Kyon {Silence Of Monochrome}

Kyon {Silence Of Monochrome}
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2010/07/26

心の訓練

他者はやはり自分と違う人間だから、
その発する言葉によって、ひらめきをもらったり、勇気を与えられたり、
残念なことに、不意に傷付けられたりもします。

「言葉」に対し、怒りを感じたら、次のようにすると良いと教わりました。
・待つこと
・その怒りの理由を考えてみること
そして
許すこと。

待つことは、怒りの感情に押し流されずに、一歩立ち止まって客観してみることでしょうか。
私の場合は可能な限り、その場を離れたり、
身体的に離れるのが無理だとしても、心理的に距離をおいてみる努力をします。
そして、何故不快に感じたのか、それを内観してみます。
他者は大体において、故意に人を傷つけたりはしないと思うので、
怒りの原因は、まず自身の心の中にあり、それはコンプレックスだったり、
不安だったり、心配事だったりします。
その「辛い事」から目をそらさずに、解決できるにはどうしたらよいのだろうと考えてみる事は、
自分を見つめ直す良い機会にも転じます。

そして、これが一番難しいのですが、「相手を許すこと」。
相手も悪気が無いのなら、ふっと言ってしまった過ちなら、
もしかしたら自分も、何処かで人を傷つけている可能性が同じようにあるのです。
そこで、誰かの許しを暗黙のうちに得ているのかもしれません。
その心に敬意を表し、自分も真似してみる。
真似してみる事は、いつか「学び」に結びつき、
(「学ぶ」という言葉は、「まねる」から来ていると聞きました)
自分が人格的に成長するための大きな糧になると思います。

負の感情は連鎖しやすいが故に、誰かがどこかでストップしなければならないし、
それを実行している人がこの世の中には沢山いるから、
お陰で穏やかに暮らせて行けるのだと思います。

まだまだ成長過程の、更に底辺にいる自分ですが、
人生はある意味「修行」と思って、心のコントロールを日々鍛錬していきたい、
そう思います。

2010/07/23

はるか昔

先日見たテレビ番組での内容です。
我々哺乳類の祖先が何億年もの昔、まだ恐竜達が世界に君臨していた頃、
様々な試練を乗り越えて生き延び続け、今の私達の「命」に繋がっっている・という事を、
CG映像などをまじえて、理路整然と解り易く伝えていました。
太古の昔、小さくて弱い存在だった祖先達は、
その弱さゆえ、未完成ゆえ、生き延びて進化し続けてこられたといいます。
何億年もの時を経て、繋がっている「命」を、
我々皆が宿していると改めて認知した時、
周りにいる人々が、自分も含めて、今ここに存在しているという事は、
とても奇跡的な事なのではないか、と思いました。
繋がってきた命を継承できるかはさておき、
それが自然に果てるまで、断ち切ってはならない「絆」と感じました。
現在「自殺者3万人の社会」と言われ、
何億年もの時を費やして進化し届けられた大切な命を、
自ら断ち切らざる終えない状況を生み出してしまっている今日、
少し立ち止まって、気が遠くなるほどの大昔、
死に物狂いで必死に命を繫ぎ進化し続けて来た、
遠い遠い祖先に思いをはせてみることは、
自分という存在を確信する為に、とても有意義なことかもしれません。

「哺乳類が生き延びる為に、その「弱い存在だった」という事実が、
最も大事なことだった。
そして「未完成」であったゆえに、進化し続けることができた」
と番組では語られていました。
多大なストレス状況においても、生き延びる為にどうすべきか、
人間は常に思考を重ね、「脳」を大きくしてきたと言います。

私達は、その質や量はちがっても、
「命」を危険に陥れる可能性を秘めたストレスと
日々対面せざるを得ないのは事実です。
そこで、私たちの遠い遠い「祖先」に思いをはせてみれば、
たとえ今、自分が弱くて小さい存在に感じているとしても、
それが次の自分の精神的進歩に繋がる大切なファクターだと考えることができたなら、
随分と楽になると思います。
そして、ストレスフルな中でもがき苦しんでいるとしても、
それが進化へのきっかけや踏み台になりうるならば、
自分を信じてそれらと対峙する価値はあると思います。

2億年も3億年もの昔というのは、
目も眩む程に遠い過去のはるか彼方の事ですが、
険しい生存競争を生き抜ぬき、進化し続けてきた人類の歩んできた「路」が、
私たちの中心にずっと継承されていると思うと、
なんだか心強く、胸が熱くなります。

2010/07/14

夏の暑さ 冬の寒さ

昨日は肌寒かったのに、今日はまたぐんと気温が高い。
夏は暑さのせいか、集中力が落ちるので、
絵を描くペースが四季の中でもガクリと落ちます。
下書きしてある絵は沢山あって、
早く「私」を完成させろと言っているようで、
なんとなく焦ります。
絵を描く時も扇風機だけなので、日中はもっての外、
下手をすると汗で紙が湿ってしまうので大変です。

夏の酷暑の日に、ふと冬の寒さを想像してみますが、
うまく思い出せません。
寒くて寒くて震えるほどの日を何回も重ねてきているはずなのに、
どんなんだったっけ、という感じです。
逆に冬の極寒の日に、夏の暑さを思い出そうとしても同じです。
都合よく忘れてしまっている感すらします。

人の人生もこれと似ていて、本当に辛い時はその辛さの中で苦しみながら、
幸せだった時をを想像するのが難しく、
幸せな時も、それにどっぷりつかってしまっている時は、
他の苦労や悲しみもなんとなく忘れてしまっているように思います。
光や影は交互に私達を包み、巻き込み、翻弄しながら、
人生においての、夏の酷暑の日でも冬の極寒の日でも、
それぞれ生き抜けるような知恵と力を
私達に与えてくれているような気がします。

光の中で影を思い、影の中で光を想像する、そのちょっとした思考の練習が、
光や影の渦に溺れない為に必要なことかもしれません。

2010/07/10

内猫 外猫 隔てなく

夏は苦手です。少々夏バテ気味です。
クーラーによる外気の差がとても辛く、体力を奪われてしまいます。
家ではクーラーを使う時は設定温度は28℃、
ほとんどは扇風機で事足りてしまいます。
「夏」そのものは、季節の中でも一番青空がすがすがしいし、
日暮れ時の散歩も情緒があって好きだし、
鈴虫やヒグラシの音色が心地よくて好きなのですが、
ビルやショップ、電車などの冷えすぎた空間と外との差が
夏の身体を怠くする大きな要因に感じます。

夏になると、ワサビも定番の「おなかみせ」スタイルで、
大股を開きながら、ドベ~としていることが多くなります。
毛皮を着ているので、ちょっとの暑さでも大変です。
この時期は熱中症にも十分気をつけなければなりません。
以前、初めてワサビが来たその夏に、熱中症をおこし、
2日間ほど押入れから出てこなくなってしまったことがあり、
食事もとらず、だるそうにしているのを見て、焦りました。
それから、本当に暑い日には、冷房をドライにしてタイマーでかけておきます。
過保護と言われますが、その時のトラウマがあるので、
夏はワサビと私にとって要注意の季節です。

私の家の周りには野良猫も多いのですが、
外の猫たちにとっても、夏は大変な季節です。
先日は、酷く年老いて弱った白い猫がうつろな目を私に向けてきました。
思わずその汚さに「ぎょっ」としてしまったのですが、
その猫は飲み水を求めて、さ迷って家にたどり着いた様子でした。
私がためらっていると、猫好きの父が「水がほしいんだろう」と
桶に水を汲んで猫にさしだそうとすると、
猫はフラフラと弱々しく足を引きずって逃げてしまいました。

その時、私の胸は自己嫌悪感に苛まれ、きりきりと痛みました。

猫の世界は私の考えているよりも、
ずっとずっとシビアです。
外猫の現実は、飲み水と餌にありつけなければ、
この暑さの中で体力を消耗し、
もし病んでいたならば、真っ逆さまに死の淵へ落ちてしまう。
そうでなくても、他の猫との闘争や感染症、交通事故や、
悲しくも人間による虐待という恐怖も待っている。
明日は生きているかどうか分からない現実の中で、
外猫の眼は、家猫のそれよりもずっと厳しく苦悩に満ちた光を放っています。
その老いた白猫は、そのような厳しい現実を
その眼差しによって訴えていました。
それでもジタバタせずに、大騒ぎせずに、
運命を静かに享受しているようにも見えました。

ワサビも3年前にボランティアの方から譲り受けた野良猫です。
錆柄というのは、その柄の特性(あまり見た目に美しくない)からなのでしょうか、
飼われている猫は多くないようです。
生まれる数がもともと少ないのか、それとも引き取られる件数が少ないのか・・
私は要因が前者であることを祈ります。

外猫の過酷な現状を見る度に、
「ワサビ、おまえは幸せかい?」と問いかけます。
窓から外を眺めているワサビは静かに尻尾を振りますが、
真意はわかりません。
ある意味、親猫と引き離し、慣れた自然界から勝手に持ち出したのは、
私たちであり、彼女が望んだことではありません。
でも、外猫の過酷な生活とそれによって平均寿命はわずか3年というデータを聞くと、
家猫は長くて20年以上も生きることができますから、
その間、たっぷり愛情をそそいで、美味しい物を沢山食べてもらい、
快適な空間でゆっくりくつろいでもらえたら、それが彼女の幸せにつながってくれればいいと、飼い主の誰もが思うのではないでしょうか。
そして、それが小さな命を守るために私たちの出来ることなのです。

外の猫と家の猫、命の重さは同じなのに、
そこには「寿命」という格差がある。
それを生み出したのは私たちなのかもしれません。
だけど、猫たちは不平不満を言わずに静かに生きている。
お互い必要以上は争うこともなく、羨むこともなく、妬むことなく生きている。
私自身の小ささと醜さを浮き彫りにしてくれた、
そして、どんな命も重さは同じだという大事なことを教えてくれたあの老いた白猫は
もう亡くなっているかもしれません。
せめてあの時優しい言葉をかけてあげればよかった・・今でも心が痛みます。
それから、年老いた弱った猫を見かけると
「がんばれ。がんばって生きろよ」と心の中で声をかけています。
ぼろぼろになっても生き抜こうとする、その姿に敬意と尊敬の念をこめて。