞かせ頂いた料理研究家・枝元なほみ氏の言葉だ。
そして思い出すマハトマ・ガンジーの言葉・・・
「国の偉大さ、道徳的発展は、その国における動物の扱い方で判る」


上記場面での下層級の人々の扱いに対して、
ふと原発労働者や、映画「イエローケーキ」でみたウラン鉱山の人々を思い出した。
被曝を強いられる過酷な現場の作業員達・・・
その扱われ方や構図は、畜産現場の人々のそれと酷似しているようにも思えた。


畜産工場の場面では出血性大腸菌0-157についても言及している。
もともと牛は草食であるのを、安価で太らせるため飼料にコーンを与えた結果、
牛の胃袋の大腸菌が変異したのだという。
この牛に五日間牧草を与えれば、大腸菌はほぼ死滅するが、
しかしそれを大企業はやろうとしないという。
そして現在の食の「工場化」は、この菌をばらまくには都合のよいシステムとなってしまっている。

ここで対照的な畜産農家が出てくる。
開放型の牧場を営んでいる。とても清潔感あふれる生き生きとした現場だ。
動物達も命あるものとして大切に扱われている。
しかし政府はこれを「不衛生」な現場というのだという。「開放型だから」不衛生だと…
映画を観る限り、私には工場の方がはるかに不衛生に見えたのだが。

牛達は悠々と歩きながら太陽の下、青々と茂った牧草を食べる。
牛達の糞は、そのまま牧草の肥料となる。
自然な循環がそこで生まれる。持続的なシステムだ。
が、先の畜産工場では、糞尿も垂れ流しである。目もそむけるような画面がそこに広がった。
その糞が0-157に汚染されていれば、汚染が拡大してしまう。
たった一匹の汚染でも、あっという間に広がってしまう。
この状態が衛生的とはとても思えない。
そしてこうした牛の肉が、外食や、私達の食卓にまぎれこむ可能性も十分にありうる…
実際の痛ましい死亡事故も取り上げられていた。
昨今の日本ではユッケ死亡事件が、まだ耳に新しい。


一つの企業が、種からスーパーまで一挙に支配している。
代表的なのはモンサントだ。
TPPでは、遺伝子組み換え食品の表示義務の撤廃が「貿易障壁」とされ、
撤廃される恐れがある。
そしてそれを機に、更なる流入が懸念されている。
米国では既に、遺伝子組換えのコメが開発済みだという。
例えば10キロ1000円のカリフォルニア米が、味もさほど国産の物と変わりなく、
しかも「放射能がない」とうたわれた時、消費者は飛びつくだろう・と
遺伝子組み換え食品、食糧安全問題の専門家・安田節子氏は言う。
「その時が一番、恐ろしいんです」

そこで、最近、近所のスーパーに安価な中国産米が売られていたことを思い出す。
そして、とある新聞の記事でも「輸入米が食べたい人が25%」とがあったり、
「輸入米に食指動かす外食産業」、
「輸入米:じわり人気…消費者の抵抗感和らぐ」といった記事もあったと記憶している。
最近では「パンの購入額が、コメを抜いた」という記事もあった。
穿った見方ではあるが、TPPの伏線にも見えてくる。
TPPでは関税撤廃で、コメ農家は壊滅的、といわれている・・・



ある家族の場面。低所得者だが不必要に太っている感じがする。
常食は安価で買えるハンバーガー。野菜を買うよりも安くすむ。
しかし夫は糖尿病で、その子供も同じ病気だという。
薬代がまた高価だ。だから生活を切り詰めるために、また安価で高カロリーな食に頼る。
疑問を抱きつつも、そういった負のスパイラルが延々と続く…
肥満はむしろ、低所得者に多いと聞いたことがある。
その原因と流れが改めて、解った気がする。
米国では糖尿病に罹患する人が増えており、
特にマイノリティにおいて、2人に1人が糖尿病だという。
子供も増加傾向だという。
あの「シッコ」でみた自由診療・高額医療社会で、どう病と闘うのだろうか?
低賃金での労働や長時間労働、それが低価格を求め、安くて簡単な食材に頼ることとなり、
それらの不健康な食材のために病に倒れ、今度は薬漬けとなる…
その節々で、大企業にうまく搾取されている。
そんな容赦ない「金儲けシステム」が、負のスパイラルとなって私達にのしかかっているように思えてならない。

ハンバーガーの肉に付着していた0-157で幼い子供を失った母親は言う。
「私達よりも、大企業の方が守られていると感じます」



命の素となる食べ物…、命そのものである食べ物を、
あたかも「工業製品」のようにして扱うその姿に、私は胸を悪くした。
病気を防ぐために投与する大量の抗生物質、
成長ホルモン、赤みを増すための薬剤、
アンモニアで洗浄し「清潔」だとされる肉・・・
特定の農薬に耐性を持つよう遺伝子操作された穀物・・・
そして、次はクローン動物の肉・・・?
いったい、私達は何を食べさせられてきたのだろうか?
これから、何を食べさせられていくのか・・・
そして、1つの企業が種から食卓までを支配する世界。
その危うさ。異様さを、私は今まで知らなかった。疑問にも思わなかった。
それは、今のこの国の原発の真の姿、電力会社の姿とも重なる。

「食がビジネスに汚されてしまった。電気も同じ。同じものが根っこにある。
儲かる仕組みでいたいという…」と、対談で枝元氏は言っていた。


私もかつてはファーストフードをよく利用していた。
カップ麺やできあいの総菜も多く利用していた。
早くて安くて便利な食品。お腹が空けばすぐに満たしてくれるモノ。
夫婦共働きで忙しくても、手ごろに素早く食べれる、優れモノ。
しかし、それらから私はもう長いこと、距離をおいている。
それは、「命=食べ物」だと改めて思いなおし、
その一口が、明日の自分、明日の血の一滴を作っていくのだ・と感じた時からだった。

対談で安田節子氏は
「血の一滴を作るのは、口から食べる、その食べ物です。
そして、どの時期にどんな食べ物をたべればよいかということもあるのです。
食べ物で病も癒せるのです」と言っていた。
先祖代々、受け継がれてきた、日本人の身体に刻まれている「食べ方」。
四季折々の食べ物・食べ方を継承していくことの大切さを語っておられた。
「力のある食べ物が必要。食の力を信じ、大事にしましょう」枝元氏も強く訴えていた。

即席食品やGMO食品、添加物まみれの食材、人工的に操作された食材に、
そういった癒す力や、食本来の持つパワーがあるだろうか?
一時の空腹を満たし、一時の快楽は得られるかもしれない。
しかしそれだけのことに感じる。
私達は、食材の下ごしらえもできない程に、忙しいのだろうか?
ドリンク剤やジェル状の食品で栄養補給して、
さらに走り続けねばならない程、忙しい時間を生きているのだろうか?
もしもだとしたら、上記の食品はそういったシステムから必然的に生まれたといえるのかもしれない。
そして食のあり方を変えるためには、社会そのもののシステムを見据え変化させていくことも不可欠だと強く感じる。

そこで、映画の最後に印象的な文章が綴られる。

「私達には システムを変えるチャンスが 一日に三回ある」

そして、消費者は自分達の真の影響力を知らない・という。
何を選び、何を食べるのか。
1日三回の食卓に、その手の中の「選択」に、私達の未来がかかっているともいえる。
そう思うと、ちょっと希望も湧いてくる。
まだまだ小さくてもやれそうなことがあるではないか。
まずスーパーに行ったら、食材をひっくり返し、成分表示を確かめることからでも、
はじめたらどうだろうか。

私達は無力ではない。
安全な食品を求める権利がある。
そして、その選択が、やがては世界をかえることにもなるかもしれない。
内容は非常にシビアで、辛い場面も多くあったが、
そういう希望を抱ける作品だった。

そしてTPPは食の安全を脅かし、私達の選択肢を奪う危険をはらんでいる。

無料で頂いたこの可愛らしいリーフレットによれば、
「食の安全基準さえ「貿易障壁」とみなし、撤廃を強いる…」とある。

現在、TPPについて(またはGMOや食品添加物等、食の安全についても)
マスコミでは多くを語られず、これからも真の報道は望めないと思う。
だから疑問を持ったことに対して素直に関心を持ち、自分で情報を得ていかねばならない。
自分の無知を知り、知ることから始めることは、今の時代、とても大切で有意義だ。


TPPのことを知る上で、解りやすいHP。
「サルでもわかるTPP」

「フード・インク」公式サイト












2012/04/14

映画「核の傷」

4月7日、いささか緊張と、高揚した気分で渋谷に着いた。
映画「核と傷」が渋谷UPLINKにて上映、そして、元軍医で広島原爆の被曝者でもある、内部被曝問題にお詳しい肥田舜太郎氏の講演が映画鑑賞後に聴けるからだ。

鎌仲監督との共著『内部被曝の脅威』を読んだ。内部被曝に関して非常に解りやすい本だった。
そして、ユーストリーム等でも何回か講演やインタビューの模様を拝見していた。
95歳とは思えないはつらつとしたお元気さ。そして鮮烈で衝撃的な広島原爆のお話・・・
特に、ABCC(アメリカが放射線被害調査の為、広島と長崎に設立した医療機関)のお話はいつ聞いても背筋が凍る。 映画の中でもその事を赤裸々に語られている。

映画の中で肥田氏は、原爆投下はソビエトに対する威嚇と、
「人体実験だった」という。そして証拠の一つとして投下した時間を上げている。
広島市にいる人間が屋外に多くいる時間、それが何時なのか毎日偵察していたという。
そしてそれが朝の8時15分だった・・・
そして原爆投下後すぐにABCCが設立された。

ABCCは、次々と訪れる患者の「調査」はしたが、治療はしなかったという。
治療を行う事は、謝罪に繋がってしまうからだ・と氏は言う。
どういう事が行われたかは、ぜひ映画を観て欲しい。
私は、それを間近に見てきた氏の話と、数々の生々しい映像に、一瞬目眩を覚えたほどだった。
思わず目をつむった瞬間もあった。それほどの衝撃的だった。
氏は言う。
「放射線影響研究所(元ABCC)を訪れる修学旅行生達が「アメリカがここで正義を行った。原爆の被害者をこの施設だけが診察した。」と講義を聞く事が「悲しい」・・・と。

「科学を名乗った権威ある集団が嘘をついたというのが、僕には許せない。」

しかし、そういう歴史が、教科書に掲載され教室で語られるという事は私自身経験がないし、
これからも難しいだろうと、私は感じる。

・・ABCCの話を聞くと、同じ様な事が今日でも行われてはいないだろうか・と不安に思う。
福島で子供達にガラスバッチが配られたり、放射線管理区域(年間5.2ミリシーベルト)に相当する場所での生活を余儀なくされている。首都圏にある高線量域(ホットスポット)であっても、本格的な除線(本質的にはセシウムを移動させるだけなのでい移線だが)もされず、いまだに大勢の人が現状を知らないまま、あるいは知らされないまま、普通の生活を営んでいる。
食品の検査体制もずさんで、たびたび基準値以上(4月からの食品新基準は100ベクレル)のものが出荷・消費されニュースになる。先日も保育園での給食に入っていたシイタケ(1400ベクレル)が問題になっていた。それでも、「視聴率が取れない」とふむのか、または経済界の顔色を見ているのか、まだまだ世論形成への影響力が強いテレビにおいて、食品における内部被曝の影響や脅威についてはことさら語られず、十分な知識や危機意識がいまだに人々に備わっていないと感じる。


・・この映画は2006年にフランス人監督が製作したドキュメンタリーだ。
これを観た後、原爆投下から67年経った今でも、政府の対応が何も変わっていない事を痛感するだろう。
そこで思う事がある。以前YouTubeでみた写真家・樋口健二氏の原発労働者の隠された実態を暴いたドキュメンタリーもイギリスの製作だった。こうした骨太で勇気ある作品が民放レベルで作成され放映されるようになれば、この国のあり様も、人々の意識も、もう少し変わるような気がしてくる。



映画「核と傷」公式サイト





 

2012/03/28

映画「イエローケーキ ~クリーンなエネルギーという嘘~」

『イエローケーキ』
“天然のウラン鉱石を精錬して得られるウランの黄色い粉末のこと。
これが燃料棒のもととなり、燃料棒が束ねられたものが原子炉の中で核分裂して熱を生み、
発電機を回す。”


原発のいわば川上、世界各地のウラン鉱山の実態が映し出される。
ドイツ、ナミビア、カナダ、オーストラリア・・・
映画をみて終始一貫して感じたことは、
大企業の秘密主義、権力主義、根拠のない万能感(安全神話)、
そして、金、金、金・・・。
差別的なものも多く感じた。被曝労働そのものが、差別的とも言えるのかもしれない。
そして、採掘に携る人々には一様に、ウランとは何なのか?
被曝とは何なのか?健康への影響は?本当に安全なのか?これらの情報、
とにかく、命にかかわる情報が(意図的に?)殆ど伝えられていないと感じた。

ナミビアの鉱山で働きながら、大学の勉強をする若い女性は、
地元で病気が蔓延しているという。汚れた粉塵のせいだと。
そして、自身の被曝はどれほどのものか知っているか・と問われた時に、
長い沈黙の末、「よく知らない」と語った。
その目には、不安とも戸惑いともいえる寂しい色がさしこんでいた。

カナダ北部のウラニウム市は鉱山と共に栄えた街。
絵のような美しい町だったという。
「失業者もホームレスもいない。どこか非現実的だった。
人工的な町だったけど好きだった。」
かつて住民だった女性は語る。
当時、街の住民は、自分の夫や父親が鉱山で どのような仕事をしているのか、
妻も子供も知らなかった。
その内容は秘密厳守で人々の口から固く閉ざされていたという。
200キロ離れた場所で、ウラン含有量が20倍の鉱床がみつかったとたんに、
街は衰退し、死の街と化した。
先の女性の話がふっと頭にリフレインする。
「どこか非現実的・・・」。幻想的ともいえるのだろうか。
一瞬にして消え去る儚い夢のような、
それは、核がもたらす破滅的な世界と似てはいないだろうか。
原子力発電所が1回事故を起こせば、広大な土地が失われる。
多くの人々の生活が一瞬にして奪われる。
いわば川上にあるウラン鉱山と、川下にある原子力発電所、そして核兵器。
推進派は「豊かさを与える」とか「未来に繋がる」とか、甘い言葉を豪語するけれど、
最終的にもたらすものは一緒・・・それは、深い闇と「虚無」だと感じた。

この街を再生すべく、あらたに土地の調査に関わる若い女性達。
女性というより少女だ。
彼女達はこの街で再びウランが出ることを証明するという。
そして素手で鉱石を拾う。
「触っても平気?」と聞かれ、「慣れているから」と答える。
「安全じゃなかったら触るのは禁止されるはず。」
彼女達は、放射線が女性に及ぼす影響を教えられていないのだろうか。
放射線は、「慣れる」ことでその被害を免れるとは、
素人の私でも到底、思えない・・・
企業や推進側にいいような情報だけを提供され、
鵜呑みにしているだけではないだろうか。
それとも、知ること事態を拒んでいるのだろうか。

人は見たいものだけを見る・という。
自分の目指す目標を妨害する情報には、目をつむり耳をふさぎ、口を閉ざすだろう。
それを推進側もよく知っている。
だから、危険な情報は出してこない。
危険な情報が出てこないなら、安心なのよ・と、関わる人々も思いたい。
そこには双方、強いバイアスがかかっていると思う。
そしてそういう歪んだ構図で、なりたっている世界にも思う。

ナミビアの現地人達も、ドイツのウラン鉱山で働く者達も、
ウランとは何なのか、被曝とは?健康被害は?という情報がほとんどないまま、
自分がどれほど被曝しているのかも、知らされないまま、
舞い上がる粉じんの中を、ラドンが蔓延する中を、長期にわたり、働き続けた。
元採掘員のドイツ人男性は肺癌を患った。
ナレーションがこう語る。
「東独じゅうから集まった作業員にウランの知識はなく、
昔から伝わる炭鉱夫の話も知らなかった。
謎のれき青鉱の話だ。死の危険をもたらすとされた鉱物。
200年前、ベルリンの化学者がれき青鉱から発見した物質がウランである。
現代の鉱員には正体は知らされていない。」
そして、こう続く。

「無知こそが嘘のはびこる土壌を作る。」

人は知ろうと思えば知ることができる。そうしたスキルも能力も、ツールもある。
では、 無知人間の鋳型は、いったい誰がつくっているのか?
知ること、知ろうとする気力を奪うものはいったいなんなのか?
私はそこにいつも疑問を感じる。 
ここ日本でも、いまだに食品の新基準やベクレルを知らない人間がいる。
事故が収束したと思って、原発は安全だと思っている人がいる。
日本にも、無知人間を作る鋳型が存在している。


オーストラリアの先住民は気高かった。
先祖からの土地をずっと守り抜いていこうとしている。
相手は資金の豊富な巨大企業。
土地を狙う男達からは人種差別的な言葉も聞こえた。
そして彼らは言う。ウラン鉱山は「国家の利益」。

推進者の言う豊かさと、先住民の願う豊かさは根本的に何かが違う。
質が違う。
それは持続可能な社会なのか、次の命を育む自然か。
核は生命そのものを脅かす。次のそのまた次の世代まで、
未来永劫、負の影響を及ぼすかもしれない。
それらが放つ放射線10シーベルトで、人は100%死に至るといわれている。
それらが本当に「豊さ」を生み出すのだろうか?
死と生は常に密接に繋がっていると思うが、それは自然界での話だと思う。
命つきた身体をバクテリアが分解し、それを養分として新たな芽が萌える世界のことだ。
核にそのような世界が望めるのだろうか?
託せるのだろうか?
疑問だ・・・

オーストラリアでひたすら自分の土地を守る男性は言う。
「なぜ、この美しい土地を掘り返す?私達はこの土地から食べ物を得ていた。
何でも与えてくれる土地だ。
私達はここで生きる。汚れなき環境で生き、きれいな水を飲みたい。」
彼は世界一の金持ちになる事を拒否したという。


パンフレットの冒頭にホピの予言がある。
「母なる土地から 心臓をえぐり出してはならない
それは灰の詰まった瓢箪と化し やがては世界を破滅に導く」

知っていたのだろうか、ウランの存在を。人間がそれに強く魅かれることを。
消せない炎がやがて灯され、多くの人々がその炎に翻弄され、焼き殺されていくことを・・・


渋谷の街は、まるでなにもなかったかのように、
光が煌々とし、人々は自由気ままに闊歩している。

私は、その街を漂う無数の人の群れが、いつしか巨大魚に喰われようとする、
海中の小魚の群れに見えてきた。
私もそのなかの、一匹の小魚だ。
私の中にも、福島原発事故の核の残骸が入り込んでいることだろう。
被曝の脅威など、放射性物質のことなど、知らなければ知らずに済む、それが核の世界だ。
今でもマスコミやマスメディアの情報では、それらについての十分な知識は得られなくなっている。
テレビや新聞だけに頼っていれば、知ることはない。
知らなければ、笑って過ごせる。好きなものが遠慮なく食べれる。好きな場所に寝転べる・・・
しかし、それでいいのだろうか?
知ろうと努力すればいくらでも知り得る素晴らしい情報化社会にあって、
人はなぜか逆行している様にも思える。
それは、ウラン鉱山の周辺の人々の精神構造とも似ていて、
日々の生活を一挙に握られ、それがないとダメなように思いこまされ、
権力や情報操作等によって巧みに仕掛けられた強いバイアスが、意識下で作用し、
思考停止に人々を陥れている気がしてならない。

知るということは、特に隠蔽されるような重要な問題ほど、
時間と努力と忍耐と、自分で考える思考力が必要だ。
そして、勇気も必要だ。
それらができて始めて、この情報隠蔽・操作と、情報化社会という混沌の荒波で、
人は自分の1回きりの生を、自分主体で航海できるのだと思う。
映画「イエローケーキ」で登場した、
オーストラリアの先住民族にみる気高さ・崇高さを、
知るという「勇気」を持つこと、
自分の頭で考えること、そして選択し、自分主体で生きて行くということ・・・
そこに感じはしないだろうか。


映画「イエローケーキ」渋谷UPLINKにて。

2012/03/15

映画「プリチャチ」

余計な音楽も演出も無く、ただひたすら静寂したモノクロの世界が続いていく。
そこはかつて、原発作業員の住む町だった。
私達と同じ、普通の生活があって、普通の人々の営みがあった場所。
人々が出会い、子を産み、泣き笑い悩み、愛し合ってきた場所。
1986年のチェルノブイリ原発事故により「ゾーン」となった。
「ゾーン」とは「危険区域」の事。放射能に汚染されたいわゆる、死の町だ。

原発の警備にあたる警官が言う。「自分達は15日休み、15日働く。」
それがどういう事を意味するのか、今となっては容易に想像できる。
長時間の労働は健康を損なう。それだけ、放射能に汚染されているという事だ。
彼は言う。
「多分この場所には二度と人は住めないだろう。
100年後でも住めないと確信している。」


チェルノブイリ原発事故当時、除せん作業等に多くの若者が投入された。
何も知らずに、無防備な状態だったという。
黒鉛を素手でつかんだり、はだしで歩いていた。
「12年経った今は、おそらく生きていないでしょうね。」
研究所の女性が言う。
「わざと知らせなかったのよ。」彼女は躊躇なく言った。
「これがチェルノブイリの悲劇よ。」


素朴な夫婦のインタビューや、
今でも避難できずに居住禁止区域で生活する人々の、素朴でおごそかな姿が映し出される。
圧倒的に年配者が多い。しかし、少女の姿が見えた時はドキリとした。
それと交互して、不気味で不細工な事故の残骸達や、朽ち果てた家々、
閑散とし、いまや廃墟と化した元居住地域が映し出される。
その、人間の生命とはとうてい相容れない違和感と、
「冷やかな鉄の塊」と「人々の普通の生活」というコントラストの強さに、
私は目眩を覚えるかのようだった。
それは原発=核が地球上のあらゆる生命に否定される、確固たる理由のようにも思えた。
衝撃的だったのは、その老夫婦の娘が原発事故後妊娠した時に、
医師が役所に通告し、その後堕胎させられたという内容だった。
まだ産まれもせぬ命を否定する、命をこういう形で踏みにじる原発とは一体、何なのか・・・

チェルノブイリ原発三号機内部の映像も衝撃的だった。
四号機には収容できなかった作業員の遺体がいまだに眠っているという。
その悲劇を忘れない為に、3号機の内部には小さな慰霊碑がある。

安全責任者の男性は、「重圧を感じ」ながらも高らかに言う。
「事故は起こさせません。私が保障します。」
しかし、その瞳はなぜか力なく、小刻みに泳いでいるように見えた。
彼は仕事は楽しいが、給料の低さに家族を養えない・と嘆く。
そして配給される食券を自慢げに語る。
「ここは食事は無料です。ここにいれば餓死しない。食券を撮りますか?どうですか?」
何度も繰り返し言う姿に、ほんの少し寂しさを覚えた。
と同時に漠然とした不安も抱いた。
これが、あの史上最悪と言われた4号機爆発事故の後の、
原子炉の安全管理に携わる人間の姿か・・・
頑張っている。志もありそうだ。ただあまりにも、心細くはないだろうか・・・


冷却水池から獲れたという魚が映し出される。
放射能の生物の影響を監視しているという、研究所の男性。
「ここで獲れた魚は1500ベクレル。肉食類になるともっと高い。
最高で20000ベクレルにもなる。」
それでも汚染レベルは低いという。
「食べれません。絶対に食べてはいけません。」
居住禁止区域に住む老夫婦は言う。
「野鳥は原発で越冬する。冷却水は温かいから、氷がはらないんだよ。」
その冷却水はいったいどこへ流れ込むのか・・・


ほのぼのとした風景もあった。
時折、猫が追いかけっこをして横切ったり、
老女の魚の下ごしらえの最中に、ご飯をねだっていたりする。
その様子を、猫好きの私は「その魚は、ストロンチウム等大丈夫かな・・」
と心配しながら眺めていた。
放射能さえなければ、普通のほのぼのとした微笑ましい風景だな・・・そんな気持ちにもなった。
そして、3月11日のあの原発事故以後、食品への不安がいまだに払拭できない「今」が重なった。

「安全だよ、気にしない。」「慣れたよ。」
そういう言葉が映画の中で交わされる。
他方、「安全な場所など無い。」
「150年経っても人は住めない。」
という言葉も次々と出てくる。
人々は、日々の生活の中で葛藤し続けている。
その認知的不協和の中で、ある者は妥協し、ある者は忘却し、
ある者は嘆き、 ある者は戦い続ける。
チェルノブイリ事故の12年後の人々の姿・・・
福島原発以後の日本に住む我々の姿と、重ならない訳がない・・・


白黒の映像というのは、自分の固定観念のせいで、
どこか過去に追いやられていく感じがする。
しかし、観終わってみると、実に鮮明なのだ。
記憶の中で、なにかが強烈に残る。
それは今度は私達が、このモノクロームの中にすいこまれていくのか・という怖さや、
自他ともに忘却、あるいは慣れていく不安感。
「ゾーン」=死の町から感じる冷やかさ、虚無、絶望・・・

生活が、ずっと続くと疑わなかった日常が、
たった一回の事故で奪われるという悲しい真実を静かに、
しかし切実に訴えているこの作品に、
自分自身も含め、多くの人がもっと早く出会えていたらと思う。
モノクロームに横たわるこの「ゾーン」には、
終始、どうしても生命を感じる事ができなかった。
肌の温かさ、呼吸、血の流れ、脈拍を感じない。
生命が凍結しているかのような、石のように硬く冷たい感じがする。
原発はメドューサか?睨まれた私達の生命は石と化してしまうのか・・・

原発=核による生命の石化は、もう二度と起こして欲しくない。
その為にも、多くの人にこの作品を観てほしい。
今だからこそ、真剣に原発とはなんだ?と問い、
自分の命や生活に関わる問題として考え、
多くの犠牲と人々の悲しみを伴った過去からの警告を、
これからも恐れずに、心に刻み続けて行きたい。


映画「プリチャチ」  渋谷UPLINKにて。

2011/09/25

東京原発

2004年公開の映画。正直、私はこの映画の存在を知らなかった。
2001年に、東海村での臨界事故があった。
2名の尊い命が無惨な死を遂げた重大事故にもかかわらず、
報道は規制され、国民の関心も線香花火の様に儚かった。
その3年後、この映画は公開された。
難しい内容を大変解りやすく、コミカルかつ軽快に描かれているが、
これはまさしく、原発依存を続ける未来の日本への「警告」だった。
しかし、役所広司や段田安則などの豪華俳優陣を起用しているのも関わらず、
当時の注目は相当、薄かったのではないか・と思う。
そうでなければ、現在のこの現状について、どうしても私の中で説明つかないのだ・・


役所広司氏ふんする天馬東京都知事は、
突然東京都に原発誘致を発案する。
「原発は都会にこそ似会う。このコンクリートジャングルに、
斬新な建物が一つ追加されるだけの事だ」

莫大な金をその周辺地域や関係者にばらまく、原発。
財政難に苦しむ東京都は今度はそれを「ばら撒かれる側」にまわるのだという。
映画の中では環境破壊にも言及している。
福島や新潟の美しい風景を破壊し、原発を建てた事に知事は疑問を呈す。
そして環境破壊することなく、東京で使う電気は東京で作る!それが筋だと声を荒げる。
「嫌なら、電気を使うな!!!」

思いつきや無知で発案したのではなく、
全てを知り尽くした上で、知事には相応の思惑があった。
知事はいう。
「世界一、無関心な都民」
その都民の眼を覚まさせる為には、
自分達の問題として原発を考える事が一番だ・と結論したのだろう。
知事は新宿中央公園に小型原子炉を作るという。
嫌ならば国民投票をさせるつもりだ。
原発の危険性や安全性、その必要性を真正面から国民に議論させるのだ。
なぜ、東京の電気が長年にわたり、田舎と呼ばれる遠い地域で
わざわざ長い送電線を用いてまで作られてきたのか、
なぜ、莫大な交付金が必要なのか、その真意を表面化する為に、
超マジョリティの立場を逆手に取ったという事だ。
もし1000万人の都民が原発NO!といった時、
それは国をも動かす一石となると知事は考えた。

「世界一、無関心な都民」
突き刺さる言葉。私もその一人だった・・・
でも福島原発事故が起きた今、そんな都民だってもう、無関心ではいられないだろう。
その証が、今月19日に開かれた5万人集会だろうと思う。

大江健三郎氏、落合恵子氏らが呼びかけ人。
私はこれに1人で参加した。
参加した感想は、一言でいえば、ガツンと頭を殴られ「目が覚めた」。
個人的には、そういう感じだった。
もう無関心ではいられない、傍観者ではいられない!
そして、何かがしたい!
そんな急き立てられるような思いを抱きながら参加したデモからは、
文字通り「本気」が伝わってきたのだった。
映画での天馬知事発案から7年後、
警鐘は何度となく鳴らされてきたのに、
悲しい事故を機にというのは、無念で残念で仕方がないが、
それでも「目が覚めた都民」を自ら自覚しつつ、
この流れがブームで終わらないように祈ってやまない・・・


この映画では、放射能についての危険性にはあまり触れていない。
だが象徴的な発言を専門家なる人物が口にする。
専門家:「放射能は隠したい側にとってはまことに、都合のよいものでして・・・」
職員:「ということは、もう、漏れているの・・・?」

つまり無味無臭無色という事をいいたいのだ。
そして漏らされた相手は全くわからない。
隠したい相手にとっては非常に好都合な事・・「無味無臭無色」。
知らされなければ、また可視化されなければ、私達は永遠にわからない。
それを原因に病に伏したとしても、因果関係も立証困難。
そして今まさに、私達は、その困難さと立ち向かわされている。
私達の生命は、国や電力会社に握られているも同然、
情報が的確に出される事は少なく、むしろ不透明さが目立つ。
個人での情報収集、判断、そして伝達、繋がり、守備が、
日を追うごとに肝心になってきている。
まるで内戦状態だと思う。静かな隠された戦い・・・
心がいつも不安定なのは、それを肌で感じているからだと思う。

専門家はこうも言う。
「東京に原発を作る事は、ハイリスク。
誰の為のリスク?それは、国と電力会社です。」
「彼らは机上で、煙草をふかしながら、賠償や補償問題について、
ソロバンをはじいているのです。」

東京で事故が起きたとしたら、最悪1000万人以上が避難し、土地を奪われ、
病に倒れる可能性がある。
そんなリスクは負えないという事だろうか。
そこに、住む所を奪われる私達ひとりひとりの苦悩や悲しみという文字は感じられない。
辺境に作るとはどういう事なのか、考えれば自ずと理解できてくる気がする・・
今の対応のあり方も・・
背筋に寒気が、ぞぞぞと走る。


この映画ではテロにつての脅威にもふれている。
極秘で輸送中のモックス燃料がトラックごと盗まれるのである。
ずさんな管理と、情報漏れ、
「絶対安全。事故が起こる確率は天文学的確率でありえない」
と具体的な数字や説明もなしに豪語する原子力安全委員会の人物が
象徴的に原発が内包した脆弱性を物語る。
映画の中で放射性廃棄物や燃料等は
日常茶飯事で国道や我々の生活圏を「走っている」という。
これが本当の事だとしたら、恐ろしいというレベルのものではない・・


エンターテイナー性に富み、いささか誇張ぎみの場面は否めないが、
原発の危険性を訴えるにはれぐらいがちょうどよいと思ったりもする。
実際、原発事故は誇張したくても誇張しきれない程、
とてつもなく甚大な被害をもたらすではないか。
危険なものは100歩先あるいて、
そこからちょっとずつ戻るくらいの危機意識でいいと思う。
現実は、この国の危機意識はその真逆だった・・
今では更に、危機意識は当初の10分の1以下になってしまっているかもしれない。
漏れた放射能など無いかの様に。
事故は終息したかの様に、日常が不気味な程、普通に動き出している。

テレビ好き、エンタ好き、有名人好きの国民には
こういった映画でのアピールは欠かせないと思う。
その為に作られた「東京原発」ではなかったかとすら思えてくる。
是非、今からでも多くの劇場や、テレビでやるべきだと思う。
原発問題の入門書には調度良いし、原発の危険性について非常に的を得ている。
ストーリーも飽きない。俳優陣が良い。
そして、2004年の映画だが内容が何ら古さを感じない。
(小道具や服装、建物等にはいささか当時を感じさせるものもあるが)
・・という事は、逆を言えば、7年前から原発問題は、何も進展してきていない・という事だろう。
それだけ、我々も無関心だったのであり、情報も操作、遮断されていた。

311以降、「目が覚めた」都民が今後、どういう行動をとっていくかに注目したい。
東京都は先日、天然ガス発電所建設案を出した。
猪瀬副知事は言っていた。「将来、国民が電気を自由に選べるようにならないといけない」
東京が動けば、日本が動く・・。映画の中での天馬知事の意気込みそのものを、
今こそ東京に見せつけて欲しいものだ。
ひとりの都民としても、切に願います。

2011/09/16

祝の島

美しい風景、そして、清く潔く生きる人々にもう一度会いたくて、
この映画を観に行った。
私自身、勇気をもらいたかった。

映画は静かにゆったりと流れる。
夏の光やセミの声が清々しい。

先祖代々の棚田を1人で耕し、作付し、収穫する老人の姿。
自分の代で終わってしまってもいいという、その潔さにいささか驚いた。
「人の手を離れれば、また原野に戻るだけ」
この言葉の裏に、どれだけの苦悩があっただろうと想像を絶する。
棚田に対する愛情が動作の一つ一つににじみ出ている気がした。

私の親戚も、棚田を営み米を作っている。
棚田百選にも選ばれた、それはそれは美しい風景だ。
だが、今の状況を私は聞く勇気が出ない・・
場所は福島とも隣接しており、放射能の汚染状況を記した地図だけをみても、
素人の私でさえ、目を覆いたくなった。
基準値以下なら安全と言われても、基準値が我々をそもそも不安にさせ、
不信感の巣窟となっている。
以前は新米ができる度に、
ほっぺたが落ちそうな程美味しい新米を送ってきてくれた。
しかし、311の原発事故以降、状況が一変してしまった・・・

私は、祝島のその棚田の老人と、親戚の棚田を重ねて見ていた。
そしてやっと少しだけ、私の拙い頭で理解できた気がした。
福島をはじめ、大切な農地や家畜、海を汚染された多くの農家や酪農家、漁師の方々の苦悩を、
そして消費者との悲しい心の乖離を生んでしまった、この事故の残虐さを。
毎日会見にて目にする東電幹部達の態度は、
事故の甚大さ、放射能汚染の実態の悲惨さを全く自覚していないのか、
その様子に怒りを通り越し、背筋が凍る・・


島民のある年配の女性が言った。
「人間の心理からしたら、原発推進も反対も同じだと思う。
原発が来てから、あんなに兄弟・いとこの様に良かった仲が引き裂かれた。
心はみんなズタズタ・・それが一番残念でならない。」

原発のもたらす「汚染」は稼働前、もしくは建設以前に既に始まっているという事だろう。
突如分け入ってくる札束を握りしめた黒い手・・
その手は人々の心を引き裂き、関係性を歪に変える。
その違和感をこの島民の人々は純粋な魂で敏感に感じ取り、
その相容れなさにもの凄い嫌悪と危機感を感じ、
こんなものが入ってきたら、島も人々も死ぬと、27年余り頑として拒否してきたのだと思う。
また、女性はこうも言う。
「ここは離島だから、陸続きの様にちょっと車で足を延ばして働きに行くという事が出来ない。
島で生きていく為には、海は文字通り「宝の山」。
 海は私達にとって宝です。だから守らなければならない。」
守っているものは、命そのものだという事。
命程、価値のあるものは無い・・だからこそ、人々の意思や結束は固く、志は揺るがない。
毎週月曜日の原発反対デモも欠かさない。
311以降、全国でも原発反対や脱核を掲げるデモが行われている。
一部では、またブームで終わるだろうと囁かれ、1980年代の反核運動の話も時に持ち出される。
しかし、今回は他国で起こったのではない、自国で起こった原発爆発事故だ。
私達は行進をしながら、思いを発しながら、
祝島の人々の様に、今度こそ、強い志でいなければならないと思う。
守るものは「命」。自分の命でもいい、大切な人の命でもいい・・
数々の失われた命を想うのでも、これから産まれてくる命を想うのでもいい・・
自分の感覚で、自分の事として受け止め、考え、歩き続けていく事が大事だと思う。
そして迷った時にはいつでも、この祝島の人々の姿に勇気づけてもらえるだろう。


一方で、祝島は極端に若者や子供が少ない。
老人たちも、自分達が余命いくばくもない事を自覚している。
こたつを囲んで世間話に花を咲かせるのが日課の老人達。
その中の1人の男性がぽそっと言った。
「死に方を選ばせて欲しいね。例えば薬が何種類かあってよ、眠る様に死ねるやつとか・・」
明るくふるまっていても不安なのだと思った。
不安だからこそ寄り添い合う仲間が必要なのだと思った。
今日も、被災地の仮設住宅で60代の男性の自殺が報じられた。
「孤独は死に至る病」という。
老人の自殺は特に、「無縁社会」といわれて久しい現代の闇の象徴の様に感じてならない。
祝島のしっかりと根付いたコミュニティの中で生きている老人たちでさえ、
死の恐怖と向き合っているのだ。
老体で孤独に生きる、というのはあまりにも辛すぎる。
そして私自身にも、そういった老後の不安はこれからつきまとう事になる・・

気心知れた仲間を持ち、共に分かち合い喜びあい、時には喧嘩し泣き、寄り添って生きる。
原発はそんなコミュニティの崩壊すら招く危険性を持っている。
事故が1度起こればなおの事、ここ東京であっても、
人々の心に更なる分断をもたらそうとしている。
いや、もう発生してしまっているのかもしれない。
放射能を不安な人々と、気にしない人々と。
原発問題、核の問題を真剣に考える人と、そうでない人と。
デジタル・デバイドや、認識の違いは、メディアの影響もあると思う。
人とのコミュニケーションが希薄化し、そこへデジタルの波が押し寄せ、
各種メディアへの依存が高まってきたからこそ、
この様な弊害が生まれてしまったのではないか・とも思える。
311以前は、祝島の様な地域コミュニティの復活は、
特に都心においては相当難しいのではないか・と感じていた。
しかし、311以後の数々の各地で繰り広げられるデモや人々の心の流れを見ていると、
ブームで終わらせずに、今後もしっかり継続できたなら、
そうしたコミュニティ的繋がりも、もしかしたら期待できるのではないか・・
それだけ人々にとって、この国にとって、
歴史的、危機的な「大事故」なのだと思う。


祝島の人々で印象的だったのは、とにかくよく笑う事。
過酷なデモを行っている時も、過疎化が急速に進み、未来への不安が拭えなくても、
笑顔と他者への労わりを忘れない。
素晴らしいと思った。
人は最終的に1人で死んでいくが、この島では魂はいつまでも一つなのだと感じた。
それは島が「命」そのものだからだ。
命は命に帰る・・そしてまた次の生命の営みの一つの支えとなる。
島そのものに、生きた温もりを感じる。

田舎の暮らしが全て勝っているという事ではないと思う。
多少の不便さや、単調さは否めない。
都会での暮らしの方が性に合っている・という事もある。
ただ、その魂のあり方や心の有り様は、生きていく上でとても参考になると思うのだ。
命として「生きる」という事はこういう事だよ・と、
祝島のおじちゃんやおばちゃんは、
身体をはって教えてくれている。
私達は一つの限りある命という事に変わりない。
命として、その1回しかない自分の人生を生きるのだから、
悔いが残らぬ様、精一杯歩いていきたいと思うのは、
誰しもの願いではないだろうか。

悲惨な世界的原発事故の渦中にあっても、
一生、放射能汚染に我身をさらす事になってしまっていても、
笑顔や愛しみ、労わりといった心を忘れたくないと思う。
自分の心を真っ先に開き、思い切り泣ける場所を大切にしていきたいと思う。
祝島の人々の姿は、私達の先を歩み、未来を語ってくれている。
これからも大勢の人々の心を支え、励まし続けてくれるだろう。
心から、「ありがとう!おじちゃん、おばちゃん」 と言いたい・・・


PS:祝島に千年以上続くという4年に1度のお祭り「神舞」は本当に美しい。
この島は、神様に守られているといっても過言ではない・・と思った。
形だけではない、魂のこもったものは、いつでもその放つ輝きが違うと思う。

海をじっと見つめる漁師のおじさんの眼差しは、
自然を知りつくし、尊び、自然と共に生きていく志の強さを感じた。

2011/09/09

カウントダウン ゼロ

原子力=核という事をもっと考えたくて、この映画を観た。
恐ろしい映画だった。

映画を観終わって、
青空が、こんなにも綺麗にみえたのは久々だった。
1945年、アメリカが核兵器を持ってから66年間、
この青空の下、何事もなく、泣き笑いできた事が奇跡のように感じた。

かつて、ケネディ大統領はいった。

「我々は糸にぶら下った“核の剣”の下にいる。
 その糸は簡単に切れる。
“事故・誤算・狂気”によって・・」

冷戦時代、一触即発の事態があった。
そして、ずさんな放射性物質の管理によるテロの脅威。
「良いものであるなら、我々が持っても良いはずだ」
ある中東の科学者は言う。
現在、地球上の核兵器は約2万4千発。その96%が、米国とロシアの保有である。

戦慄を覚えた証言は数知れない。
途上国の研究者は言う。「我々は、草を食べてでも、核兵器を作る」
そして米国のある大佐は、
「核戦争が起きて何がいけない?
5億人が死ぬだけだ。生き残った生命はその後も続く」

誤算=コンピューターやヒューマンエラーの脅威も絶えない。
ボタンひとつで何千発もの核ミサイルが発射されるのだ。
そのボタンを押すのは、人間の判断であり、手作業であり、コンピューターに委ねられている。
かつて、ガンの群れが爆撃と間違われた事もあったという。
そのボタンが、必ずしも正規に押されるという事は無く、
むしろ、誤報や誤作動との鬩ぎ合いの中で、
じっと押されるのを待っている。
そうして60年以上の月日を、私達の頭上は過ぎてきたのだ。

ここで、ある東京電力の会見にて、
「ヒューマンエラーは重く見ない」という趣旨の発言を聞いたのを思い出した。
ヒューマンエラー=うっかりミス、
特に極限における人間の判断力は極度に鈍る。
1995年、米国がノルウェーから発射したオーロラ観測ロケットについて、
情報が行き届かず、 ロシアが核弾頭と認識。
当時のエリツィン大統領は、
「我が国は攻撃されています」と発射ボタンを差し出され、
5分で決断しなければならなかったという・・。
幸い、その時は最悪の事態を免れたが、
こうした事は、今でも引き続き起こりうり、
原子力発電所においても、それはいえるのだろうと思う。
そして、その「うっかりミス」を甘く見るところが、
最大のヒューマンエラーであると感じる。
人間は必ず、ミスを犯す・・・

現在、核保有国は9カ国。40カ国以上が核兵器建設の技術を持つという。
ある試算では、簡単な核兵器はわずか700万ドルで作れるとも・・
地図上でそれらの国々が赤く染まっていく中で、日本はその色に染まらずにいた。
だが、日本では今、甚大な原子力災害に見舞われている。
世界で唯一、核兵器を落とされた国であり、核兵器を持たないと宣言した国なのに、
自国の「核の平和利用」であるはずの原発が三機も「爆発」してしまった。
程度の違いはあれ、放射性物質はいまや日本中に広がり、
その驚異と不安の中で私達は生きて行く事になってしまった。
セシウムの量だけでもその数、広島原爆の160発以上だという。
その赤く塗られていく地図をみながら、
悲しく情けなく、やり切れない思いと共に、大きな空しさに襲われた・・・
映画館の中、涙が溢れそうになった。

この空はいったい誰のものなのかと思う。
緑が清々しいこれらの木々も、大地も、川も、海も。
いったい誰のものなのか、わからなくなってくる。
誰ものもでもないはずだし、誰に支配される道理もない。
しかし、人間だけが、それらすべてを支配しようとし、
挙句、消滅さえしかねない力を持つようになってしまった。

現在起こってしまった原子力災害も、人々から生活、人生の全てを奪い、
土地をも死滅させようとしている。
また、まだ産まれてこない命までも脅かそうとしている。
核兵器は「sudden death」、原発は「slow death」
もたらすものの違いはあれ、その本質は変わらない。

2009年、オバマ大統領はプラハ演説にて、「核無き世界を目指す」意向を示した。
 映画の中でゴルバチョフ元ソ連大統領やブレア元英国首相など、
様々な要人が口を揃えて、核兵器廃絶を訴える。
核の脅威を無くすには、人類が核兵器によって滅亡する前に、
核兵器を滅亡させること・・・
もはや、核兵器が国力や抑止力、富の象徴だった時代は終わったと感じ、
ただ「死」だけを包括するそれをゼロにしていく事が世界の流れだと感じた。
だから今こそ、この原子力災害に見舞われ、のたうちまわっている日本であるから、
この流れを継承し、世界をリードしていくべきではないかと思う。
その為の「脱原発」であるということは明白であり、
もっと人々の心に刻まれてほしい理念だと思う。
けっして、ブームや流行りで終わってはならないと思う。

これまで、数々の核・原子力関連の映画を観てきたが、
核の問題がこれほど巨大で、凶悪なものだったのかと絶句する程、
目眩を覚える強烈な内容の映画だった。
「原子力=核は抑止力、それをもたずしてどうする?」
といったある政治家の言葉が頭から離れない。
核は「死」そのものだと感じる。
「死」と手を組んだら、最後に残るはやはり「死」しかないと思う。
私達が今後どういう未来を望み、どう生きて行きたいのか、
本気で考え、行動しなければならないと強く思った。

行く先は霧の中で、まだまだ事態の収束はつかず、
物事を深く洞察をしていけば、途方もない真実に、
地に落ちそうな無力感に襲われる。
だけど、知る事を諦めない。希望を捨てない。
ひとりひとりが信じる事、
そして小さくてもいいからアクションを起こしていく事、
今一番、求められている事だと思う。


※映画【カウントダウン ゼロ】は新宿武蔵野館にて9月22日まで上映されているようです。

2011/08/31

あしたが消える ~どうして原発?~

これは、22年前のわずか55分のドキュメンタリー。
だけど、過去の物語ではない。今の物語か、それ以上の「現実」となっている。


22年前、原発の定期検査など指導的な立場で働いていた父親を、
52歳で失った葛西真紀子さんの「父は何故死んだのか?」という純粋な疑問から、
話は進められていく。

骨ガンだった。入院後わずか4ヶ月で亡くなられた。
生前、父親が働いていた福島原発を見つめながら、葛西さんは言った。
「父は原発は危ないから、もう辞めるよ・と言っていた。
だけど、留めさせられた。父は、こうも言っていた。
人々が今の生活を維持したいなら、危険でも原発は必要だろう。
でも、本当にそうだろうか・・・」

父親の病気との因果関係は認められていない。
だが葛西さんの疑念は揺るがない。
「父は原発は二重三重の安全装置があるから絶対安全だと言っていた。
原発をずっと信じていた父が、裏切られたように感じる・・」

チェルノブイリ事故の映像が流れ、幾人もの防護服を着たリクビダートルが、
忙しく走りながら、収束作業にあたっていた。
自ら福島原発を設計した元プラント設計師の田中三彦氏は言った。
「チェルノブイリでは、国民のヒロイズムと愛国心が収束を導いた。
しかし、この二つは日本では機能しない。
大事故が起こった時、誰が止めるのか。・・誰も止められない・・」
そして、放射線で被曝をしているのは人間だけではないという。
「中の配管なども被曝している。そして老朽化する。
美浜原発はそれが著しい。大変に危険だ。」
22年前の話である。

驚いたのは、チェルノブイリ事故後、
食品はほぼノーチェックで輸入されていたという・・
1986年以降、私達は死の灰を添加されたものを食べていたという事か?
いったい、どの程度を、どれくらい?

元被曝労働者が被曝実態調査する医師に向かって話す。
金属が落ちてきて足の小指を切断する事になったが、
下請けだったために労災は下りなかった。
「燃料棒の交換作業がいちばん辛かったなぁ。
なんで辛かったんかって・・うぅ~ん・・」
「ある日、窯の中にナットが落ちて、皆で拾おうとしたがどうやっても拾えない。
そこで親方が、『おまえ、特攻隊でいけ』っちゅうた。
いろいろとすっかり支度してくれて・・。
もうどうにでもなれと、行った」

線量計をつけずに作業に入る事もあったという。
累積が多いと働けなくなるからと、作業員の思いは切実だった。
一番被曝が多いのは「責任者」だという。
その人一倍の責任感の強さに、全てまかせっきりと言う事だろうか。
今はもう着用されていないという防護服の燃えるような赤い色が、
なんだか私にはとても悲しく、恐ろしげに見えた・・
労働者の被曝実態調査は、労働者のプライバシーなど、
様々な理由で困難を極めるという。
それは今も全く、変わっていない。


 今は既に建設されている、青森六ヶ所村の建設予定地が映し出された。
そうか・・22年前はまだ建っていなかったのか・・。そう思った。
年月とは恐ろしい。
でもそこで酪農を営む男性の言葉は先を見通していた。
「一番先に影響がでるのは牛乳だって聞いている。
ここでもし大事故が起きたら、日本全体がだめになるのでは・・」

葛西さんの最後の言葉が今でも突き刺さる。
「東京で裕福に暮らしている人は、
豊かに暮らすその陰で、誰かが亡くなり、
または病気になり、その家族も苦しんでいるという事を考えて欲しい・・」
これは、原発労働者に限らず、
過酷な労働下で働く全ての人々にあてはまる事だろう。
私達の豊かさは過度に装飾、加味される分だけ、
多くの犠牲になりたっているともいえるのではないだろうか?
24時間営業の店や飲食店で長時間勤務する人々は?
猛暑の中、または極寒の中、交通整理や警備、建築に携わる人々は?
配送ニーズが増す度に、昼夜問わず走り回らなければならない配達員は?
考えれば考える程、社会の闇は部分は深くて、
この多大な労力とエネルギーを消費する「豊かさ」とはいったいなんなのだろう・・と深く考えさせられる。


最後の場面で、チェルノブイリ事故の汚染地図と、
日本地図が重なり合った映像が流れた。
それは福島原発がもし事故を起こしたらどうなるか・という、
22年前の1つのシュミレーションだった。
それは、まさに今の現実、そのものの姿だった。愕然とした。
そしてこんな言葉で締めくくられる。

「福島原発が万が一大事故を起こしたら、日本中全てが汚染されてしまう。
そしてその事故はあした起こるかもしれない」

「もう・・起こってしまった・・」
心でそう呟いた。

警鐘はあらゆる時代にあらゆる場所で、あらゆる媒体で鳴らされ続けていた。
「チャイナシンドローム」「シルクウッド」「アトミック・カフェ」
そして、「チェルノブイリハート」・・・
パンフレットにはその他にも多くの映像や映画の名が記載されている。
こんなにも、あったのか・・と思った。
知らされなかった・のでも、教えてくれなかった・のでもない。
知ろうとしてこなかった、自分自身に問題があるのだろう・と思った。


・・原発のない世界が良いと思っている。
心からそう思う。
生命にはとうてい許容できない核の脅威を感じ、不安を抱えながら生きていく事は、
たった1度限りの人生において、その意味や価値を大きく揺さぶると思う。
もしかしたら私の生きている間は、核の撤廃は望めないかもしれない。
そして、放射性廃棄物は、未来人の為にモニュメントが必要では?と揶揄される程、
何万年も、途方もない間残され、放射能を出し続けていく。
事故が起きた今、一度しかない人生に、
これからは放射能はどうしようもなく、組み込まれていく。
そういう世界になってしまった。
でも、人は変わろうと思えば内から変われる。人の作る世界も変化できると思う。
 時間はかかっても、希望は持ち続けたい。
この国の人々の関心や認識は確実に変わってきている。
また、もっと多くの人々が関心を持つ事も必要だと思う。
対岸の火事ではなく、自分の人生のことして。

そして「海や大地や空は、未来からの預かり物」だということを、
これからは、ずっと、忘れてはいけない・・。


PS:80年代の映像と音楽・・今とは違うサスペンス的な黒い香がして、
私にとっては(ホラー映画よりも)心底怖かったです・・。
でも、午前中だったのに、老若男女、人は結構いました。
映画の内容を一部抜粋しましたが、記憶をたどっての記述の為、
多少誤差があるかもしれません・・。

2011/08/28

ミツバチの羽音と地球の回転

率直に感じたことを言えば、
「生きる」とは、こういうことだよな、ということ・・
そして原子力=核は、まるで生物全ての頂点に立ったかのような人間のエゴそのもの、
生命・生きるものすべてと、全く相容れない代物だ、ということ・・

祝島・・およそ500人の人々が暮らす島。高齢化、過疎の著しい島。
28年前に、島のまっ正面にある田ノ浦に上関原発の建設計画が持ち上がった時から、
島の人々はずっとずっと、戦ってきている。

私より遥かに年上のおばちゃん達が、「原発反対!」のハチマキをしめて、
大きなのぼりを担いで、雨の中でも、長時間でも、
原発を阻止しようと頑張っている姿に、
今までの私達の享楽に満ちた生活が、
その陰で苦悩し、戦う人々の上に成り立っていたこと、
そして、それは今日も続いているということに、
また、今まで自分が知らなかった・知ろうともしなかったことについて、
悲しみと苛立ち、苦しみが交差した。

島で一番若い青年は、ある日こんな問いかけを電話で受けた。
「祝島の人々はなんで原発にあんなに反対するんだ?」
この問いに、青年は「自分達の生活や暮らしを、守る為です」と答えた。
至極まっとうな返答だと思う。
しかし、電話の主に、そんなものの為に沢山の人に迷惑をかけて恥しくないのか?
と返されたという・・
そうだろうか?「生活や暮らし」は「そんなもの」だろうか?
だとしたら、私達の生活も「そんなもの」であり、「そんなもの」の為に、
原発事故を起こし、国中を暗澹とさせている。
それは、「迷惑」どころではなく、もはや「犯罪」ではないのか・・

また、中国電力が土地の埋め立てを強行突破しようとして、
漁師達が猛反発し、船を連ねて抗議をした時に、投げつけた言葉は酷過ぎた。
「第一次産業だけでこの島がよくなるとお思いですか?
人口は年々減っていて、お年寄りばかりの町になる・・・
このままでは上関町は衰退していくばかりですよ」
だから我々は貴方達の雇用を産み、若者を島へ呼び戻す救世主です・とでもいいたいのだろうか?
原発から絶えず放出される温水や、立地の為の埋立てによって地形が変化することで、
海の生物多様性が失われ、豊富な海が死に、
果ては島民の生活や、生きる糧の全てを失わせること自体が、
島を「衰退」させるのではないか?

ビワの実に大切そうに袋をかぶせながら、青年は言った。
「まえに原発推進派の人にビワだけで食っていけるわけがないだろう、と言われた。
・・・ビワだけで食っていけるとは言わない。この祝島で、全体で生きていく」

本当の豊かさとは、何だろう?
キラキラと光るネオンに、24時間体制の店、レストラン、テレビの中の渇いた笑い、
捨てる程にあふれたモノ、物、もの・・・

一方で、足るを知る生き方を、脈々と選択していく人々。
自分のできる範囲で慎ましく、子を育てながら、老人をいたわりながら、
自然を愛しみながら、感謝しながら生きる人々。

私達は、そろそろ真剣に「豊かな暮らし」を考える時期に入ったのではないだろうか。
うわべだけの豊かさは、かえって人間の魂を貧しくする。


祝島の人々、そしておばちゃん達が一生懸命守ろうとしているのは、
島だけではない。
「生きる」権利、そして「生命」そのものだと思う。
私達人類全体の為に戦ってくれているといっても過言ではないと思う。
そして未来への責任を、切ない程に尽くそうとしている。
綺麗な海を、空を、大地を、島を後世に残したい!残さねば!
という強い思いが一丸となり、強固な絆となっている。
それが、上っ面だけで「絶対安全、絶対海はよごれません」などと「言わされている」人々とは全く異なり、敵わぬ点だろう。
どちらの魂が澱んでいるか、崇高な程に輝いているか・・一目瞭然だと思う。


甚大な原発事故が起きた今、
そして今も収束がつかず、深刻な状態が続いている今だからこそ、
「生きること」そして「命」を一番に大切にするエネルギーの選択は何かを真剣に考えたい。
一部の権力や組織が私達の未来の行く末をにぎる世界は、もう嫌だと、心底思う。
心「豊かに」、魂が「崇高に」生きられる世界に向かって、
たとえ小さな羽音でも、考え続け伝えていきたいと思う。

『ミツバチの羽音は、地球の回転にさえ影響を及ぼしてるかもしれない』
私達1人ひとりの思い=羽音が、やがて国を、世界を動かしますように・・・

 鎌仲ひとみ監督に頂いた言葉・・「心つなげて!」をお守りに。。 


2011/08/20

チェルノブイリハート

まず、映画の詳細についてはあまり触れずに、
率直に感じた事だけ、書いていこうと思う。

正直をいうと、「福島や日本も、いずれこうなるのでは」と、思ってはいても、
軽率に言えないし、言いたくない。
口に出すのも、ためらう。
それ程に、深刻で残酷で、悲しい内容だった・ということだ。

子供を心配して、苦渋の表情に、大粒の涙を浮かべる母親の姿・・
疲労と困惑の表情を浮かべて、半ば諦めにも似たため息をつかざるを得ない医師や看護師達・・
「ちきしょう!!くそったれめ!!」と、表情を変えずに唱える様に呟き続ける事故当時の避難者・・

これらがすべてを物語っている。
これらすべてを、今の日本に当てはめられる程、私の心は成熟していない。
理解するのを阻止しようとする、余分な感情までも湧き出てくる。
「そんなことない、そんなことないよ」だって見渡せば、
何事もなかったかのような、汚染等ないような景色が、
いくつもいくつも、そこいらに、散らばっている・・・

そこで、思う事がある。
今も、チェルノブイリ原発事故の悲惨な後遺症に悩まされるベラルーシやウクライナ。
そこの事故当時のセシウムに対する食品の基準値よりも、
今の日本の食品基準値が高いという事は、
一体どういう事を意味するのだろう?
例えば、「ウクライナの飲料水の基準値は1キログラム当たり2ベクレルに対し、
日本はセシウム134と137の合算値は200ベクレル(7月:AERAより)」
野菜や肉に関しても、同雑誌に解り易いグラフがあり一目瞭然だが、
日本より基準の厳しい場所で、
25年経った今でも深刻な後遺症に悩まされているという事実を目の当たりにし、
では、それよりも明らかに緩い基準での日本は、
今後どうなってしまうのか?っと率直に思う。

今日、初めて米からも検出というニュースを聞いた。
米の出荷制限の基準は500ベクレル・・・それ以下なら、私達の食卓に・・
日本人の大事な大事な、ほぼ毎日摂取する主食である。
本当に、安全なのか?

罪深いのは、原発を選択してもいない、
まだ見ぬ生命が脅かされているという事だ。
映画の中で、「ナンバーワンルーム」には、親から見捨てられた障害児達が、
所狭しと寝転がり、ただ生きているという現実。
大きなコブを後頭部に負いながらも、抱かれたその胸に頬を寄せる赤ちゃんのその愛らしさは、
他の健常な赤ん坊と何ら変わらく見えた。
それは、知的障害児でも、水頭症の子供達でも同じ・・
彼らの笑顔は、天使の微笑み、そのものに感じた。
だから、余計に、悲しく切なかった・・・
この子たちの両親もきっと、苦しみ、断腸の思いを味わったろう。
目玉がふやける程に、泣明かしたに違いない。
その現実を、例えば、私自身に当てはめる勇気が、
私はまだ、持てない・・・
私も自分が子を持つ望みを、まだ捨ててはいないからだ。
いかなる場合でも、私は自分の子を愛します、愛せます!と、
胸を張って言える自分が、悔しい事に、いないからだ・・・

だから、これは日本の向かう姿だろう・・と、うっすらと、ぼんやりと、
しかし強烈に感じてはいても、
私は声に出して言う勇気がない。
それ程に、恐ろしく、悲しい映画だった。

今後、内部被ばくの直接の原因となる、食品や水・飲料に対する基準が厳しくなり、
子供と妊婦、さらに今後次世代を生むであろう女性の身体を第一に考える方向に進んで欲しい。
そして、増大は避けられぬであろう、癌の他、多種多様の病魔に対し、
医療機器や医師の教育等、万全な体制を整えて「その時」に備えて欲しいと切に願う。
もしかしたら、私自身や私の大切な人達も、
何年後、何十年後かに、病に倒れるかもしれない。
自分の事、大切な人の事と重ねて思う程に、
この映画は「真実のもの」として、語りかけてくると思う。


日本で放出された放射能は、世界を、地球をも汚染した。
国境は人間がつくっただけのもの・・
海や空に国境は無い。
ということは、この原発事故の問題は、
私達だけの問題ではないという事も素直に理解でき、
また、頭に入れておくべきだと思う。
命はつながっている・・その言葉通りに。

過酷な運命を背負いながらも、懸命に生きている「チェルノブイリ」の子供達に、
土下座をして謝りたいくらいです。
過ちをまた、犯してしまった国の、1人の人間として・・
本当に、本当に、ごめんなさい。


PS・・
セシウムの検査で値が高く出てしまった、高校生。
大好きな木イチゴのジャムを計測したら、みるみるセシウムの値が上昇した。
「これは食べるのをやめなさい。これを食べる度に君はセシウムを摂取する事になるのだよ」
と先生に言われ、はにかむ笑顔を見せた。
きっと、このジャムを毎日、パンにたっぷりつけて、ほおばっていたのだろうな・・
状況が目に浮かんで、微笑ましくも、辛かった・・
これが、日常が破壊されるという事だ。


そして、本日の映画館、場所は渋谷であったが、
鑑賞者の少ない事もショックであった。
雨にもかかわらず、街にはあんなに沢山の人がいたのに。
この国の関心度はこんなものか・・と思いたくないが、目の当たりにしてしまった。
辛いのは百も承知だが、「知る」という事は、
自分の中で考える事に通じ、やりなおすきっかけになると思う。
そういう意味で、この国の人全てがこの「事実」を知る事も必要だと思っている。
この無残で悲惨な現状を幾つもふまえた上で、包括した上で、
このリスクを背負ってでも、原子力=核を推進しますか?
という問いかけをした時、
私達は、どう答えを出すであろうか・・・
出すべきだろうか。








2011/08/12

イルカの日

この作品は以前聞いたラジオで紹介されていて、
見るのにはいささか心の準備が必要な作品だと感じていた。

痛烈に悲しい作品だと、冒頭から感じて、苦しかった。
イルカの姿がそれは神々しく、和やかで美しくあるほどに、
悲しく切なかった・・・


これは、イルカの知能の高さと信頼感、「心」そのものを、
私利私欲のために利用しようとする、人間のエゴのおぞましさを描いた作品。

前半の、博士とイルカの、愛に満ちた交流が心を揺さぶるだけに、
後半は胸が締め付けされるように、辛かった。

研究所で産まれたアルファというイルカが、その知能の高さゆえに、
人の言葉を理解し、話し始めた時から、悲劇は始まっていた。

自分の名前を呼ばれて、
けなげに 「ファー!」 と返事をする姿・・

「ファー パパ 大好き」
と言って、博士の足に愛らしくすり寄るアルファの姿・・

恋人のビ―と別れ別れにされ、猛烈に怒りながら、
「ビー 今すぐ かえして」 と、懇願する姿・・

どれも胸に迫る。


人を信頼し、人の言葉を信じるが故に、
暗殺利用目的で誘拐され 、爆弾を装着される姿・・
人はこの時、恋人のビーをも利用する。
恋しい、愛しい、守りたい・・という心そのものを利用しようとする。

そして、最後は人に追われる身となり、
安全の為に、大好きな博士と、永遠の別れをしなければならなくなった。
「ファがいるから パパはいじめられる」と聞かされ、
 寂しそうな表情をうかべて、
「 ファー 行く 」と・・
そして、いつまでも、博士を追う姿が、
福島原発事故により、20キロ圏内でやむを得ず置いて行かれた、
かつての犬や猫や牛、馬、鶏などの悲しい姿と重なる・・

イルカだけではなく、私は全ての動物達には「心」があると思っている。
そして、それを信じる人にとっては、
この作品はあまりにも悲しい。
きっと、原発事故により亡くなっていった多くの動物達も、
その死の直前まで、もしかしたらそれ以後も、ずっと、
飼い主さんの事を信じて待っていたのかもしれない。


この映画は映像や音楽が素晴らしいが、
ただそのイルカの魅力=賢さと愛らしさを表現しただけではない。
その無垢で純粋な魅力が、
生物の頂点に立ったかのような奢りと傲慢さで、
権力の為には、何でも利用しようとする人間のおぞましさをより恐ろしく、
増幅させる。


嘘ばかり言う人間に対して、ファーは言う。

「人間 無い事ばかり 言う」

それでも、人を信用し、愛そうとするファーやビ―の姿を、
むしろ、人間が真似し、学ぶべきではないかと思う。


昨今、とある水族館で、イルカが稽古中にジャンプの着地を誤って、
胸を強打し、亡くなったというニュースがあった。
悲しい事故だった・・
狭いプールの中で、人に芸を見せるためだけに産まれてきたわけではないだろうに・・
私はこのような事故が二度と起こらない事を、本当に心から願う。

そして私達は、自分達の私利私欲や娯楽、興味のために、
不必要な命を犠牲にはしていないだろうか・・と
いつも心の中で問うていく必要があると思う。














2011/08/09

アトミックカフェ

映画「アトミックカフェ」を見た。
きっかけは、今年のフジロック。
311以降に発生した原発震災を機に、フジロックで反核を掲げる「アトミックカフェ」が復活した。
フジロックでは開催中の三日間、自然エネルギーで運営されるアバロンステージにて、
有識者のトークショウやアーティストのライブで盛り上がり、
また福島原発や日本の現在の実情について様々な話がなされた。
そこにいた人々はそれぞれ、何かを感じ、想い、核について真剣に考えたのではないだろうか。



「アトミックカフェ」・・1982年に公開された、核兵器に関するドキュメンタリー映画。

冷戦時代の当時、人々がどのように国やメディアによって扇動・洗脳され、
核の時代へと盲進していったかが皮肉をこめて、如実にスクラップされている。

水爆実験の爆発を、「美しい」と豪語する兵士・・
放射能は何ら問題ないといわれて、
不安を抱きながらも爆発実験に間近で参加させられる若い兵士達・・
線量計をつけていたが、一体どれほどの被曝をしたのか。
多分本人達には知らされず、科学者たちの興味深々な眼差しを、
長期に受けたのではないだろうか・・

実験により生成された放射能の危険性を軽視させるような情報の拡散。
近隣の住民には、バスタブで石鹸を踏んでころんだり、
台所で日常おこるような危険性と同程度だから、安心せよというプロパガンダ・・
万が一ハゲても、とりあえずかつらをかぶっておこう。そのうちまた生えてきますよ・等と、
ユーモアを交えて伝える。

そして子供たちへの洗脳。
可愛らしいカメさんが、「ピカっとしたら、すぐ隠れる!いいね!」とにこやかに言う。
そして、避難訓練の様な、被ばく防止訓練の模様・・
(私はこれをみてプルトニウムを飲んでも大丈夫と言っていた、プルトくんを思い出した)
 危険な事実をはらむモノは、いつだってまず子供達を抱き込もうとしないだろうか。

世界の平和を守るために、我々の生活・日常を守るために、
「核は必要です!」と言い続ける国とメディア。何かに似てないだろうか。

そう・・・今のこの国そのものに見えてしまう。

「停電が起こるとクーラーが止まり熱中症で死亡するかもしれません。」
「経済が衰退し、日本はこれ以上の繁栄は望めない。私達のこの生活水準も保てない。」
(=だから、原発必要です)
最近まで、TVで嫌という程、耳ににしてはこなかっただろうか。
そして、放射能は、「直ちに影響はありません。」と言われ、
子供は20ミリシーベルトまで安全とされ、
食品の安全性も不確かなまま、
「スピーディ」であるべき放射能拡散予測等、情報公開は一切なされてこなかった。
そして今も煙にまかれたまま、私達は、放射能の霧の中をさ迷っている・・。

連日、NHKなどで、ビキニ環礁の被曝者やロンゲラップ島の住民の証言、
広島・長崎の被爆者の告白や、
チェルノブイリ原発事故被曝者の今も続く過酷な実状が報道されている。
それら点の数々が、この映画で一つの「線」となった。

核=原子力。これは紛れもない事実と思う。

この映画をみて、国民への情報操作の有り様を見ただけでも、それを痛烈に感じる。
そして、今もに似たような事が起きている最中ではないか・とすら思う。


この映画には冒頭に、広島と長崎の原爆投下の映像も出てくる。
第二次世界大戦当時の映像であるから、
私達の立つ位置とは真逆の視点で語られており、
映像や言葉は無残で辛く、思わず目をそらしたくなる。
明日は、長崎の原爆投下の日・・・・・とても複雑な思いで、この映像を見た。

やはり核は人を幸せにはしない・・・
核のある未来に平和は来ないだろうと、猛烈に思う。

今、「チャイナシンドローム」と同様に、多くの人に見てもらいたい映画です。









2011/04/19

チャイナシンドローム

映画「チャイナシンドローム」を見た。
1879年の作品で、奇しくもこの映画放映直後に、スリーマイル島の事故が起きた。

チャイナシンドロームとは、
炉心が溶融すると、その熱が地球の裏側を突き抜けてしまうという大事故を比喩したもの。
今現在、チェルノブイリ7級の事故が自国でおこっており、
連日の報道や会見等で、原子力関係のワードにすっかり慣れている身としては、
非常に解り易く、体験を追随しているようだった。
しかし、この映画は今から32年も前のもの・・
現実が映画を追体験していると言った方が適当かもしれない。

ジェーン・フォンダ演じる敏腕キャスターが、とある原子力発電所のレポートで、
「効率的」を「利己的」と言い間違えるシーンが印象深く、象徴的だった。

重大事故をその撮影中に目撃するが、キャスターはそれを特ダネとし、
午後のニュースで取り上げようとする。しかし、
即座に何者かに圧力をかけられ、その申請は尽く却下され、マスコミは黙殺を図る。

発電所を長年「愛した」室長の内部告発で、
重大事故の露呈が市民に測られるが、とんでもない結末が待っていた。
いささか大げさすぎるともおもったが、今現在がこんな状況にある為、
非現実な結末にも思えない自分がいた。

巨大すぎるエネルギーを制御しきれないのに、飼い慣らしていると勘違いしている人間の愚かさ、
どす黒い利権がらみの人間関係、
そこに光った一筋の愛と「良心」。
それも流れ星となって遥か彼方に消えてしまうのか。
この映画では結論は出なかった。

できることならば、映画「東京原発」と並んで、
ゴールデンタイムのお茶の間に届けて欲しい作品だ。
「原子力」=核の闇の部分を勇敢に懸命に映し出しているだけでなく、
サスペンスとしても見ていて面白いし、引き込まれる内容だった。
しかし、映画の場合はフィクションで終わり、ほっと一安心、現実に戻れるが、
今はフィクションが「現実」だ。

原子力の闇を描いた作品の数々は、
書籍であれ、映画であれ、「とんでも内容」として長く世間一般から黙殺・廃除され、
隠蔽さえされてきたと思うが、
なぜそうされてきたか、何となくわかってきた気がする。
描かれたフィクションが現実となりうる可能性を見事にはらんでいて、
あまりにも危険だったからではないだろうか?
そして周知されたあかつきには、受け手のリテラシーが問われるが、
皆が皆、冷静に判断できるとは言えないから、
それなら見せないほうがましだろうという解釈だろうか。
今も情報を発信する側に、そのような風潮は多く残っている気がする。


鑑賞後、寒々とした悲しみが襲い、怒りと共に混沌としていた。
1人の人間にはあまりにも巨大すぎる闇だ。
闇の中で、一匹の蛍を追いかけているような感じだった。
そしてその蛍すらも、結局は殺されてしまった・・・

それだけは、現実にならぬ様、願っている。

2010/06/23

映画の話「愛のむきだし」

最近観た映画の話です。
「愛のむきだし」という4時間の大作を観ました。
それまで気にはなっていたのですが、
考え深いタイトルとその長さにずっと躊躇していました。
(これは腰を据えて見ないといけない)

しかし、見始めると同時に、
タイトルの割に意外とポップでテンポも絶妙な感じに進み、
人間の「心」の深部にまで及ぶ題材を扱っているのに解り易く、
しかし濃厚に細密に展開していく、その物語にぐんぐん引き込まれ、
4時間という長さは私は感じませんでした。

人の人格がどのように不可抗力の中で歪み、
妥協と許容の狭間で変容していくのかを痛烈に感じ、
このようなコンプレックスは、
種類は違くても根っこの部分で同じようなものが、
誰の心の中にでもあるのではないかと思うと、
人は本当に深いものだし、大変な中で生きているのだと思いました。

また人が「愛」によってどのように救済されうるのかも、
切なく苦しい程に表現されていて、
人(愛)によって人は傷つくけれども、
また人(愛)によって救われるという、、
一見単純なセオリーのようだけれど、
人間の人生の「元型」のような、
かけがえのない大事な部分を再確認できたように思います。

最後の30分の間に、化粧が全部落ちる程に一気に号泣してしまいましたが、
それは悲しいとか切ないとか、「感動した」などというような解り易い感情ではなく、
もっと心の深層のさらに奥深い所が共鳴して、
あふれ出てきたようなものに感じました。
それは透明で甘美な涙とは質の違う、
もっとどろどろとしたもので、
映画の内容から借りれば、「血の涙」のようなものだったかもしれません。

2010/01/06

映画の話

年始に借りて見たDVDで、とても心に残った作品があります。
C・イーストウッド監督の「グラントリノ」です。
前々からその評価の高さから見よう見ようと思っていたのですが、
この機会にじっくりと見ることができました。
そして、「百聞は一見に如かず」、噂以上の作品でありました。

海外の映画を見るといつも感じるのですが、
宗教や人種の問題、戦争の後遺症の問題等は、
本当に理解しようとすると、とても難しいということです。
私の勉強不足や、想像力の乏しさも原因しているのでしょうが、
それ以前に、この国のこの町に住んでいて、まず実感として感じ得ないことなので、
私には理解するのがとても難しいのです。

この映画にも、アメリカの実像として、それらのシーンは沢山出てきますが、
それ以外に、日本でも直面にしている老いと家族の問題や、老人の単身化、
地域社会の問題なども含み、
「人間として生きていく上での不可避な問題」を取り上げていたので、
国や生活様式は違っていても、
背負う問題は同じものがあるんだと、共感できる部分が沢山ありました。
切り口を変えれば、いくつもの違った問題やストーリーが見えてくるのです。

「そうか」と思ったシーンは、
モン族の食事会に、主人公のウォルトが招待された時のことです。
美味しい食べ物に段々と心を許していく主人公に、
「美味しい食べ物の前では人は笑顔になる」という通説を、
確信したように思いました。
映画におけるフード理論提唱者の方が以前ラジオでお話しされてましたが、
良い映画には良い食事のシーンがあり、食べ物を大切に扱っているとのこと、
なるほど、と思いました。
私は家事の中で、食事を作るのが大の苦手なのですが、
これからの人生において、食べ物への思いをちょっと考えなおさねば、とも思います。
同時期に「スーパーサイズミー」というドキュメンタリー映画も見ているので、
なおさら・です。

そしてウォルトが愛車を洗車して満足そうに眺めているシーン。
愛車のグラントリノは、主人公のアイデンティティであり、心の拠り所であり、
良き日々の象徴であり、宝物であり、誇りである。
こういうものを一生のうちに持てるか持てないかで、
心の在り方は随分と変わるのかもしれないと思います。
さて、私には何がある?と問うた時に、
「家族」以外に思いつくとしたら、やはり「描くこと」でしょうか。
それは、高価であったり誰に相続するものでも無いけれど、
やっと描けた絵1枚を眺めて思うことと、
主人公が磨き上げた愛車を眺めている時に思うことと、重なる点が有る気がします。

細かい絵を描いていますから、
そのうち身体的に描けなくなる日も来るでしょう。
でも、その「大切な日々」を眺めながら、
懐かしい気分に浸るだけの日々が来ても、
それはそれで、幸せなのかもしれません。


この映画では、感動した・とか、良い映画だった・というよりも、
深く考えさせられる点がいくつもあったということが、私にとって魅力でした。

両親の老いが更に現実味を帯びてきた時に、私はどう対処するのだろう
連れ合いはいるけれど子供は無く、このまま生きていくとどうなるのだろう
単身になった時、地域コミュニティとはどう接している?
孤独で命を断とうとする老人がいる、長生きしてごめんねという老人がいる・・
そんな社会はけして健全とは言えない

暴力は、更なる暴力と憎しみしか生まない
温かく美味しい食は、人と人との繋がりを豊かにする
良き師が若い頃私にも大勢いた、そしてその人たちが私を育ててくれた・・

そして、私にとっての「グラントリノ」は?


こんな思いが見た後に走馬燈のように 頭に広がり離れません。
当たり前の様な問題、事柄だらけですが、
気付くことと、気付かないまま、あるいは気付いても無視し素通りしてしまうかでは、
これからも生きていく上で、それは大きな分岐点に思えてなりません。