Kyon {Silence Of Monochrome}

Kyon {Silence Of Monochrome}
上記をクリックするとKyonイラストのホームページとなります。ぜひご覧ください。

2012/03/28

映画「イエローケーキ ~クリーンなエネルギーという嘘~」

『イエローケーキ』
“天然のウラン鉱石を精錬して得られるウランの黄色い粉末のこと。
これが燃料棒のもととなり、燃料棒が束ねられたものが原子炉の中で核分裂して熱を生み、
発電機を回す。”


原発のいわば川上、世界各地のウラン鉱山の実態が映し出される。
ドイツ、ナミビア、カナダ、オーストラリア・・・
映画をみて終始一貫して感じたことは、
大企業の秘密主義、権力主義、根拠のない万能感(安全神話)、
そして、金、金、金・・・。
差別的なものも多く感じた。被曝労働そのものが、差別的とも言えるのかもしれない。
そして、採掘に携る人々には一様に、ウランとは何なのか?
被曝とは何なのか?健康への影響は?本当に安全なのか?これらの情報、
とにかく、命にかかわる情報が(意図的に?)殆ど伝えられていないと感じた。

ナミビアの鉱山で働きながら、大学の勉強をする若い女性は、
地元で病気が蔓延しているという。汚れた粉塵のせいだと。
そして、自身の被曝はどれほどのものか知っているか・と問われた時に、
長い沈黙の末、「よく知らない」と語った。
その目には、不安とも戸惑いともいえる寂しい色がさしこんでいた。

カナダ北部のウラニウム市は鉱山と共に栄えた街。
絵のような美しい町だったという。
「失業者もホームレスもいない。どこか非現実的だった。
人工的な町だったけど好きだった。」
かつて住民だった女性は語る。
当時、街の住民は、自分の夫や父親が鉱山で どのような仕事をしているのか、
妻も子供も知らなかった。
その内容は秘密厳守で人々の口から固く閉ざされていたという。
200キロ離れた場所で、ウラン含有量が20倍の鉱床がみつかったとたんに、
街は衰退し、死の街と化した。
先の女性の話がふっと頭にリフレインする。
「どこか非現実的・・・」。幻想的ともいえるのだろうか。
一瞬にして消え去る儚い夢のような、
それは、核がもたらす破滅的な世界と似てはいないだろうか。
原子力発電所が1回事故を起こせば、広大な土地が失われる。
多くの人々の生活が一瞬にして奪われる。
いわば川上にあるウラン鉱山と、川下にある原子力発電所、そして核兵器。
推進派は「豊かさを与える」とか「未来に繋がる」とか、甘い言葉を豪語するけれど、
最終的にもたらすものは一緒・・・それは、深い闇と「虚無」だと感じた。

この街を再生すべく、あらたに土地の調査に関わる若い女性達。
女性というより少女だ。
彼女達はこの街で再びウランが出ることを証明するという。
そして素手で鉱石を拾う。
「触っても平気?」と聞かれ、「慣れているから」と答える。
「安全じゃなかったら触るのは禁止されるはず。」
彼女達は、放射線が女性に及ぼす影響を教えられていないのだろうか。
放射線は、「慣れる」ことでその被害を免れるとは、
素人の私でも到底、思えない・・・
企業や推進側にいいような情報だけを提供され、
鵜呑みにしているだけではないだろうか。
それとも、知ること事態を拒んでいるのだろうか。

人は見たいものだけを見る・という。
自分の目指す目標を妨害する情報には、目をつむり耳をふさぎ、口を閉ざすだろう。
それを推進側もよく知っている。
だから、危険な情報は出してこない。
危険な情報が出てこないなら、安心なのよ・と、関わる人々も思いたい。
そこには双方、強いバイアスがかかっていると思う。
そしてそういう歪んだ構図で、なりたっている世界にも思う。

ナミビアの現地人達も、ドイツのウラン鉱山で働く者達も、
ウランとは何なのか、被曝とは?健康被害は?という情報がほとんどないまま、
自分がどれほど被曝しているのかも、知らされないまま、
舞い上がる粉じんの中を、ラドンが蔓延する中を、長期にわたり、働き続けた。
元採掘員のドイツ人男性は肺癌を患った。
ナレーションがこう語る。
「東独じゅうから集まった作業員にウランの知識はなく、
昔から伝わる炭鉱夫の話も知らなかった。
謎のれき青鉱の話だ。死の危険をもたらすとされた鉱物。
200年前、ベルリンの化学者がれき青鉱から発見した物質がウランである。
現代の鉱員には正体は知らされていない。」
そして、こう続く。

「無知こそが嘘のはびこる土壌を作る。」

人は知ろうと思えば知ることができる。そうしたスキルも能力も、ツールもある。
では、 無知人間の鋳型は、いったい誰がつくっているのか?
知ること、知ろうとする気力を奪うものはいったいなんなのか?
私はそこにいつも疑問を感じる。 
ここ日本でも、いまだに食品の新基準やベクレルを知らない人間がいる。
事故が収束したと思って、原発は安全だと思っている人がいる。
日本にも、無知人間を作る鋳型が存在している。


オーストラリアの先住民は気高かった。
先祖からの土地をずっと守り抜いていこうとしている。
相手は資金の豊富な巨大企業。
土地を狙う男達からは人種差別的な言葉も聞こえた。
そして彼らは言う。ウラン鉱山は「国家の利益」。

推進者の言う豊かさと、先住民の願う豊かさは根本的に何かが違う。
質が違う。
それは持続可能な社会なのか、次の命を育む自然か。
核は生命そのものを脅かす。次のそのまた次の世代まで、
未来永劫、負の影響を及ぼすかもしれない。
それらが放つ放射線10シーベルトで、人は100%死に至るといわれている。
それらが本当に「豊さ」を生み出すのだろうか?
死と生は常に密接に繋がっていると思うが、それは自然界での話だと思う。
命つきた身体をバクテリアが分解し、それを養分として新たな芽が萌える世界のことだ。
核にそのような世界が望めるのだろうか?
託せるのだろうか?
疑問だ・・・

オーストラリアでひたすら自分の土地を守る男性は言う。
「なぜ、この美しい土地を掘り返す?私達はこの土地から食べ物を得ていた。
何でも与えてくれる土地だ。
私達はここで生きる。汚れなき環境で生き、きれいな水を飲みたい。」
彼は世界一の金持ちになる事を拒否したという。


パンフレットの冒頭にホピの予言がある。
「母なる土地から 心臓をえぐり出してはならない
それは灰の詰まった瓢箪と化し やがては世界を破滅に導く」

知っていたのだろうか、ウランの存在を。人間がそれに強く魅かれることを。
消せない炎がやがて灯され、多くの人々がその炎に翻弄され、焼き殺されていくことを・・・


渋谷の街は、まるでなにもなかったかのように、
光が煌々とし、人々は自由気ままに闊歩している。

私は、その街を漂う無数の人の群れが、いつしか巨大魚に喰われようとする、
海中の小魚の群れに見えてきた。
私もそのなかの、一匹の小魚だ。
私の中にも、福島原発事故の核の残骸が入り込んでいることだろう。
被曝の脅威など、放射性物質のことなど、知らなければ知らずに済む、それが核の世界だ。
今でもマスコミやマスメディアの情報では、それらについての十分な知識は得られなくなっている。
テレビや新聞だけに頼っていれば、知ることはない。
知らなければ、笑って過ごせる。好きなものが遠慮なく食べれる。好きな場所に寝転べる・・・
しかし、それでいいのだろうか?
知ろうと努力すればいくらでも知り得る素晴らしい情報化社会にあって、
人はなぜか逆行している様にも思える。
それは、ウラン鉱山の周辺の人々の精神構造とも似ていて、
日々の生活を一挙に握られ、それがないとダメなように思いこまされ、
権力や情報操作等によって巧みに仕掛けられた強いバイアスが、意識下で作用し、
思考停止に人々を陥れている気がしてならない。

知るということは、特に隠蔽されるような重要な問題ほど、
時間と努力と忍耐と、自分で考える思考力が必要だ。
そして、勇気も必要だ。
それらができて始めて、この情報隠蔽・操作と、情報化社会という混沌の荒波で、
人は自分の1回きりの生を、自分主体で航海できるのだと思う。
映画「イエローケーキ」で登場した、
オーストラリアの先住民族にみる気高さ・崇高さを、
知るという「勇気」を持つこと、
自分の頭で考えること、そして選択し、自分主体で生きて行くということ・・・
そこに感じはしないだろうか。


映画「イエローケーキ」渋谷UPLINKにて。

2012/03/15

映画「プリチャチ」

余計な音楽も演出も無く、ただひたすら静寂したモノクロの世界が続いていく。
そこはかつて、原発作業員の住む町だった。
私達と同じ、普通の生活があって、普通の人々の営みがあった場所。
人々が出会い、子を産み、泣き笑い悩み、愛し合ってきた場所。
1986年のチェルノブイリ原発事故により「ゾーン」となった。
「ゾーン」とは「危険区域」の事。放射能に汚染されたいわゆる、死の町だ。

原発の警備にあたる警官が言う。「自分達は15日休み、15日働く。」
それがどういう事を意味するのか、今となっては容易に想像できる。
長時間の労働は健康を損なう。それだけ、放射能に汚染されているという事だ。
彼は言う。
「多分この場所には二度と人は住めないだろう。
100年後でも住めないと確信している。」


チェルノブイリ原発事故当時、除せん作業等に多くの若者が投入された。
何も知らずに、無防備な状態だったという。
黒鉛を素手でつかんだり、はだしで歩いていた。
「12年経った今は、おそらく生きていないでしょうね。」
研究所の女性が言う。
「わざと知らせなかったのよ。」彼女は躊躇なく言った。
「これがチェルノブイリの悲劇よ。」


素朴な夫婦のインタビューや、
今でも避難できずに居住禁止区域で生活する人々の、素朴でおごそかな姿が映し出される。
圧倒的に年配者が多い。しかし、少女の姿が見えた時はドキリとした。
それと交互して、不気味で不細工な事故の残骸達や、朽ち果てた家々、
閑散とし、いまや廃墟と化した元居住地域が映し出される。
その、人間の生命とはとうてい相容れない違和感と、
「冷やかな鉄の塊」と「人々の普通の生活」というコントラストの強さに、
私は目眩を覚えるかのようだった。
それは原発=核が地球上のあらゆる生命に否定される、確固たる理由のようにも思えた。
衝撃的だったのは、その老夫婦の娘が原発事故後妊娠した時に、
医師が役所に通告し、その後堕胎させられたという内容だった。
まだ産まれもせぬ命を否定する、命をこういう形で踏みにじる原発とは一体、何なのか・・・

チェルノブイリ原発三号機内部の映像も衝撃的だった。
四号機には収容できなかった作業員の遺体がいまだに眠っているという。
その悲劇を忘れない為に、3号機の内部には小さな慰霊碑がある。

安全責任者の男性は、「重圧を感じ」ながらも高らかに言う。
「事故は起こさせません。私が保障します。」
しかし、その瞳はなぜか力なく、小刻みに泳いでいるように見えた。
彼は仕事は楽しいが、給料の低さに家族を養えない・と嘆く。
そして配給される食券を自慢げに語る。
「ここは食事は無料です。ここにいれば餓死しない。食券を撮りますか?どうですか?」
何度も繰り返し言う姿に、ほんの少し寂しさを覚えた。
と同時に漠然とした不安も抱いた。
これが、あの史上最悪と言われた4号機爆発事故の後の、
原子炉の安全管理に携わる人間の姿か・・・
頑張っている。志もありそうだ。ただあまりにも、心細くはないだろうか・・・


冷却水池から獲れたという魚が映し出される。
放射能の生物の影響を監視しているという、研究所の男性。
「ここで獲れた魚は1500ベクレル。肉食類になるともっと高い。
最高で20000ベクレルにもなる。」
それでも汚染レベルは低いという。
「食べれません。絶対に食べてはいけません。」
居住禁止区域に住む老夫婦は言う。
「野鳥は原発で越冬する。冷却水は温かいから、氷がはらないんだよ。」
その冷却水はいったいどこへ流れ込むのか・・・


ほのぼのとした風景もあった。
時折、猫が追いかけっこをして横切ったり、
老女の魚の下ごしらえの最中に、ご飯をねだっていたりする。
その様子を、猫好きの私は「その魚は、ストロンチウム等大丈夫かな・・」
と心配しながら眺めていた。
放射能さえなければ、普通のほのぼのとした微笑ましい風景だな・・・そんな気持ちにもなった。
そして、3月11日のあの原発事故以後、食品への不安がいまだに払拭できない「今」が重なった。

「安全だよ、気にしない。」「慣れたよ。」
そういう言葉が映画の中で交わされる。
他方、「安全な場所など無い。」
「150年経っても人は住めない。」
という言葉も次々と出てくる。
人々は、日々の生活の中で葛藤し続けている。
その認知的不協和の中で、ある者は妥協し、ある者は忘却し、
ある者は嘆き、 ある者は戦い続ける。
チェルノブイリ事故の12年後の人々の姿・・・
福島原発以後の日本に住む我々の姿と、重ならない訳がない・・・


白黒の映像というのは、自分の固定観念のせいで、
どこか過去に追いやられていく感じがする。
しかし、観終わってみると、実に鮮明なのだ。
記憶の中で、なにかが強烈に残る。
それは今度は私達が、このモノクロームの中にすいこまれていくのか・という怖さや、
自他ともに忘却、あるいは慣れていく不安感。
「ゾーン」=死の町から感じる冷やかさ、虚無、絶望・・・

生活が、ずっと続くと疑わなかった日常が、
たった一回の事故で奪われるという悲しい真実を静かに、
しかし切実に訴えているこの作品に、
自分自身も含め、多くの人がもっと早く出会えていたらと思う。
モノクロームに横たわるこの「ゾーン」には、
終始、どうしても生命を感じる事ができなかった。
肌の温かさ、呼吸、血の流れ、脈拍を感じない。
生命が凍結しているかのような、石のように硬く冷たい感じがする。
原発はメドューサか?睨まれた私達の生命は石と化してしまうのか・・・

原発=核による生命の石化は、もう二度と起こして欲しくない。
その為にも、多くの人にこの作品を観てほしい。
今だからこそ、真剣に原発とはなんだ?と問い、
自分の命や生活に関わる問題として考え、
多くの犠牲と人々の悲しみを伴った過去からの警告を、
これからも恐れずに、心に刻み続けて行きたい。


映画「プリチャチ」  渋谷UPLINKにて。