2011/12/07

あずき















12月7日、午後2時30分。あずき、永眠・・・

出会った日の事は今でも覚えている。
遊んだ玩具や、食器は今でも、とっておいてある。

初めてミルクを飲ませた時や、指をかまれた時の事、とても懐かしい・・・
日記は読み返せない・・・写真を見れば涙が出てくる・・・

あんなに愛らしい仔にはもう二度と会えないだろう。


あずき。

いつまでも、私たちの天使・・・
いつまでも、、宝物・・・

2011/12/03

添加物は欲しくない

食品添加物に気をつけ始めたのは、ちょうど1年前・・・

きっかけは、昨年の小さな愛猫、あずきの「死」だった。
あずきは野良猫で、生後まだ1ヶ月の弱々しい身体で
路上の真ん中をうろついていたのを私が保護したのだった。
丁寧に、慎重に育てていたつもりだったのに、
わずか4ヶ月で空に上っていってしまった・・・

私は悲しくて、来る日も来る日も、ずっと「死」について考えた。
この子の死の後ろには何千、何万体という
可哀そうな動物達の死骸が転がっている様にも思えた。
それは、外でひっそりと死んでいく仲間たちであり、
もしかしたら人間によって殺される仲間たちかもしれない。
この子のように、人間の手で骨まで拾いあげられる子はそうそういないように感じた。
だからなおさら、あずきには長生きをして欲しかった・・・

人間達の手によって死んでいく命に、「動物実験」の犠牲がある。
新たな新薬、化粧品、食品添加物などが生み出される度に、
その安全性を確かめるべく、実験が行われる。
動物はそもそも、人間とは生理的に違う事や、
残虐な実験の実態に倫理的な論点からも、その是非は長く議論され、
出口が未だに見つからない。
それはまた、現代において一種のタブーの様でもあり、
福島原発事故以前の原発論争にも似た様相を受ける。
「動物実験が無くなれば、新薬は開発できませんよ?」
(原発が無くなれば、この豊かさは享受できませんよ?)
「貴方も既に、薬に助けられているでしょう?」
(貴方だって電気を使ってきたのでしょう?)
そんな言葉を想像する。それは今でも推進派から口にされる言葉だろうと思う。
ただここで書きたいのはそういう事ではない。
時代の流れ、経済のめまぐるしい成長と共に、
私達の生活に利便性・効率性、即時性を追求した、
その答えの一つが「食品添加物」であり、
それらの開発の為に、沢山の命も費やされてきたのだろうという事だ。
そして、食品添加物は、
食品ではない異物として扱われているからこそ表示義務があるのであり、
その異物を何世代にもおいて等、長期摂取した実例は未だないから、
人体の影響も、未知の部分が多いのではないだろうか。
だから、我々も今、数々の添加物を摂取する事により、
言葉は悪いが「人体実験」の最中にいるといっても過言ではない気がする。
考えてみればおかしな話だ。
スーパーへ行けば、塩と大根だけで作った「天然」の漬物よりも、
幾度も研究を重ねて労力を駆使してできあがったであろう添加物を、
プラスした漬物の方が安い。
素朴な商品や、無添加である程、高価になる・・・
それは化粧品でも、日用品でもそう。

一方で、消費者のニーズ=長期保存性・みため・味・価格・・・これらを追求し、
さらに大量に効率よく短時間で生産する為には、
どうしても添加物に頼らなければ企業は生きていけない。
そして、企業を選び、「食べて支えてきた」のは消費者だ。
添加物を生み出してきた責任は、私達消費者にもおおいにあると思う。
しかしそれを自覚しつつ、買い物に出かける人はおそらく相当少ないだろう。

私は、買い物に行く度に、商品の裏をみる。
台所にない調味料を避ける事という指摘は、なるほどわかりやすいと思った。
そしてよく解らない言葉を避ける。それだけでも直観的に判断できる。
そして、何故安いのか、何故こんなにきれいなのか、
何故(常温で長時間出されていても)腐りにくいのか等、
ちょっとでも疑問に感じれば購入を考える。
そして迂回に迂回を重ね、やっと納得した商品を買うようにしている。
昨今の放射能汚染もあって、産地等も気にかけていると、
自ずと選択肢は狭まり、
毎日の買物には倍の時間がかかるようになってしまった。

仕事に明け暮れていた以前は、
コンビニ弁当やサラダは当たり前、スーパーのできあいのお惣菜、
カップ麺、即席レトルト、混ぜるだけのスパゲティソース等、ずっとお世話になっていた。
幸い仕事が以前より緩和した今、
そして、添加物の脅威を知ってしまったからには、
それらのものはまず避けようという気が働く。
そして、基本的な調味料・・砂糖、塩、醤油、みりん、酒、胡椒等を、
なるべく吟味して安全なものを揃えるようにし、
毎度の食事もなるべく手作りする事にした。

料理下手であったから、始めは手間取ったけど、
慣れてみると、だんだんと手際もよくなっていく。
自分でだしをとった味噌汁の自然な味。
はちみつと塩で煮たカボチャの甘くておいしいこと・・・
薄味に徐々になれ、味覚が徐々に戻ってきたように感じる。
逆にカップ麺やレトルト食品、ファーストフードは苦手となり、
外食さえも消極的になってきた。
しかし、経済的にはむしろその方が財布にやさしいし、
何より心と身体が変わったように感じる。
個人的な話だけれど、冬になると、酷いかゆみを伴うじんましんに悩んでいたが、
今年はそんなに酷くない・・・
本当の所は検査しないとわからないが、調べてみると、
添加物にはアレルギーやじんましんを引き起こすものもあるらしい。
それよりも、身体は食べ物からできているという事を改めて考え、
得体のしれないモノを、不安に思いながら毎日摂取するよりは、
少しでも自然なもの、昔から人々に愛されているものを選択していく・・・
それだけでも、心身の調和が整うように思う。


私にとっては、何よりも、尊い一つの命が教えてくれた事・・・
たった一度きりの命、たった一度限りの人生、
今その時を、大切にせよという事・・・

今日という日は今日だけのもので、
今日頂いた空気や水、そして食物によって、私達の身体は作られている。
そんな単純かつ明白なことに、今まで気づけなかった自分を恥じる。

経済優先や、欲求のおもむくまま、快楽原則のみで動いてしまったら、
いつか人は人で亡くなってしまう気がする。
3月に大地震が起こり、原発が爆発し、TPPという新たな脅威に狙われ、
混沌と、殺伐とした今だからこそ、
思考も行動も、食物も「自然体」でありたいと思う。
そして、猫達も私達も、自然から産まれた、なんら隔たりの無い、
ただ一つの同じ命であるということを、
深く深く、考えて行きたいと思う。

2011/11/25

帰れるのなら…

この時期は、正直…一番、辛い…

昨年の11月21日、4ヶ月のあずきを動物病院に連れて行き、
白血病ウィルスの検査をした後、陰性だったので、
3種、ではなく、白血病をふくむ4種混合ワクチンを打った…
その1週間後、突然てんかんのような発作を起こし、
病院に急きょ連れて行き、その場で入院となった…

最終的に、死因はFIP=猫伝染性腹膜炎とされたが、本当の所はわからない…

あずきが亡くなってしばらくたった後、
このいささか性急だったワクチン接種が問題だったのではないかと薄々思っていた私は、
とても怖かったが、意を決して調べてみた事がある…

ネットで検索を繰り返し、
何軒かのブログに到達し、そこでは同じ様な事が書かれていた。

「アメリカでは白血病ワクチンを接種後、FIPを発症する仔猫が少なからずいる…」

「猫における白血病のウイルスに対する感染も
ワクチン接種が引き金になっていることが多く、
さらにこのワクチン接種が原因で
2~3週間後に猫伝染性腹膜炎を引き起こすことさえあると言う…」
 また、早すぎる月齢の子に対しては、
ワクチン接種は慎重になれ・ということも書いてあった。

上記の内容に関して本当なのかどうか、信ぴょう性は定かではないが、
あずきの事例と符合する点が多く、これらの事は脳裏に焼きついた…


当時、あずきのFIP発症は、もしかしたら摂取したワクチンに関係があるのでないかと、
少し不安に思った私は、
かかりつけの医師に聞くのではなく(当時、勇気がわかなかった…)
セカンド・オピニオンで相談にいった別の医師に聞いてみた。
が、やはり、ワクチンと病気の因果関係はわからない、
そうではないんじゃないか・という意見だった。
同様な事を言われたと、検索してたどり着いたブログにも書かれていた。
仮にそうだとしても、因果関係を認めるはずがない…そうだろう、と思う。

猫に詳しい方に相談をしても、同じ様な事例がなく、
ワクチンによって引き起こされたのであれば、非常にまれなケースであったのか、
それとも関係はなく、別の要因なのか、
そもそもFIPではなかったのか、
(発症後の検査では、FIPの原因とされるコロナウイルスの値は100であった。
この値は陰性になるらしいが、まったくウィルスがいないという値では無く、
また子猫の場合は変動が大きい為、あまりあてにならないらしいが…)
今となっては、真相はもう、わからない…

ただ、今でも心にしこりとなって残っているのは、
ワクチンは、特に「4種混合」は早すぎたのではなかったか・という事…
そして、勉強不足で、接種に待った!をかけれなかった、私自身の認識の甘さ、責任の重さ…
たった一つの、大事で大切でしかたがなかった命を犠牲にしてしまったという、
背中に背負った「十字架」は、一生下ろすことはないだろう…

できることなら、あの日にかえって、やめて・といいたい。
決して、そのせいだとは言い切れないけれど、
あずきを失う可能性の一つでも、防げる事ができるなら…
私は、11月21日のあの日にもどりたい…


ごめんね、ごめんね、・・・と何度も心で謝罪をしながら、
あずきの仏壇に手を合わせた。

私はまだ、自責と、罪悪感と、悲しみの深い深い谷底にいる。
黒猫を見る度に、心が締めつけられ、涙が出てくる。
多分、心療内科にいったら、「うつ」だといわれるかもしれない。
沢山薬を処方されるかもしれない。
でも、こうして、文章で悲しみの一部を吐露することで、
なんとか、心の安定を保っているという事もある。
この心の痛みは、あずきが、たった4ヶ月でも存在し、
今も心の中に存在し続けているという証のようにも思う。
だからこそ、私は苦しみに耐えても、
この痛みを感じ続けていこうと思う。

感じ続けていかなければならない。

小さな命を救えなかった、私の責任の重さに比べたら、
死に行くあずきの、あの苦しみに比べたら…

こんな痛みは何でもないのだ。

FIPと戦っている世界中の猫ちゃんが、
あずきの分もどうか、長く長く、生きてくれますように…

※ネココロナウィルスについて

2011/11/24

キャットフードあれこれ考察


猫達に、すこしでも良いものを食べてもらいたいと思い、いろいろフードをリサーチ中です。

現在のフード選びの注目点は、大まかには、
無着色、無添加である事・遺伝子組み換え不使用である事。

色々調べて、とりあえず、購入してみたのは、
カントリーロードと、ナチュラルバランスです。

以前食べていたフードに、今は半分混ぜてあげていますが、
食いつき良好。便も良好。体調、目の輝き、毛並みや艶も良好。
・・少し値が張りますが(カントリーロードで544g 1,365円でした・・)
納得したものを食べさせたいな・と、
いろいろと試行錯誤中です。

情報をあれこれと仕入れているうちに、ちょっと気付いた点がありました。
ウルトラプレミアムフードの類には「穀物不使用」が多い・・
なぜかしら??とさらに調べてみると、
「猫はもともと肉食なので、穀物は必要ない」との意見が多かったです。
猫ちゃんによっては、穀物によるアレルギーを持っている子もいるようです。
また、穀物は肉よりも安価という点から、価格に反映されやすい。
カロリーが低めになる分、多めに摂取する必要性もでてくる・・
(逆に、穀物不使用の肉ベースのフードは、
カロリーが高めだという声も多い分、
食べさせる量が少なくて済むという事ですね・・
体重に対するフードのグラム数をみても、そう思います。
大食漢の子は、ちょっと注意が必要かも知れませんね)

単純に{そういえば、猫は肉食だよね・・}と、納得してしまいました。
しかし、穀物を使用しているフードが、
市販では多いことも事実です。
メーカーが穀物を使用する理由もあるだろうし、
よーく、調べてみないとわかりませんが。
個人的には、穀物は不使用がいいかな、
遺伝子組み換えリスクも避けられるかも知れないし・・と思っています。


他にも購入検討中は、アニモンダやイノーバ(エボ)など・・・
どれも、高価です・・。
でも、明日の健康に、少しでも繋がれば。
悩み、あれこれ、完全に無くなることは決してありませんが、
愛する子達の為に悩めることも、これまた幸せかな、と・・・

そういえば、3月11日の原発事故以降、
食品の放射能汚染をずっと、ひたすら懸念・不安視している私は、
めっきり、外食することも無くなりました・・
なので、その分、愛猫達にお財布の中身を配分すればいいわけですね。
ものは如何様にも、考えようです。

いつまでも、健康であっておくれ。我、愛猫達。

2011/11/11

これは、始まりにすぎない?

311以降・・また、歴史に残る一日だった・・。

野田首相「TPP参加表明に向けて 関係国との協議に入る」
非常に玉虫色の表現だけど、事実上、交渉参加という事だろう。
全身が粟立つ感じがした。

8時台の私のタイムライン上では怒涛の怒りと悲しみの声。声。声・・・
悲鳴にも似た声が絶えまなかった。
一方で、民放各社はスケートやらバラエティやら・・
会見の「か」の字も見当たらず、結局見れたのは9時のNHKニュース。
これでいいのか、日本人。
この関心の低さ、危機感の無さ・・。
街の声で「大半が知らないのでは」という声に、
それはマスメディアの責任も大きいだろうけど、
今や一家一台パソコンを所有する時代、携帯でもネットは見れる・・そのような中でなぜ、
情報を獲得しようとしないのか、大きな疑問を感じる。
特に、3月に発生した原発震災問題や
子供や母親、農家・消費者を苦しめている放射能の問題、
「亡国」「売国」ともいわれ国論を二分しているTPPの問題は、
歴史に残る事件だと言っても過言ではないと思う。
その歴史のまさに真っただ中にいて、
それを自覚できないこと事態に、危機感や焦燥感すら感じる。

「知る」という事は勇気がいる。労力もいる。時間もいる。リテラシーも、ツールも必要だ。
放射能の晩発障害にしかり、TPPの脅威にしかり、
知ると背筋の凍るような内容も多い。
多少の偏向、誇張はあれと理解し、バイアスに注意していても、
ショッキングな内容のものを消化吸収するには、ある程度の許容力が必要だ。
だから、知らないでいた方がよかった事もあると思う。
しらなければ、たとえ放射能の影響で病に倒れたとしても、
疲労や不摂生等という自己責任論で自分に言い訳できるだろうし、
TPPの余波で、失業したとしても、これも運が悪かった・上司が悪い、仕事の内容が嫌いだった等、
またもや自己責任論や他罰的思考で片づけて、終了するのかもしれない。
でも、原発しかりTPPしかり、個人の責任ではかたずけれらない、
さらに大きな力の中で、ただ1%の貪欲な者達の手のひらの上で、
下僕のようにがんじがらめになって、いたぶられているとしたら、どうだろう・・
人権と自己愛に生きる人間にとって、これほど屈辱的なものはないのではないだろうか?
怒りや悲しみ、絶望感すら味わう事になるかもしれない。
知らない方がよかった事は沢山ある。特に、311以降には・・
そして、街にはまだ知らない、興味もない、知ろうともしない人々であふれかえり、
知ったものと知っていないものの溝は深い。それはまた、知った人間にとっては鮮明に見える溝だ。知らない人はそのまま、何も知らないから、溝の存在さえも気付かないかもしれない・・。
知ったものは、孤独とも戦わなくてはならない。分断とも向き合わねばならない。
だから、知ったが損?なのか?
そうは思わない。
幻想やマヤカシの中に生きるより、偽りの笑みの中で過ごすより、
作られた繁栄の中で操られるより・・
真実を知り、自分の認知する「現実」の中に生きていたいと、私は思う。

晩年、ガンに侵され苦しんでいた精神科医のフロイトも言っている。
「鎮痛剤でぼんやりとするなら、痛みのさなかでものを考える方がましだ」と・・。
私はそこまでの度胸も器量もないが、
テレビ等で思考力を骨抜きにされている感がある今こそ、
見習うべき言葉だと思う。

脱原発ポスター展

絵や音楽は 言葉を超えて 伝わるものだと信じています

25年前のチェルノブイリ
25年後の福島原発事故

過ちから 人間は学べないのか
何故学ぼうとしないのか
絶え間ない 根本的な問いです
答えは 今 私達が だすべきものではないでしょうか


高次の心の防衛機能である 昇華
3月11日以降 数々の惨状にズタズタになった心を癒すには
描くしかありませんでした
今 「心」が見ている真実を
描き止めておかなければ と思いました
そして それが 言語を超えて
核の恐ろしさ 今のこの国の惨状を 世界に伝えてくれるだろうと・・・
微力ながら 「脱原発ポスター展」に
応募させて頂きました

  
他にも素晴らしい作品が1000点近く集まっています

あらためて デザインや絵画の持つ力を感じます

「原発いらない
放射能もいらない
普通の 日常を 返して」

2011/10/17

心のストレッチ

No Cats,No Life!

猫達は私の「精神保健課」です。
そこにいてくれるだけで、生きていてくれるだけで、
私の心は救われます。
「御給金」は支払えないけど、美味しいご飯をお腹いっぱい食べて、
快適と安心と安全を、できる限り奉仕したいと思います。

最近、秋の紅葉が恋しくて、
ビタミンカラーの猫ベットを新調。
寝心地の良さそうなソファ型です。

 最初はくるみが枕に使い、

 最終的にはわさびが気にいってくれました。
ちょこぉっと、疑い深そうに座っている姿が、臆病なわさびらしい・・・

サビ猫のマストカラーはオレンジだと思っています。。

行く先の不安・・

今ニュース等でも話題になっている、TPP=環太平洋パートナーシップ協定。
この言葉を知ったのは、恥ずかしながら、2ヶ月ほど前です・・
勉強不足は今も否めません。
でも率直にいって今、緊急の問題であり、
ひょっとしたら原発よりも恐ろしいものではないか・と思っています。
詳しくは、既にわかりやすいホームページが開設されているので、
こちらでどうぞ。。↓↓

サルでもわかるTPP
考えてみよう!TPPのこと

上記サイトを見たり、有識者の意見を聞いたりして、
「直観的」に、素直に怖いと思った事は2つあります。

1つ目は、日本の医師会も懸念する「国民皆保険制度」の終焉・・
本当にそうなってしまうのだろうか、と今でも疑心暗鬼です。
TPPの交渉にまずは参加だけでもしろ・と、昨今、既存メディアは挙って言っていますが、
この交渉に一端参加すれば、もう抜けられる事はできないとも聞きます。
貿易に対する障壁として、国内のあらゆる制度が、
都合のいい様に変わってしまう恐れもあると・・・

同時期にマイケル・ムーア監督の「シッコ」という映画を見ました。
アメリカは国民皆保険制度の無い唯一の先進国で、
民間の医療保険に入れない人がおよそ5000万人いるといいます(Wiki)。
 驚いたシーンは数あれど、一番衝撃的だったのは、
支払いができなくなった患者が、病院の車で連れ出され、
スラム街に「捨てられる」シーン・・
対照的にフランスやイギリスの皆保険制度が紹介されます。
まさしく「誰でも平等に受けられる」皆保険制度・・
TPPに参加すると、混合診療が解放し利益追求型の病院が生まれ、
富裕層だけが良い薬と医療を受けられる「所得による医療格差」
が生まれるとの医師会は最近の会見でも懸念の声を上げていました。
この国もそのうち「シッコ」の世界になってしまうのかな・・と、
私も先行きの見えない、漠然とした不安を覚えたのです。


今、日本は全国各地に、ゆっくりと、でも確実に、
放射能汚染が蔓延してきています。
多くの人々は、原発や放射能に関する既存メディアの報道が減少し縮小している事で、
さも原発事故が収束したかのような錯覚を起こしているようです。
しかし、原発事故は今でも進行中で、収束のめどもついていないのが現状。
一日当たり1時間約2億ベクレルの放射能が漏れているといいます。
広瀬隆氏によれば、通常の1000倍・・
それは風に乗ってここ首都圏にもやってきているのでしょう。
最近では横浜のストロンチウム検出も耳に新しく、
それ以外にも恐ろしい物質は飛んできていて身の周りに存在するのだろうと思うと、
気が気ではありません。
それらが起こす晩発障害・・白血病や癌だけではなく、
免疫機能低下によりあらゆる病気を誘発するというも聞きます。
セシウムは甲状線や心臓に溜まりやすいと、
被曝症状に詳しい肥田先生や崎山先生も言っておられました。
心臓に溜まった場合は、心筋梗塞などを引き起こす可能性も・・
5年~10年後、放射能の影響が顕在化し、私達の身体と精神を蝕み始める頃に、
もし、今ある国民皆保険制度が崩壊していたらどうすればいいの??
弱り目に祟り目では済まない事態を憂います。

行き先は不透明で良く解らない事ばかり続きます。
せめて政府には詳しい内容や説明を、
私達国民に公表して欲しい・・

平和・・普通に健やかに生きれらる事だけを、
本当に切に願ってやみません。

2つ目についてはまた今度・・・

2011/09/25

東京原発

2004年公開の映画。正直、私はこの映画の存在を知らなかった。
2001年に、東海村での臨界事故があった。
2名の尊い命が無惨な死を遂げた重大事故にもかかわらず、
報道は規制され、国民の関心も線香花火の様に儚かった。
その3年後、この映画は公開された。
難しい内容を大変解りやすく、コミカルかつ軽快に描かれているが、
これはまさしく、原発依存を続ける未来の日本への「警告」だった。
しかし、役所広司や段田安則などの豪華俳優陣を起用しているのも関わらず、
当時の注目は相当、薄かったのではないか・と思う。
そうでなければ、現在のこの現状について、どうしても私の中で説明つかないのだ・・


役所広司氏ふんする天馬東京都知事は、
突然東京都に原発誘致を発案する。
「原発は都会にこそ似会う。このコンクリートジャングルに、
斬新な建物が一つ追加されるだけの事だ」

莫大な金をその周辺地域や関係者にばらまく、原発。
財政難に苦しむ東京都は今度はそれを「ばら撒かれる側」にまわるのだという。
映画の中では環境破壊にも言及している。
福島や新潟の美しい風景を破壊し、原発を建てた事に知事は疑問を呈す。
そして環境破壊することなく、東京で使う電気は東京で作る!それが筋だと声を荒げる。
「嫌なら、電気を使うな!!!」

思いつきや無知で発案したのではなく、
全てを知り尽くした上で、知事には相応の思惑があった。
知事はいう。
「世界一、無関心な都民」
その都民の眼を覚まさせる為には、
自分達の問題として原発を考える事が一番だ・と結論したのだろう。
知事は新宿中央公園に小型原子炉を作るという。
嫌ならば国民投票をさせるつもりだ。
原発の危険性や安全性、その必要性を真正面から国民に議論させるのだ。
なぜ、東京の電気が長年にわたり、田舎と呼ばれる遠い地域で
わざわざ長い送電線を用いてまで作られてきたのか、
なぜ、莫大な交付金が必要なのか、その真意を表面化する為に、
超マジョリティの立場を逆手に取ったという事だ。
もし1000万人の都民が原発NO!といった時、
それは国をも動かす一石となると知事は考えた。

「世界一、無関心な都民」
突き刺さる言葉。私もその一人だった・・・
でも福島原発事故が起きた今、そんな都民だってもう、無関心ではいられないだろう。
その証が、今月19日に開かれた5万人集会だろうと思う。

大江健三郎氏、落合恵子氏らが呼びかけ人。
私はこれに1人で参加した。
参加した感想は、一言でいえば、ガツンと頭を殴られ「目が覚めた」。
個人的には、そういう感じだった。
もう無関心ではいられない、傍観者ではいられない!
そして、何かがしたい!
そんな急き立てられるような思いを抱きながら参加したデモからは、
文字通り「本気」が伝わってきたのだった。
映画での天馬知事発案から7年後、
警鐘は何度となく鳴らされてきたのに、
悲しい事故を機にというのは、無念で残念で仕方がないが、
それでも「目が覚めた都民」を自ら自覚しつつ、
この流れがブームで終わらないように祈ってやまない・・・


この映画では、放射能についての危険性にはあまり触れていない。
だが象徴的な発言を専門家なる人物が口にする。
専門家:「放射能は隠したい側にとってはまことに、都合のよいものでして・・・」
職員:「ということは、もう、漏れているの・・・?」

つまり無味無臭無色という事をいいたいのだ。
そして漏らされた相手は全くわからない。
隠したい相手にとっては非常に好都合な事・・「無味無臭無色」。
知らされなければ、また可視化されなければ、私達は永遠にわからない。
それを原因に病に伏したとしても、因果関係も立証困難。
そして今まさに、私達は、その困難さと立ち向かわされている。
私達の生命は、国や電力会社に握られているも同然、
情報が的確に出される事は少なく、むしろ不透明さが目立つ。
個人での情報収集、判断、そして伝達、繋がり、守備が、
日を追うごとに肝心になってきている。
まるで内戦状態だと思う。静かな隠された戦い・・・
心がいつも不安定なのは、それを肌で感じているからだと思う。

専門家はこうも言う。
「東京に原発を作る事は、ハイリスク。
誰の為のリスク?それは、国と電力会社です。」
「彼らは机上で、煙草をふかしながら、賠償や補償問題について、
ソロバンをはじいているのです。」

東京で事故が起きたとしたら、最悪1000万人以上が避難し、土地を奪われ、
病に倒れる可能性がある。
そんなリスクは負えないという事だろうか。
そこに、住む所を奪われる私達ひとりひとりの苦悩や悲しみという文字は感じられない。
辺境に作るとはどういう事なのか、考えれば自ずと理解できてくる気がする・・
今の対応のあり方も・・
背筋に寒気が、ぞぞぞと走る。


この映画ではテロにつての脅威にもふれている。
極秘で輸送中のモックス燃料がトラックごと盗まれるのである。
ずさんな管理と、情報漏れ、
「絶対安全。事故が起こる確率は天文学的確率でありえない」
と具体的な数字や説明もなしに豪語する原子力安全委員会の人物が
象徴的に原発が内包した脆弱性を物語る。
映画の中で放射性廃棄物や燃料等は
日常茶飯事で国道や我々の生活圏を「走っている」という。
これが本当の事だとしたら、恐ろしいというレベルのものではない・・


エンターテイナー性に富み、いささか誇張ぎみの場面は否めないが、
原発の危険性を訴えるにはれぐらいがちょうどよいと思ったりもする。
実際、原発事故は誇張したくても誇張しきれない程、
とてつもなく甚大な被害をもたらすではないか。
危険なものは100歩先あるいて、
そこからちょっとずつ戻るくらいの危機意識でいいと思う。
現実は、この国の危機意識はその真逆だった・・
今では更に、危機意識は当初の10分の1以下になってしまっているかもしれない。
漏れた放射能など無いかの様に。
事故は終息したかの様に、日常が不気味な程、普通に動き出している。

テレビ好き、エンタ好き、有名人好きの国民には
こういった映画でのアピールは欠かせないと思う。
その為に作られた「東京原発」ではなかったかとすら思えてくる。
是非、今からでも多くの劇場や、テレビでやるべきだと思う。
原発問題の入門書には調度良いし、原発の危険性について非常に的を得ている。
ストーリーも飽きない。俳優陣が良い。
そして、2004年の映画だが内容が何ら古さを感じない。
(小道具や服装、建物等にはいささか当時を感じさせるものもあるが)
・・という事は、逆を言えば、7年前から原発問題は、何も進展してきていない・という事だろう。
それだけ、我々も無関心だったのであり、情報も操作、遮断されていた。

311以降、「目が覚めた」都民が今後、どういう行動をとっていくかに注目したい。
東京都は先日、天然ガス発電所建設案を出した。
猪瀬副知事は言っていた。「将来、国民が電気を自由に選べるようにならないといけない」
東京が動けば、日本が動く・・。映画の中での天馬知事の意気込みそのものを、
今こそ東京に見せつけて欲しいものだ。
ひとりの都民としても、切に願います。

2011/09/18

夢であるかもしれない現実

{夢}
屋上にいる。大勢と一緒にいる。
あたりは暗闇だ。下を見ると、暗くてその先は見えない。
ふと、思った。
“夢の中で死ぬと、現実でも死ぬか?”

映画「インセプション」では、夢で死ぬと現実でも死ぬという設定だった。
自分は、夢の中で、これは夢だと自覚している。
試してみようか・・その価値はあると、
下をもう一度覗いてみた。
だが、勇気が出なかった。恐ろしかった。
そのうち場面は変わったが、その後はあまり覚えていない。
夢の世界は、ある意味、仮想現実・・
だけど、この何とも言えない恐怖感覚は、
肌で感じる「現実」のものとして脳裏にびっちりと、こびりついている。
これは心的現実としての、ひとつの「現実」の姿でもあるのかもしれない。


時々、こうも思う。
今生きている現実が、もしかしたら長い夢の中なのかもしれないと・・・

覚めたら、どんな世界が待っている?

2011/09/16

祝の島

美しい風景、そして、清く潔く生きる人々にもう一度会いたくて、
この映画を観に行った。
私自身、勇気をもらいたかった。

映画は静かにゆったりと流れる。
夏の光やセミの声が清々しい。

先祖代々の棚田を1人で耕し、作付し、収穫する老人の姿。
自分の代で終わってしまってもいいという、その潔さにいささか驚いた。
「人の手を離れれば、また原野に戻るだけ」
この言葉の裏に、どれだけの苦悩があっただろうと想像を絶する。
棚田に対する愛情が動作の一つ一つににじみ出ている気がした。

私の親戚も、棚田を営み米を作っている。
棚田百選にも選ばれた、それはそれは美しい風景だ。
だが、今の状況を私は聞く勇気が出ない・・
場所は福島とも隣接しており、放射能の汚染状況を記した地図だけをみても、
素人の私でさえ、目を覆いたくなった。
基準値以下なら安全と言われても、基準値が我々をそもそも不安にさせ、
不信感の巣窟となっている。
以前は新米ができる度に、
ほっぺたが落ちそうな程美味しい新米を送ってきてくれた。
しかし、311の原発事故以降、状況が一変してしまった・・・

私は、祝島のその棚田の老人と、親戚の棚田を重ねて見ていた。
そしてやっと少しだけ、私の拙い頭で理解できた気がした。
福島をはじめ、大切な農地や家畜、海を汚染された多くの農家や酪農家、漁師の方々の苦悩を、
そして消費者との悲しい心の乖離を生んでしまった、この事故の残虐さを。
毎日会見にて目にする東電幹部達の態度は、
事故の甚大さ、放射能汚染の実態の悲惨さを全く自覚していないのか、
その様子に怒りを通り越し、背筋が凍る・・


島民のある年配の女性が言った。
「人間の心理からしたら、原発推進も反対も同じだと思う。
原発が来てから、あんなに兄弟・いとこの様に良かった仲が引き裂かれた。
心はみんなズタズタ・・それが一番残念でならない。」

原発のもたらす「汚染」は稼働前、もしくは建設以前に既に始まっているという事だろう。
突如分け入ってくる札束を握りしめた黒い手・・
その手は人々の心を引き裂き、関係性を歪に変える。
その違和感をこの島民の人々は純粋な魂で敏感に感じ取り、
その相容れなさにもの凄い嫌悪と危機感を感じ、
こんなものが入ってきたら、島も人々も死ぬと、27年余り頑として拒否してきたのだと思う。
また、女性はこうも言う。
「ここは離島だから、陸続きの様にちょっと車で足を延ばして働きに行くという事が出来ない。
島で生きていく為には、海は文字通り「宝の山」。
 海は私達にとって宝です。だから守らなければならない。」
守っているものは、命そのものだという事。
命程、価値のあるものは無い・・だからこそ、人々の意思や結束は固く、志は揺るがない。
毎週月曜日の原発反対デモも欠かさない。
311以降、全国でも原発反対や脱核を掲げるデモが行われている。
一部では、またブームで終わるだろうと囁かれ、1980年代の反核運動の話も時に持ち出される。
しかし、今回は他国で起こったのではない、自国で起こった原発爆発事故だ。
私達は行進をしながら、思いを発しながら、
祝島の人々の様に、今度こそ、強い志でいなければならないと思う。
守るものは「命」。自分の命でもいい、大切な人の命でもいい・・
数々の失われた命を想うのでも、これから産まれてくる命を想うのでもいい・・
自分の感覚で、自分の事として受け止め、考え、歩き続けていく事が大事だと思う。
そして迷った時にはいつでも、この祝島の人々の姿に勇気づけてもらえるだろう。


一方で、祝島は極端に若者や子供が少ない。
老人たちも、自分達が余命いくばくもない事を自覚している。
こたつを囲んで世間話に花を咲かせるのが日課の老人達。
その中の1人の男性がぽそっと言った。
「死に方を選ばせて欲しいね。例えば薬が何種類かあってよ、眠る様に死ねるやつとか・・」
明るくふるまっていても不安なのだと思った。
不安だからこそ寄り添い合う仲間が必要なのだと思った。
今日も、被災地の仮設住宅で60代の男性の自殺が報じられた。
「孤独は死に至る病」という。
老人の自殺は特に、「無縁社会」といわれて久しい現代の闇の象徴の様に感じてならない。
祝島のしっかりと根付いたコミュニティの中で生きている老人たちでさえ、
死の恐怖と向き合っているのだ。
老体で孤独に生きる、というのはあまりにも辛すぎる。
そして私自身にも、そういった老後の不安はこれからつきまとう事になる・・

気心知れた仲間を持ち、共に分かち合い喜びあい、時には喧嘩し泣き、寄り添って生きる。
原発はそんなコミュニティの崩壊すら招く危険性を持っている。
事故が1度起こればなおの事、ここ東京であっても、
人々の心に更なる分断をもたらそうとしている。
いや、もう発生してしまっているのかもしれない。
放射能を不安な人々と、気にしない人々と。
原発問題、核の問題を真剣に考える人と、そうでない人と。
デジタル・デバイドや、認識の違いは、メディアの影響もあると思う。
人とのコミュニケーションが希薄化し、そこへデジタルの波が押し寄せ、
各種メディアへの依存が高まってきたからこそ、
この様な弊害が生まれてしまったのではないか・とも思える。
311以前は、祝島の様な地域コミュニティの復活は、
特に都心においては相当難しいのではないか・と感じていた。
しかし、311以後の数々の各地で繰り広げられるデモや人々の心の流れを見ていると、
ブームで終わらせずに、今後もしっかり継続できたなら、
そうしたコミュニティ的繋がりも、もしかしたら期待できるのではないか・・
それだけ人々にとって、この国にとって、
歴史的、危機的な「大事故」なのだと思う。


祝島の人々で印象的だったのは、とにかくよく笑う事。
過酷なデモを行っている時も、過疎化が急速に進み、未来への不安が拭えなくても、
笑顔と他者への労わりを忘れない。
素晴らしいと思った。
人は最終的に1人で死んでいくが、この島では魂はいつまでも一つなのだと感じた。
それは島が「命」そのものだからだ。
命は命に帰る・・そしてまた次の生命の営みの一つの支えとなる。
島そのものに、生きた温もりを感じる。

田舎の暮らしが全て勝っているという事ではないと思う。
多少の不便さや、単調さは否めない。
都会での暮らしの方が性に合っている・という事もある。
ただ、その魂のあり方や心の有り様は、生きていく上でとても参考になると思うのだ。
命として「生きる」という事はこういう事だよ・と、
祝島のおじちゃんやおばちゃんは、
身体をはって教えてくれている。
私達は一つの限りある命という事に変わりない。
命として、その1回しかない自分の人生を生きるのだから、
悔いが残らぬ様、精一杯歩いていきたいと思うのは、
誰しもの願いではないだろうか。

悲惨な世界的原発事故の渦中にあっても、
一生、放射能汚染に我身をさらす事になってしまっていても、
笑顔や愛しみ、労わりといった心を忘れたくないと思う。
自分の心を真っ先に開き、思い切り泣ける場所を大切にしていきたいと思う。
祝島の人々の姿は、私達の先を歩み、未来を語ってくれている。
これからも大勢の人々の心を支え、励まし続けてくれるだろう。
心から、「ありがとう!おじちゃん、おばちゃん」 と言いたい・・・


PS:祝島に千年以上続くという4年に1度のお祭り「神舞」は本当に美しい。
この島は、神様に守られているといっても過言ではない・・と思った。
形だけではない、魂のこもったものは、いつでもその放つ輝きが違うと思う。

海をじっと見つめる漁師のおじさんの眼差しは、
自然を知りつくし、尊び、自然と共に生きていく志の強さを感じた。

2011/09/09

カウントダウン ゼロ

原子力=核という事をもっと考えたくて、この映画を観た。
恐ろしい映画だった。

映画を観終わって、
青空が、こんなにも綺麗にみえたのは久々だった。
1945年、アメリカが核兵器を持ってから66年間、
この青空の下、何事もなく、泣き笑いできた事が奇跡のように感じた。

かつて、ケネディ大統領はいった。

「我々は糸にぶら下った“核の剣”の下にいる。
 その糸は簡単に切れる。
“事故・誤算・狂気”によって・・」

冷戦時代、一触即発の事態があった。
そして、ずさんな放射性物質の管理によるテロの脅威。
「良いものであるなら、我々が持っても良いはずだ」
ある中東の科学者は言う。
現在、地球上の核兵器は約2万4千発。その96%が、米国とロシアの保有である。

戦慄を覚えた証言は数知れない。
途上国の研究者は言う。「我々は、草を食べてでも、核兵器を作る」
そして米国のある大佐は、
「核戦争が起きて何がいけない?
5億人が死ぬだけだ。生き残った生命はその後も続く」

誤算=コンピューターやヒューマンエラーの脅威も絶えない。
ボタンひとつで何千発もの核ミサイルが発射されるのだ。
そのボタンを押すのは、人間の判断であり、手作業であり、コンピューターに委ねられている。
かつて、ガンの群れが爆撃と間違われた事もあったという。
そのボタンが、必ずしも正規に押されるという事は無く、
むしろ、誤報や誤作動との鬩ぎ合いの中で、
じっと押されるのを待っている。
そうして60年以上の月日を、私達の頭上は過ぎてきたのだ。

ここで、ある東京電力の会見にて、
「ヒューマンエラーは重く見ない」という趣旨の発言を聞いたのを思い出した。
ヒューマンエラー=うっかりミス、
特に極限における人間の判断力は極度に鈍る。
1995年、米国がノルウェーから発射したオーロラ観測ロケットについて、
情報が行き届かず、 ロシアが核弾頭と認識。
当時のエリツィン大統領は、
「我が国は攻撃されています」と発射ボタンを差し出され、
5分で決断しなければならなかったという・・。
幸い、その時は最悪の事態を免れたが、
こうした事は、今でも引き続き起こりうり、
原子力発電所においても、それはいえるのだろうと思う。
そして、その「うっかりミス」を甘く見るところが、
最大のヒューマンエラーであると感じる。
人間は必ず、ミスを犯す・・・

現在、核保有国は9カ国。40カ国以上が核兵器建設の技術を持つという。
ある試算では、簡単な核兵器はわずか700万ドルで作れるとも・・
地図上でそれらの国々が赤く染まっていく中で、日本はその色に染まらずにいた。
だが、日本では今、甚大な原子力災害に見舞われている。
世界で唯一、核兵器を落とされた国であり、核兵器を持たないと宣言した国なのに、
自国の「核の平和利用」であるはずの原発が三機も「爆発」してしまった。
程度の違いはあれ、放射性物質はいまや日本中に広がり、
その驚異と不安の中で私達は生きて行く事になってしまった。
セシウムの量だけでもその数、広島原爆の160発以上だという。
その赤く塗られていく地図をみながら、
悲しく情けなく、やり切れない思いと共に、大きな空しさに襲われた・・・
映画館の中、涙が溢れそうになった。

この空はいったい誰のものなのかと思う。
緑が清々しいこれらの木々も、大地も、川も、海も。
いったい誰のものなのか、わからなくなってくる。
誰ものもでもないはずだし、誰に支配される道理もない。
しかし、人間だけが、それらすべてを支配しようとし、
挙句、消滅さえしかねない力を持つようになってしまった。

現在起こってしまった原子力災害も、人々から生活、人生の全てを奪い、
土地をも死滅させようとしている。
また、まだ産まれてこない命までも脅かそうとしている。
核兵器は「sudden death」、原発は「slow death」
もたらすものの違いはあれ、その本質は変わらない。

2009年、オバマ大統領はプラハ演説にて、「核無き世界を目指す」意向を示した。
 映画の中でゴルバチョフ元ソ連大統領やブレア元英国首相など、
様々な要人が口を揃えて、核兵器廃絶を訴える。
核の脅威を無くすには、人類が核兵器によって滅亡する前に、
核兵器を滅亡させること・・・
もはや、核兵器が国力や抑止力、富の象徴だった時代は終わったと感じ、
ただ「死」だけを包括するそれをゼロにしていく事が世界の流れだと感じた。
だから今こそ、この原子力災害に見舞われ、のたうちまわっている日本であるから、
この流れを継承し、世界をリードしていくべきではないかと思う。
その為の「脱原発」であるということは明白であり、
もっと人々の心に刻まれてほしい理念だと思う。
けっして、ブームや流行りで終わってはならないと思う。

これまで、数々の核・原子力関連の映画を観てきたが、
核の問題がこれほど巨大で、凶悪なものだったのかと絶句する程、
目眩を覚える強烈な内容の映画だった。
「原子力=核は抑止力、それをもたずしてどうする?」
といったある政治家の言葉が頭から離れない。
核は「死」そのものだと感じる。
「死」と手を組んだら、最後に残るはやはり「死」しかないと思う。
私達が今後どういう未来を望み、どう生きて行きたいのか、
本気で考え、行動しなければならないと強く思った。

行く先は霧の中で、まだまだ事態の収束はつかず、
物事を深く洞察をしていけば、途方もない真実に、
地に落ちそうな無力感に襲われる。
だけど、知る事を諦めない。希望を捨てない。
ひとりひとりが信じる事、
そして小さくてもいいからアクションを起こしていく事、
今一番、求められている事だと思う。


※映画【カウントダウン ゼロ】は新宿武蔵野館にて9月22日まで上映されているようです。

あずきと出会った日

街灯の薄靄の中で、
小さな黒い塊が、よちよちと近寄ってきた。
ニィニィ・・・と小さいが力強く鳴いていた。
何か、訴えているようだった。
そして、小さな前足を私の足の上に乗せてきた。
片手で持ち上げてみると、空気のように軽い。
でも、心臓は確かにトクトクと動いていた。

「行こうか・・」そう呟いて、私は子猫を連れて帰った。

あれからもう1年経つのか。

生命はいつかは死ぬ。
産まれるという事は、死ぬという事と直結している。
産まれた瞬間、死に向かっている。

何遍も繰り返し思う。理屈ではわかっている。
でも、悲しみや寂しさは、
理屈ではない。

私はこの悲しみと共にこれからも歩いていく。
悲しみは、あずきが存在した証拠だ。

そのうち、あずきとまた再会できる。
そう信じている。

2011/09/02

みんな一緒 

いつもの、何気ない会話だった。

その日も夜の午前をまわろうとする時間、
森のそばにあるなじみの坂道を帰宅の為に下っていた。
最近、また地震が頻発していた。
ツレの働くオフィス街で直下型の大きな地震が来たらさぞ大惨事だろう・・等と話していたら、
ツレがぼそっと言った。
「死ぬ時は死ぬんだよ。動物達も一緒。
自然に敵うわけがない。みんなそこは一緒だ。」

坂道に沿うようにして生い茂る森をみながら、ああそうか・・と思った。
この地球がたった1回の大きなくしゃみをしただけで、
もしかしたら、人間はおろか、生きとし生けるものすべてが滅ぶかもしれない。
そして、そういう歴史を、地球はずっとたどってきたのだと。

そう思うと、この森の住民たちも、私達の家族である猫達も、
人間も、なんら変わらない存在だということだ。
地球にちょっと、ほんの短い期間を住まわせてもらっている、
間借りしているだけなのだ。
それを、さも我が物顔で支配しようとする人間のなんと、愚かな事か・・

人間は絶えず死を恐れている。
死を思うから、よりよく生きれるのだ・とさえ聞く。
不安が、より慎重な生き方を選択させ、より長く健やかな生に結びつくとも・・
しかし、それは果たして、本当の事なのだろうか。
崇高な事なのだろうか。

猫たちが「明日事故って死ぬかも」とか、
「病気になるのは不安だわぁ」と悩む姿を私はみたことはない。
その日を気ままに、お日様の寝起きと同時に生きるだけ・・。
死ぬ前からじたばた死ぬことばかり考えているのは人間だけじゃないか?と思う。
死はいつでも近くにいる。それは紛れもない事実だ。
だからといって、じたばたしたくない・・

私がそう思うのは、自分の患った「パニック障害」にある。
この病との付き合いはもう10年以上にもなる。
以前、歳を取るごとに症状は緩和していく・
とカウンセラーにきいていたが、そのようでもある。
だが、火種はまだひつこく、無意識の領域で燻っている。
一度、不安に襲われると「死」に直結した莫大な不安が爆発的に増殖する。
「死」それしか考えられなくなる。
じたばたした感情が体中を、虫酸のように走るのである。
そして、目眩や過呼吸、しびれなどに襲われる。
しばらくすると安定し我に返るが、なんでこの様な不透明で不気味なものに襲われ、
大事な時間を費やさねばならないのか、なかば怒りにも似た感情が湧きあがる事もある。
この「不安」を感じさせる「思考」や「感情」などがなければどんなによいか、と思う事もある。
そんな時に、猫達の姿は、常に憧れとしてうつり、
堂々とした崇高ささえ感じるのだ。

本当の危機がやって来たとき、むしろたくましく生き続けるのは、
動物たちの方ではないだろうか。
死を恐れず、生きるために生きるだけ・・
生命の営みを自然のままに続けるだけ・・
そう思うと、人間は決して頂点に立つわけではない・と思う。
人間はむしろ、その脆弱さゆえに、
彼らを支配 しようとすることで、その威厳を保とうとしているのではないだろうか。
人のいじめや差別の構造そのものだと思う。
だから、私達は「飼う」という言葉は避けている。
共に生きるもの、暮らすもの、そして「家族」と言うようにしている。
私達と猫達は、地球にほんの一時住まう、小さな生命の一部である事、
産まれたと同時に、死に向かって生きている事、
それらになんらかわりはない。

だから、動物達を支配しようとしたり、虐待したり、殺めたりする事は、
人間の愚かさと弱さの象徴そのものであると感じる。
「国の偉大さ、道徳的発展は、その国における動物の扱い方で判る。」 とは、
ガンジーの残した言葉だ。
この国はどうだろうか・・。

 生きるための「先生」はありとあらゆる場所にいる。 
空を飛ぶ鳥たち、川を泳ぐ魚たち、屋根の上で眠る猫、大地を走る犬、
…数々の人間以外の生命たち。
押し付けるわけでもなく、説き伏せるわけでもなく、
かれらは静かに、生きるという事で、生の真理を教えてくれる。
もし、人間に救いがあるとしたら、
彼らに生きる真理を見出だすための思慮が、
まだ、残されている・・ということだろうか。 







2011/08/31

あしたが消える ~どうして原発?~

これは、22年前のわずか55分のドキュメンタリー。
だけど、過去の物語ではない。今の物語か、それ以上の「現実」となっている。


22年前、原発の定期検査など指導的な立場で働いていた父親を、
52歳で失った葛西真紀子さんの「父は何故死んだのか?」という純粋な疑問から、
話は進められていく。

骨ガンだった。入院後わずか4ヶ月で亡くなられた。
生前、父親が働いていた福島原発を見つめながら、葛西さんは言った。
「父は原発は危ないから、もう辞めるよ・と言っていた。
だけど、留めさせられた。父は、こうも言っていた。
人々が今の生活を維持したいなら、危険でも原発は必要だろう。
でも、本当にそうだろうか・・・」

父親の病気との因果関係は認められていない。
だが葛西さんの疑念は揺るがない。
「父は原発は二重三重の安全装置があるから絶対安全だと言っていた。
原発をずっと信じていた父が、裏切られたように感じる・・」

チェルノブイリ事故の映像が流れ、幾人もの防護服を着たリクビダートルが、
忙しく走りながら、収束作業にあたっていた。
自ら福島原発を設計した元プラント設計師の田中三彦氏は言った。
「チェルノブイリでは、国民のヒロイズムと愛国心が収束を導いた。
しかし、この二つは日本では機能しない。
大事故が起こった時、誰が止めるのか。・・誰も止められない・・」
そして、放射線で被曝をしているのは人間だけではないという。
「中の配管なども被曝している。そして老朽化する。
美浜原発はそれが著しい。大変に危険だ。」
22年前の話である。

驚いたのは、チェルノブイリ事故後、
食品はほぼノーチェックで輸入されていたという・・
1986年以降、私達は死の灰を添加されたものを食べていたという事か?
いったい、どの程度を、どれくらい?

元被曝労働者が被曝実態調査する医師に向かって話す。
金属が落ちてきて足の小指を切断する事になったが、
下請けだったために労災は下りなかった。
「燃料棒の交換作業がいちばん辛かったなぁ。
なんで辛かったんかって・・うぅ~ん・・」
「ある日、窯の中にナットが落ちて、皆で拾おうとしたがどうやっても拾えない。
そこで親方が、『おまえ、特攻隊でいけ』っちゅうた。
いろいろとすっかり支度してくれて・・。
もうどうにでもなれと、行った」

線量計をつけずに作業に入る事もあったという。
累積が多いと働けなくなるからと、作業員の思いは切実だった。
一番被曝が多いのは「責任者」だという。
その人一倍の責任感の強さに、全てまかせっきりと言う事だろうか。
今はもう着用されていないという防護服の燃えるような赤い色が、
なんだか私にはとても悲しく、恐ろしげに見えた・・
労働者の被曝実態調査は、労働者のプライバシーなど、
様々な理由で困難を極めるという。
それは今も全く、変わっていない。


 今は既に建設されている、青森六ヶ所村の建設予定地が映し出された。
そうか・・22年前はまだ建っていなかったのか・・。そう思った。
年月とは恐ろしい。
でもそこで酪農を営む男性の言葉は先を見通していた。
「一番先に影響がでるのは牛乳だって聞いている。
ここでもし大事故が起きたら、日本全体がだめになるのでは・・」

葛西さんの最後の言葉が今でも突き刺さる。
「東京で裕福に暮らしている人は、
豊かに暮らすその陰で、誰かが亡くなり、
または病気になり、その家族も苦しんでいるという事を考えて欲しい・・」
これは、原発労働者に限らず、
過酷な労働下で働く全ての人々にあてはまる事だろう。
私達の豊かさは過度に装飾、加味される分だけ、
多くの犠牲になりたっているともいえるのではないだろうか?
24時間営業の店や飲食店で長時間勤務する人々は?
猛暑の中、または極寒の中、交通整理や警備、建築に携わる人々は?
配送ニーズが増す度に、昼夜問わず走り回らなければならない配達員は?
考えれば考える程、社会の闇は部分は深くて、
この多大な労力とエネルギーを消費する「豊かさ」とはいったいなんなのだろう・・と深く考えさせられる。


最後の場面で、チェルノブイリ事故の汚染地図と、
日本地図が重なり合った映像が流れた。
それは福島原発がもし事故を起こしたらどうなるか・という、
22年前の1つのシュミレーションだった。
それは、まさに今の現実、そのものの姿だった。愕然とした。
そしてこんな言葉で締めくくられる。

「福島原発が万が一大事故を起こしたら、日本中全てが汚染されてしまう。
そしてその事故はあした起こるかもしれない」

「もう・・起こってしまった・・」
心でそう呟いた。

警鐘はあらゆる時代にあらゆる場所で、あらゆる媒体で鳴らされ続けていた。
「チャイナシンドローム」「シルクウッド」「アトミック・カフェ」
そして、「チェルノブイリハート」・・・
パンフレットにはその他にも多くの映像や映画の名が記載されている。
こんなにも、あったのか・・と思った。
知らされなかった・のでも、教えてくれなかった・のでもない。
知ろうとしてこなかった、自分自身に問題があるのだろう・と思った。


・・原発のない世界が良いと思っている。
心からそう思う。
生命にはとうてい許容できない核の脅威を感じ、不安を抱えながら生きていく事は、
たった1度限りの人生において、その意味や価値を大きく揺さぶると思う。
もしかしたら私の生きている間は、核の撤廃は望めないかもしれない。
そして、放射性廃棄物は、未来人の為にモニュメントが必要では?と揶揄される程、
何万年も、途方もない間残され、放射能を出し続けていく。
事故が起きた今、一度しかない人生に、
これからは放射能はどうしようもなく、組み込まれていく。
そういう世界になってしまった。
でも、人は変わろうと思えば内から変われる。人の作る世界も変化できると思う。
 時間はかかっても、希望は持ち続けたい。
この国の人々の関心や認識は確実に変わってきている。
また、もっと多くの人々が関心を持つ事も必要だと思う。
対岸の火事ではなく、自分の人生のことして。

そして「海や大地や空は、未来からの預かり物」だということを、
これからは、ずっと、忘れてはいけない・・。


PS:80年代の映像と音楽・・今とは違うサスペンス的な黒い香がして、
私にとっては(ホラー映画よりも)心底怖かったです・・。
でも、午前中だったのに、老若男女、人は結構いました。
映画の内容を一部抜粋しましたが、記憶をたどっての記述の為、
多少誤差があるかもしれません・・。

2011/08/28

ミツバチの羽音と地球の回転

率直に感じたことを言えば、
「生きる」とは、こういうことだよな、ということ・・
そして原子力=核は、まるで生物全ての頂点に立ったかのような人間のエゴそのもの、
生命・生きるものすべてと、全く相容れない代物だ、ということ・・

祝島・・およそ500人の人々が暮らす島。高齢化、過疎の著しい島。
28年前に、島のまっ正面にある田ノ浦に上関原発の建設計画が持ち上がった時から、
島の人々はずっとずっと、戦ってきている。

私より遥かに年上のおばちゃん達が、「原発反対!」のハチマキをしめて、
大きなのぼりを担いで、雨の中でも、長時間でも、
原発を阻止しようと頑張っている姿に、
今までの私達の享楽に満ちた生活が、
その陰で苦悩し、戦う人々の上に成り立っていたこと、
そして、それは今日も続いているということに、
また、今まで自分が知らなかった・知ろうともしなかったことについて、
悲しみと苛立ち、苦しみが交差した。

島で一番若い青年は、ある日こんな問いかけを電話で受けた。
「祝島の人々はなんで原発にあんなに反対するんだ?」
この問いに、青年は「自分達の生活や暮らしを、守る為です」と答えた。
至極まっとうな返答だと思う。
しかし、電話の主に、そんなものの為に沢山の人に迷惑をかけて恥しくないのか?
と返されたという・・
そうだろうか?「生活や暮らし」は「そんなもの」だろうか?
だとしたら、私達の生活も「そんなもの」であり、「そんなもの」の為に、
原発事故を起こし、国中を暗澹とさせている。
それは、「迷惑」どころではなく、もはや「犯罪」ではないのか・・

また、中国電力が土地の埋め立てを強行突破しようとして、
漁師達が猛反発し、船を連ねて抗議をした時に、投げつけた言葉は酷過ぎた。
「第一次産業だけでこの島がよくなるとお思いですか?
人口は年々減っていて、お年寄りばかりの町になる・・・
このままでは上関町は衰退していくばかりですよ」
だから我々は貴方達の雇用を産み、若者を島へ呼び戻す救世主です・とでもいいたいのだろうか?
原発から絶えず放出される温水や、立地の為の埋立てによって地形が変化することで、
海の生物多様性が失われ、豊富な海が死に、
果ては島民の生活や、生きる糧の全てを失わせること自体が、
島を「衰退」させるのではないか?

ビワの実に大切そうに袋をかぶせながら、青年は言った。
「まえに原発推進派の人にビワだけで食っていけるわけがないだろう、と言われた。
・・・ビワだけで食っていけるとは言わない。この祝島で、全体で生きていく」

本当の豊かさとは、何だろう?
キラキラと光るネオンに、24時間体制の店、レストラン、テレビの中の渇いた笑い、
捨てる程にあふれたモノ、物、もの・・・

一方で、足るを知る生き方を、脈々と選択していく人々。
自分のできる範囲で慎ましく、子を育てながら、老人をいたわりながら、
自然を愛しみながら、感謝しながら生きる人々。

私達は、そろそろ真剣に「豊かな暮らし」を考える時期に入ったのではないだろうか。
うわべだけの豊かさは、かえって人間の魂を貧しくする。


祝島の人々、そしておばちゃん達が一生懸命守ろうとしているのは、
島だけではない。
「生きる」権利、そして「生命」そのものだと思う。
私達人類全体の為に戦ってくれているといっても過言ではないと思う。
そして未来への責任を、切ない程に尽くそうとしている。
綺麗な海を、空を、大地を、島を後世に残したい!残さねば!
という強い思いが一丸となり、強固な絆となっている。
それが、上っ面だけで「絶対安全、絶対海はよごれません」などと「言わされている」人々とは全く異なり、敵わぬ点だろう。
どちらの魂が澱んでいるか、崇高な程に輝いているか・・一目瞭然だと思う。


甚大な原発事故が起きた今、
そして今も収束がつかず、深刻な状態が続いている今だからこそ、
「生きること」そして「命」を一番に大切にするエネルギーの選択は何かを真剣に考えたい。
一部の権力や組織が私達の未来の行く末をにぎる世界は、もう嫌だと、心底思う。
心「豊かに」、魂が「崇高に」生きられる世界に向かって、
たとえ小さな羽音でも、考え続け伝えていきたいと思う。

『ミツバチの羽音は、地球の回転にさえ影響を及ぼしてるかもしれない』
私達1人ひとりの思い=羽音が、やがて国を、世界を動かしますように・・・

 鎌仲ひとみ監督に頂いた言葉・・「心つなげて!」をお守りに。。 


2011/08/27

十字架

「チェルノブイリハート」を見た時に、
今でも心に突き刺さっているのは、
自分の子供の手術をまえにさめざめと泣いていた母親の姿です。
母親は子供に何かあったら、一生悔い一生十 字架を背負うでしょう。


私も大事な家族だった子猫のあずきを亡くしてから、
もう半年以上経とうとしていますが、
悲しみが癒える気配はありません。
むしろ、想いはどんどん強くなり、
時々、強い自責の念にかられます。
ましてや自分の産んだ子であったら・・
きっと言葉を失うだろうと思います。

食品の基準値は、米だけでもありえない500ベクレル・・
それより厳しい値をとったベラルーシでは何が起きているのか?
考えただけでも、恐ろしい・・
子供に何か起きてからでは遅すぎるのです。

子供を、その誕生以前から脅かそうとしているこの国。
いったい、どこへ向かおうとしているのか・・

2011/08/22

外食が悩ましくなった日

原発事故以来、外食に行く足どりが重い。
食品の汚染状況が日々悪化していき、
そもそもの基準値の高さに、自分自身が納得していないから、
自ずと食品・食材に過敏になる。
やむを得ず外食を取る事になっても、
まず野菜や肉の産地が店頭や、メニュー、ホームページに明記されているかチェックする。
これをみて、私のツレはあまりよい顔をしないし、
友人や知人クラスでは、もしかしたら亀裂が入るかもしれない。
「わたし、放射能が気になるから、遠慮しとく・・」
なんて「ダイエット中」よりも酷に響くだろう。
なぜなら、放射能は皆に平等で、
その影響の出方はあらゆる病魔にして酷く、そしてロシアンルーレットに近いからだ。
皆、心の底では、不安に思っている。
でも、それを認めたくない・・認めたら、大変な心労や手間暇・労力が待っていると誰もが思う。
だから、意識は安全ベクトルの方へ自然に傾く。
信じたいものだけ見聞きするようになっていく。
そして疑う事もなく、「基準値以内」だから「安全」と信じるだろう。
そこに、「基準値」に対する疑問や、
本当に「安全」か・など、考えてはあってはいけないのだ。
「忙しくって、そんなの考えている余裕がない」という言葉を聞いた事がある。
本音だろうと思う。
放射能は見えないから、無視しようと思えばできるし、
あとは思考停止させて、「安全宣言」に従っていればいい。
そのうち病気になるかもしれないが、
それは自分の健康管理や不摂生のせいかもしれない。
そして「人間、やがては死ぬのだし」という諦めにも似た結論と結果が待っている・・

放射能を心配して食材を選んだり、浄水器等をつかったり、色々と情報収集する事に、
「やっても無駄、考えても無駄、しょうがない」と
何度か言われた事がある。私も閉口する。
そこで思う。
なぜ、他人に「無駄」等と、そこまで言われなければならないのだろう。
無駄、取り越し苦労と思いながらも「そうか、心配なんだね、頑張って」でいいではないか。
私も、自分は放射能に対して策を講じるが、
「一緒にやろう!頑張ろう!!やらないとやばいよ」等とごり押しした事はない。
会話の中での、一節に過ぎないのに、
「無駄」等と、逆に過剰反応するのは、相手側にも不安心理があるのではないかと思う。

「図星」という言葉があるが、相手の弱点を突いたような事をいうと、相手が怒る場合がある。
それは相手が自分の中で一番気にして、触れられたくない部分、
見られたくない部分を見られた事への、過剰防衛反応とでもいうのか。
放射能問題の会話はそんな事と似ている気がする。
心の奥底では、本能のレベルで、「身体」自身が不安に感じていてもおかしくはない気がする。
それだけ、放射能は不気味で恐ろしいモノという事だろう。
人々にとって、放射能のミエル化がまだ確立されていないゆえに、
霊魂のように「信ずれば見える。信じなければ、みえません」の世界に未だ等しい気もする・・

防御するも、しないもその人の選択だ。
押し付ける事もないし、侮蔑する事もない。
それぞれの人生、それぞれの生き方だ。
だけど、例えば自分が、自分の放射能への不安や防衛策を相手に話すには理由がある。
いたずらに不安を煽りたいわけではなく、共感して欲しいわけでもない。
だんだんと自分に嘘がつけなくなってくるからだ。

不安とおもっているのに「安心」であるようにふるまうこと・・
心配なのに「安全」だと装って、食材を口に運ぶこと・・
そこの土地や食材は「危険」だと思っているのに、それを黙っていること・・

徐々に外面だけ装っていることに疲労し、嘘をつくことに耐えられなくなってきた。
だから最近は、「変な奴」「過敏症」と思われるのを承知で不安や不信感を口にするようにしている。
それで、離れていっても、それはそれで良いという前提で。
もしかしたら、その人の心の片隅に、私の言葉が一片でも残っていて、
いずれ役に立つことがあるかもしれない・・それはそれで良いではないか。
あらゆる情報を多方面から収集し、「チェルノブイリの子供達」など、
影の真実を知った人々は同じ様な悩みを抱えているのではないだろうか・・
ツイッターを通しても、日々それを強く感じる。


「しょうがない」という言葉は苦手だ。
「考えてもしょうがない」は思考停止を意味していると思っている。
思考を水の流れに例えてよく思う。
水は流れ続けているから、清らかなのだ。
思考も一緒・・流れ続けるから、クリアな能力を保っていられる。
そう信じている。
だから私は、これからもずっと、考え続けます。



2011/08/20

チェルノブイリハート

まず、映画の詳細についてはあまり触れずに、
率直に感じた事だけ、書いていこうと思う。

正直をいうと、「福島や日本も、いずれこうなるのでは」と、思ってはいても、
軽率に言えないし、言いたくない。
口に出すのも、ためらう。
それ程に、深刻で残酷で、悲しい内容だった・ということだ。

子供を心配して、苦渋の表情に、大粒の涙を浮かべる母親の姿・・
疲労と困惑の表情を浮かべて、半ば諦めにも似たため息をつかざるを得ない医師や看護師達・・
「ちきしょう!!くそったれめ!!」と、表情を変えずに唱える様に呟き続ける事故当時の避難者・・

これらがすべてを物語っている。
これらすべてを、今の日本に当てはめられる程、私の心は成熟していない。
理解するのを阻止しようとする、余分な感情までも湧き出てくる。
「そんなことない、そんなことないよ」だって見渡せば、
何事もなかったかのような、汚染等ないような景色が、
いくつもいくつも、そこいらに、散らばっている・・・

そこで、思う事がある。
今も、チェルノブイリ原発事故の悲惨な後遺症に悩まされるベラルーシやウクライナ。
そこの事故当時のセシウムに対する食品の基準値よりも、
今の日本の食品基準値が高いという事は、
一体どういう事を意味するのだろう?
例えば、「ウクライナの飲料水の基準値は1キログラム当たり2ベクレルに対し、
日本はセシウム134と137の合算値は200ベクレル(7月:AERAより)」
野菜や肉に関しても、同雑誌に解り易いグラフがあり一目瞭然だが、
日本より基準の厳しい場所で、
25年経った今でも深刻な後遺症に悩まされているという事実を目の当たりにし、
では、それよりも明らかに緩い基準での日本は、
今後どうなってしまうのか?っと率直に思う。

今日、初めて米からも検出というニュースを聞いた。
米の出荷制限の基準は500ベクレル・・・それ以下なら、私達の食卓に・・
日本人の大事な大事な、ほぼ毎日摂取する主食である。
本当に、安全なのか?

罪深いのは、原発を選択してもいない、
まだ見ぬ生命が脅かされているという事だ。
映画の中で、「ナンバーワンルーム」には、親から見捨てられた障害児達が、
所狭しと寝転がり、ただ生きているという現実。
大きなコブを後頭部に負いながらも、抱かれたその胸に頬を寄せる赤ちゃんのその愛らしさは、
他の健常な赤ん坊と何ら変わらく見えた。
それは、知的障害児でも、水頭症の子供達でも同じ・・
彼らの笑顔は、天使の微笑み、そのものに感じた。
だから、余計に、悲しく切なかった・・・
この子たちの両親もきっと、苦しみ、断腸の思いを味わったろう。
目玉がふやける程に、泣明かしたに違いない。
その現実を、例えば、私自身に当てはめる勇気が、
私はまだ、持てない・・・
私も自分が子を持つ望みを、まだ捨ててはいないからだ。
いかなる場合でも、私は自分の子を愛します、愛せます!と、
胸を張って言える自分が、悔しい事に、いないからだ・・・

だから、これは日本の向かう姿だろう・・と、うっすらと、ぼんやりと、
しかし強烈に感じてはいても、
私は声に出して言う勇気がない。
それ程に、恐ろしく、悲しい映画だった。

今後、内部被ばくの直接の原因となる、食品や水・飲料に対する基準が厳しくなり、
子供と妊婦、さらに今後次世代を生むであろう女性の身体を第一に考える方向に進んで欲しい。
そして、増大は避けられぬであろう、癌の他、多種多様の病魔に対し、
医療機器や医師の教育等、万全な体制を整えて「その時」に備えて欲しいと切に願う。
もしかしたら、私自身や私の大切な人達も、
何年後、何十年後かに、病に倒れるかもしれない。
自分の事、大切な人の事と重ねて思う程に、
この映画は「真実のもの」として、語りかけてくると思う。


日本で放出された放射能は、世界を、地球をも汚染した。
国境は人間がつくっただけのもの・・
海や空に国境は無い。
ということは、この原発事故の問題は、
私達だけの問題ではないという事も素直に理解でき、
また、頭に入れておくべきだと思う。
命はつながっている・・その言葉通りに。

過酷な運命を背負いながらも、懸命に生きている「チェルノブイリ」の子供達に、
土下座をして謝りたいくらいです。
過ちをまた、犯してしまった国の、1人の人間として・・
本当に、本当に、ごめんなさい。


PS・・
セシウムの検査で値が高く出てしまった、高校生。
大好きな木イチゴのジャムを計測したら、みるみるセシウムの値が上昇した。
「これは食べるのをやめなさい。これを食べる度に君はセシウムを摂取する事になるのだよ」
と先生に言われ、はにかむ笑顔を見せた。
きっと、このジャムを毎日、パンにたっぷりつけて、ほおばっていたのだろうな・・
状況が目に浮かんで、微笑ましくも、辛かった・・
これが、日常が破壊されるという事だ。


そして、本日の映画館、場所は渋谷であったが、
鑑賞者の少ない事もショックであった。
雨にもかかわらず、街にはあんなに沢山の人がいたのに。
この国の関心度はこんなものか・・と思いたくないが、目の当たりにしてしまった。
辛いのは百も承知だが、「知る」という事は、
自分の中で考える事に通じ、やりなおすきっかけになると思う。
そういう意味で、この国の人全てがこの「事実」を知る事も必要だと思っている。
この無残で悲惨な現状を幾つもふまえた上で、包括した上で、
このリスクを背負ってでも、原子力=核を推進しますか?
という問いかけをした時、
私達は、どう答えを出すであろうか・・・
出すべきだろうか。








2011/08/12

イルカの日

この作品は以前聞いたラジオで紹介されていて、
見るのにはいささか心の準備が必要な作品だと感じていた。

痛烈に悲しい作品だと、冒頭から感じて、苦しかった。
イルカの姿がそれは神々しく、和やかで美しくあるほどに、
悲しく切なかった・・・


これは、イルカの知能の高さと信頼感、「心」そのものを、
私利私欲のために利用しようとする、人間のエゴのおぞましさを描いた作品。

前半の、博士とイルカの、愛に満ちた交流が心を揺さぶるだけに、
後半は胸が締め付けされるように、辛かった。

研究所で産まれたアルファというイルカが、その知能の高さゆえに、
人の言葉を理解し、話し始めた時から、悲劇は始まっていた。

自分の名前を呼ばれて、
けなげに 「ファー!」 と返事をする姿・・

「ファー パパ 大好き」
と言って、博士の足に愛らしくすり寄るアルファの姿・・

恋人のビ―と別れ別れにされ、猛烈に怒りながら、
「ビー 今すぐ かえして」 と、懇願する姿・・

どれも胸に迫る。


人を信頼し、人の言葉を信じるが故に、
暗殺利用目的で誘拐され 、爆弾を装着される姿・・
人はこの時、恋人のビーをも利用する。
恋しい、愛しい、守りたい・・という心そのものを利用しようとする。

そして、最後は人に追われる身となり、
安全の為に、大好きな博士と、永遠の別れをしなければならなくなった。
「ファがいるから パパはいじめられる」と聞かされ、
 寂しそうな表情をうかべて、
「 ファー 行く 」と・・
そして、いつまでも、博士を追う姿が、
福島原発事故により、20キロ圏内でやむを得ず置いて行かれた、
かつての犬や猫や牛、馬、鶏などの悲しい姿と重なる・・

イルカだけではなく、私は全ての動物達には「心」があると思っている。
そして、それを信じる人にとっては、
この作品はあまりにも悲しい。
きっと、原発事故により亡くなっていった多くの動物達も、
その死の直前まで、もしかしたらそれ以後も、ずっと、
飼い主さんの事を信じて待っていたのかもしれない。


この映画は映像や音楽が素晴らしいが、
ただそのイルカの魅力=賢さと愛らしさを表現しただけではない。
その無垢で純粋な魅力が、
生物の頂点に立ったかのような奢りと傲慢さで、
権力の為には、何でも利用しようとする人間のおぞましさをより恐ろしく、
増幅させる。


嘘ばかり言う人間に対して、ファーは言う。

「人間 無い事ばかり 言う」

それでも、人を信用し、愛そうとするファーやビ―の姿を、
むしろ、人間が真似し、学ぶべきではないかと思う。


昨今、とある水族館で、イルカが稽古中にジャンプの着地を誤って、
胸を強打し、亡くなったというニュースがあった。
悲しい事故だった・・
狭いプールの中で、人に芸を見せるためだけに産まれてきたわけではないだろうに・・
私はこのような事故が二度と起こらない事を、本当に心から願う。

そして私達は、自分達の私利私欲や娯楽、興味のために、
不必要な命を犠牲にはしていないだろうか・・と
いつも心の中で問うていく必要があると思う。














2011/08/09

アトミックカフェ

映画「アトミックカフェ」を見た。
きっかけは、今年のフジロック。
311以降に発生した原発震災を機に、フジロックで反核を掲げる「アトミックカフェ」が復活した。
フジロックでは開催中の三日間、自然エネルギーで運営されるアバロンステージにて、
有識者のトークショウやアーティストのライブで盛り上がり、
また福島原発や日本の現在の実情について様々な話がなされた。
そこにいた人々はそれぞれ、何かを感じ、想い、核について真剣に考えたのではないだろうか。



「アトミックカフェ」・・1982年に公開された、核兵器に関するドキュメンタリー映画。

冷戦時代の当時、人々がどのように国やメディアによって扇動・洗脳され、
核の時代へと盲進していったかが皮肉をこめて、如実にスクラップされている。

水爆実験の爆発を、「美しい」と豪語する兵士・・
放射能は何ら問題ないといわれて、
不安を抱きながらも爆発実験に間近で参加させられる若い兵士達・・
線量計をつけていたが、一体どれほどの被曝をしたのか。
多分本人達には知らされず、科学者たちの興味深々な眼差しを、
長期に受けたのではないだろうか・・

実験により生成された放射能の危険性を軽視させるような情報の拡散。
近隣の住民には、バスタブで石鹸を踏んでころんだり、
台所で日常おこるような危険性と同程度だから、安心せよというプロパガンダ・・
万が一ハゲても、とりあえずかつらをかぶっておこう。そのうちまた生えてきますよ・等と、
ユーモアを交えて伝える。

そして子供たちへの洗脳。
可愛らしいカメさんが、「ピカっとしたら、すぐ隠れる!いいね!」とにこやかに言う。
そして、避難訓練の様な、被ばく防止訓練の模様・・
(私はこれをみてプルトニウムを飲んでも大丈夫と言っていた、プルトくんを思い出した)
 危険な事実をはらむモノは、いつだってまず子供達を抱き込もうとしないだろうか。

世界の平和を守るために、我々の生活・日常を守るために、
「核は必要です!」と言い続ける国とメディア。何かに似てないだろうか。

そう・・・今のこの国そのものに見えてしまう。

「停電が起こるとクーラーが止まり熱中症で死亡するかもしれません。」
「経済が衰退し、日本はこれ以上の繁栄は望めない。私達のこの生活水準も保てない。」
(=だから、原発必要です)
最近まで、TVで嫌という程、耳ににしてはこなかっただろうか。
そして、放射能は、「直ちに影響はありません。」と言われ、
子供は20ミリシーベルトまで安全とされ、
食品の安全性も不確かなまま、
「スピーディ」であるべき放射能拡散予測等、情報公開は一切なされてこなかった。
そして今も煙にまかれたまま、私達は、放射能の霧の中をさ迷っている・・。

連日、NHKなどで、ビキニ環礁の被曝者やロンゲラップ島の住民の証言、
広島・長崎の被爆者の告白や、
チェルノブイリ原発事故被曝者の今も続く過酷な実状が報道されている。
それら点の数々が、この映画で一つの「線」となった。

核=原子力。これは紛れもない事実と思う。

この映画をみて、国民への情報操作の有り様を見ただけでも、それを痛烈に感じる。
そして、今もに似たような事が起きている最中ではないか・とすら思う。


この映画には冒頭に、広島と長崎の原爆投下の映像も出てくる。
第二次世界大戦当時の映像であるから、
私達の立つ位置とは真逆の視点で語られており、
映像や言葉は無残で辛く、思わず目をそらしたくなる。
明日は、長崎の原爆投下の日・・・・・とても複雑な思いで、この映像を見た。

やはり核は人を幸せにはしない・・・
核のある未来に平和は来ないだろうと、猛烈に思う。

今、「チャイナシンドローム」と同様に、多くの人に見てもらいたい映画です。









2011/08/03

わさび 4回目の誕生日

写真は来たばかりの頃の、幼いわさび。
この表情によく釘づけになったものです。
今も、時折、様々な事を中断させる名人(猫)ですが・・。

今月は、わさびの4回目の誕生日。

推定ですが、8月1日にお祝いしています。
私達の家族であり、宝物です。

出会えてよかった!これからも、よろしく。
そして、どうか長生きしてね。。

夢の中の子供

今週のアエラ「放射能と妊婦の心」を読んで愕然としました。
福島ではすでに、放射能の影響ででるといわれる先天性の異常を懸念して、
せっかく授かった命を中絶している事例もでてきていると・・・

昨今の報道で、日本の人工中絶が増えていると聞きました。
その原因の一つに、妊娠中の検査がより精密になり、
先天性の異常の可能性が、
以前にもまして発見し易くになってきたからだといいます。

非常に悩ましい事態の上に、さらに放射能の不安です。
この国の未来である子供達は、
この世に誕生する以前から、命を脅かされてしまっている・・
あまりにも残酷な現実です。


最近、「子供の夢」をよく見ます。
乳幼児を抱いている夢、幼い女の子の頬を拭う夢・・
一生、子供を持たないだろう・・と思う一方で、
子供が欲しいという潜在的な願望もあるのでしょう。
そして、この放射能に汚染された国にいる限り、
本気で子供が欲しいと思ったとしても、
もう叶わないのではないか、と本能的に感じているのかもしれません。

だからこそ、私の心は充足夢をみる事で、
自分自身を癒そうとしているように感じます。
そんなふうに思うと、
昨日拭った幼い女の子の頬には、
涙がつたっていたのではないかとさえ、
思えてくるのです。

2011/07/22

思考という名の嗜好品

自分が抱く、ある物事や人物への嫌悪感や苦手意識は、
どこから来るものだろうと思う時がある。
自我の底から湧きあがってきているものなのか、
本能からきているものなのか、
客観的な判断によるものなのか、
それとも、刷り込まれた「意識」なのか。

意識をむき続けていると、
そのうち玉ねぎの様に、芯も無くなり、
何もない「虚無」へと落ちるようで怖くなる。
それは自分の自明性をも揺るがす。
存在するはずの思考そのものが、存在せずに、
有るはずの知識は、全て借りものの様に感じてしまう。
それは誰かから教えられたり、書物で得たり、
今なら、ネットやテレビ・・様々なメディアを介して得た知識であったり・・、
本当の自分から湧きあがっている、真の自分の思考とは何処にあるのだろう。
その答えは多分、永遠に見つからない気がする・・。

一つ解るのは、思考や言葉はその産まれが何処であろうと、
自分というフィルターを一度は通り、濾過されて発せられるということ。
経験がお湯の温度だとしたら、その経験値や、経験の解釈などにより、
濃度も味もそれぞれ、それこそ毎日の様にころころと変わる。
濾過されたものを再度飲みほしてみれば、意外と味わい深いことにも気づく。
思考という名の嗜好品とでもいう感じだろうか。
 そして、お茶の種類は色々とあった方が、日々もささやかに華やかになる。

難しいことは考えずに、とりあえず、
豆や茶葉を仕入れるつもりで、
今日も知識の森へと入ろうか・・。

2011/07/03

崇高な魂たちに仕えたい

メメント・モリという言葉がある。
「死を思え」・・・
「自分が死すべきものだ」と言う事を忘れずに、
限りある人生を楽しもう・という思いがそこにある。

人は常に死を思い、恐れるが、
その恐れを「死ぬまでにこれだけはしておこう!」などと
前向きな動機にも転換し、生きて行ける。
それは人間の勇気や知恵、思考の結晶だとも思う。

一方で、本能的な危機感は常に備えているとしても、
動物達は常時死を恐れたり、死を思う事はないだろう・・。

前者=死を思って生きる事が果たして高次なのか、良い事なのか
・・時々解らなくなる。

時に死をも美化しようとする人の有り様を見て、
動物達の方が、遥かに清く、崇高にみえてしまうのは、
私の幻視に過ぎないのかもしれない・・。

しかし少なくとも、我猫達を毎日見ていて、
彼女達が私達と違う次元で生きていると思う以上は、
人間よりも下等だとは微塵も思わない。

むしろ、気高く尊い、そして愛らしい猫達の為に、
私個人は、彼女達の給仕係であり、献身的な世話役でありたいと、
ずっと、永遠にそうでありたいと、
心から願う者である。

2011/06/23

サビちゃん、何処へいった?


くるみの綺麗な黄色の眼をみていて、ふと思い出した。
随分前、近所のホームセンターにブリティッシュショートヘアーのサビ猫が売られていた。
同じく黄色い眼で体系がわさびに似ていたものだから、
凄く親近感がわいて、そこへ行く度に、彼女の様子を見に行った。

サビという柄は、好き嫌いされるちょっと特殊な柄だ。

だから、そのサビ猫もなかなか売れずに行く度にディスカウントされ、
それを見る度、私は心を痛めた。

「なんとかしてあげたい・・けど10万円は高すぎる・・」

「命」の値段はいったいどういう理由でつけられるのだろう。
単に、私がペット業界について勉強不足ということもあるのだろうが、
私の心がどうしても、それを受け付けなかった。

10万円が次には8万円、その次には7万円・・・
彼女はどんどん月日を重ね、日増しに大きくなり、
もはや見た目は子猫ではない。でも、心はまだ甘えん坊の子猫である。
様子をうかがう度に、可愛いそぶりを見せてくれた。

いつか猫のボランティアの方が言っていた。
「日本では、まず1才以上の子は見向きされない。
子猫の可愛さだけを求めてきて、
それが無くなると途端に捨てる人たちもいる。

本当に飼いやすいのはむしろ1才ぐらいの子だし、
その頃には猫本来の性格もあらわれているだろうから、
飼い主さんとの不一致もおこりにくい」のだと・・・

ホームセンターにいたそのサビ猫は、
いつしか姿を消した。
最終的には半額になって、一匹だけ大きなケージに入れられていた。

姿がみえないとわかった時、私は不安になった。
ホームセンター等で売られているペットは売れ残ると、
ブリーダーさんのもとへ返されるか、
別のルートをたどる事もあると、以前聞いた事があったからだ。

別のルート・・・口にだすのも恐ろしい・・

どうか、嘘であって欲しい・・・

わさびに似た、お月さまの様な眼をしたサビ猫。
優しい家族を得られただろうか?
今でも、気がかりでしょうがない。
ただ、かなり昔の話で、それを調べる手立てもない。
願うしかない自分が、暗闇で途方に暮れている・・

個人的には、私はペットを飼うなら、
彼らを家族として迎え入れるなら、
保護施設や捨猫の様な「可哀そうな子達」を優先させようと決めている。
そして、命に値段がつく事が、どうしても自分の中で納得できない。
皆、私達と同じ「命」である事には変わりないのに、
人間だけが彼らに値段をつけられる程、優れているというのだろうか・・
彼らのディスカウントされる命を見る度に、私は悲しくなってくるから、
ホームセンター等のペット売り場には、もう、近づけなくなってしまった。

日本はまだまだ、ペット途上国だという。
今回の震災でのペットの扱いを見ていてもそれは感じる。

「人命が先なのに、ペットの事がもう心配で・・
泣いているなんて不謹慎だと思って、更に辛くなってくる・・
でも、心配で心配で、どうしようもないんです」
20キロ区域にペットを残してきてしまった女性の言葉が今でも耳に残る。
幸い、この女性は後日、愛犬と再会できた。が、
同じ思いをしている被災者の方は多いだろう。
「そんなこと、言わないで下さい!お願いだから・・」心で何度も思った。

20キロ区域の方の中には、飼い猫が心配で避難できず、
線量の高い場所に、危険を承知で、ずっと留まった方もおられたという。
私達夫婦は事あるごとに話す。
「わさびやくるみを、絶対に、おいて行けない。
家族だもの!
もし、そういう時がきたら、私達はここに残ろう・・・」


 いつか、動物も人間の命も平等だ!
と胸を張って言える国になって欲しい。
動物達の悲しい姿は、未来の私達の姿でもあるかもしれないのだから・・・

2011/06/21

ファミコン 以前と以後

小学生の頃、ファミコンが流行りました。
我が家にもいつしかファミコンがきて、最初は夢中になったものです。
ボンバーマンや、マリオブラザーズ・・・

しかし、私が違和感を感じ始めるのも、そう遅くはありませんでした。
友人同士で集まると、早速、ファミコン。
夢中で、皆で画面にくぎ付けになって、無言のまま・・

この「無言」が私の最初の気づきでした。
楽しいんだけど、何か、満たされていない。
会話したいのだけど、皆画面に夢中だから、話しかけても会話にならない。

時にはゲームの話になるけど、
それはあくまでゲームの話であって、
「その人」の話ではなかった。

「その人」の話・・例えば、どんな食べ物が好き、とか、
最近どんな本を読んで感動した、とか、
学校の勉強でここが悩みだ、とか、
先生の話や、家族の話、好きな人の話・・・

いわゆる生活に寄り添った、普通の話をしたかったのに、
ファミコンがきてからは、無言か「ゲーム」の話ばかり・・・
やがて、私はその場についていけなくなってしまいました。

何が違和感なのか、その時は解りませんでした。
仲が悪くなったわけでもなかったので、
自ら孤立を選択したとはいえ、とても寂しかったのを覚えています。
図書館に行っては、本を読む毎日。
ちょうどその頃、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に出会い、
ジョバンニの心象と自分の心象が強く重なったのを覚えています。

私は、ファミコン以前と以後を経験した者として、
それを境に、子供同士のコミュニケーションのあり方が
徐々に、しかし確実に変わっていったのではないかと思っています。

対し、今でもゲーム好きの主人には真っ向から反論されます。
「ゲームをやっている間も、ゲームについて楽しく話していたよ!」と。
たんに、私がゲームと相性が悪かっただけなのかもしれません。
ファミコンは、子供たちにコンピューターへの親和性ももたらしました。
だから、このネット社会も私達は違和感なく遊泳できるのだと思います。

しかし、私はあの時の「孤独感」を忘れられません。
会話したい事は沢山ありました。
面と向かって、ただ、日常の風景を話したかっただけなのです。
それが、皆とずれてしまったということは、
それ以後の子供達の感性や、思考、コミュニケーション能力のあり方について、
ある意味、示唆的ではなかったか・とも思うのです。

2011/06/20

温度差がある

「見えない敵」がまわりを囲んで3ヶ月。・・・まだ3ヶ月。
チェルノブイリや核に汚染された地域のその後の過程をみると、
それはそれは果てしない苦悩が続く気がします。

晩発性の病気や、遺伝子レベルでの汚染、産まれてくる子供の奇形・・・
知らなければ、知らないまま、通り過ぎていくような、
本当に「現実」とは思えない現実。
放射能は目に見えないのをよいことに、
大手メディアや政府は、詳細を教えてくれません。

内部被ばくの危険性は?
危険の具体的な姿は?
生物への影響は?
どこまで汚染されているの?
人の住めない土地は存在するの?


チェルノブイリなどの教訓がすでに存在し、
汚染地域の悲惨な現状も沢山知ることができるのに、
肝心な問いへの答えが、公には未だに出てきていません。
私達、特に子供達は未来に向かって生きているというのに、
その未来が、安全なのか、安心なのか、見えてきません。

大変におかしなことだと、思います。

情報の狭間に挟まれて、精神的に苦悩される方も多いでしょう。
かくいう私もその一人です。
情報格差の中で、周辺の人々との認識の違いに戸惑い、
自分がまるで逸脱しているかのように感じること事態が、
心の大きな不安に繋がってしまいます。

しかし、それでも、自分の信念をもって生きていきたいと思います。
「何もなければ、それでいい・・
未来に、毎日マスクしてた事もあったよね、と笑えればそれでいい」

最悪を考えることは負担ですが、
少しでも危険の可能性があるなら回避していく。

そうして、わたしは、これまでも食品添加物の問題や、
心から納得できない動物実験に対して、自分なりに向き合ってきました。
気にしすぎ!と言われればそれまでです。
人はそれぞれの価値観をもって生きていますし、
それを尊重することも大切です。

しかし、唯一無二の「生命」に関係する信念だけは曲げたくない。
疑念をもったまま、あるいは知らないまま、無知なまま、
朽ち果てたくないのです。

放射能の問題、原発問題、はては核の問題も、
今後一生付き合っていかなければならないのでしょう。
その為の心の準備はだいぶ整いつつあり、
豊富な情報やコミュニケーションツールも、今は沢山得られます。
自分の中で、インプットとアウトプットをこれからも恐れず、
積極的にやっていきたいと思います。

2011/06/14

ちーちゃん ~dreams~

【ちーちゃん】

猫の一生は人間よりもはるかに短い。
それは当たり前のことですが、
家族同様に彼ら彼女らと生きていく者にとっては、
理屈では分かっていても、心がどうしても納得しません。

人生において、様々な個性豊かな猫達が、
それは駆け足で通り抜けて行きました。

快速や急行ではなくて、各駅停車でゆっくりいけばよいものを、
流れ星のごとく走り去っていった、
あずき や チビ子。チビ尾。

ちーちゃんは比較的長生きだったかもしれないけど、
それでも10年は早すぎたと思う。

近所のボス猫ちー様。負けず嫌いで、冒険家。
浮気のお家は数知れず。でもご主人様には忠実だった。
頭の良い ちーちゃん。
カブちゃんをいつも子分の様に扱っていたっけ。
私達の見えないところで、ちょこっといじめてたりしたけど、
でもむやみには八つ当たりしなかった。
少し若い頃は、ハンサムキャットだった。
歳を取って、中年太りがあだになってしまったね・・・

夜になると、近くの街頭でいつもぽつんと佇んでいました。
ご主人さまを待っているのか、夜の静寂と虫の声に心地よく酔っていたのか、
声をかけると、必ず返事をして近くまでお見送りしてくれるのでした。

今は、先に待っていた数々の猫と供に、
虹の向こうにいるはず。
カブちゃんや、わさび や くるみ はまだ迎えに来ないでね。

思い出を、永遠のものにしたくて、
ちーちゃん が亡くなった頃に、描いた絵です。

2011/05/31

時々見える星の空

上手く表現できないが、
人の内側にはそれぞれの「宇宙」があると思っている。
それは普段はなかなか見えてこないのだけれど、
ふとした瞬間に、小さな星空や輝く宝石のようなものがみえた時は、
人知れずこっそりと、内心大いに感動していたりする。

どんな人との会話にも、驚くべき発見があり、
様々な人生の旅話は、その人生を経験できない分面白いし勉強になる。
光と闇は表裏一体で、
時々驚いたりもするけれど、
美しい風景もマグマも包括している地球と同じ、
人は絶妙なバランス感覚で生きているからこそ、
輝きが一層に増す気がする。

街で「宇宙」がそれぞれ歩いている、座っている、話している・・と思って眺めていると、
なんだか漆黒の球体が殺伐とした空間をユラユラ舞っているようにも見えてくる。
それぞれが素晴らしい存在なのに、
それに気づかぬまま、忘れられたまま、又は虐げられてしまったまま、
漂っている人達をみると、何とも寂しい気分になり、
私自身も、さ迷う風船の様にもろい存在だと実感する。

それでも、人の心に在る銀河や星空、月や太陽を発見した時は何ともいえず嬉しくなる。
この人も壮大な「宇宙」を内在させていると。
どんな惑星が輝いているのだろうかと。
そう思うと、かなり、理想論すぎるかもしれない・・ が、
人は人をもっと尊び、大切にするのではないかと思う。

人は深い。人生も深い。宇宙の様に果てしない・・

2011/05/22

深層を見て、真相を感じたい

最近は、良い画像や写真をみても「合成したんでしょ」とか、
「よく加工したな」という短絡的な感想も多く聞こえる気がします。
 それを逆手にとって、どちらかのTVでは、
アナログでとった凄いCMの特集などを組んで放映してました。

残念な「スキーマ」が出来上がってしまっていると懸念しています。
「スキーマ」とはある物事や事象ついて、
その人なりの見方についての概念枠組みの事を言いますが、
無意識的で自動思考的でもあり、
物事を表面しか見ずに判断してしまう=偏見につながる危険性を秘めているのでは、と思います。
自分自身そう思い、「スキーマ」の存在を感じ、戒めてもおります。


過去にこの様な事がありました。
とある美術大学の合同展示会に出展したのですが、
そこでいただいたアンケート内容に、「スクリーントーン使っているのが残念」と書かれていました。
とても、ショックでした。
しばらく、憤りと悲しみで立ち直れませんでした。

私の絵はすべて手書きです。
一生懸命、時間をかけて、丹念に描いているのです。
スクリーントーンなど、一切使っていないのに、この様な事を言われては、
もう弁解する気もおこりません。
ましてや、同じ絵画の世界を目指す方に言われたとなっては・・もう・・


表面的な事、うわべだけをみて判断する事の重大さ、そして危険性を痛感しました。
もしかしたら、私も知らないうちにスキーマによって、
偏った見方をし、勝手に判断し、解った気になっているかもしれないとしたら、
それはとんでもない事だと思い、
以上の事は、反面教師として、心に刻んであります。
刻むというよりは、トラウマティックに残存していると言った方が、
的確かもしれませんが。。。

辛い体験でも、いずれは自分の糧になると信じています。
「自分以外は皆師なり」とはよくいったものです。
もう10年以上も前の話なので、今となっては、
そのような心の仕組みを教えてくれた「経験」そのものに感謝すべきなのかもしれません。

2011/05/17

未来への歩みは

チェルノブイリやセミパラチンスク等、
核による被害に関する書籍や写真集をみていると、
共通した思いを抱きます。

どの土地でも、住む人々は質素で素朴で穏やかな生活をしており、
自然と共に歩み暮らし、享楽的社会とは真逆の世界にいる人々です。
広がる田園風景や草原、森林は美しく、
のどかで、花の良い香りがし、子供たちの快活な声が聞こえ、
生き生きと働く人々、そしてコミュニティを想像します。

しかし、目に見えずにおいもない魔の放射能は人々の全てを奪いました。
美しい自然も、新鮮な空気も、人々の絆も、何もかも。

ここ日本で起こっている事も同じです。
美しいものが汚されていく。
慎ましい生活が崩されていく。

都会に住む者として、何とも言えない葛藤と憤りを感じます。
なんで、この薄汚れた享楽的都会が守られて、
美しい土地が汚されていくのか。
福島で生み出されていた電気を湯水のように使っていたのは私達なのに・・・

同じく美しい場所である、井の頭の森を歩いていた時にそう思い悲しくなりました。
悲しくなるだけで何もできない自分が恥ずかしくもありました。

美しいものほど、汚され傷つけられていくのは、
人の心も同じです。
まっすぐに頑張っている人、真面目な人、優しい人が
傷つき、悩み、病んでいくような気がします。

不条理な世界に生きていると感じてしまいます。


短絡的で、享楽的で、自己中心的な考えの塊が、
人を傷つけ、この原発災害をもたらしたシステムを作った、
重要なファクターであったように思えてなりません。

そして今、この時に、原因に気付き、深く考え、反省できれば、
この国の未来は良い方向に向かってくれると・・・・そう思っています。

2011/05/14

知の力

愛猫あずきが4ヶ月で亡くなってしまってから、もう5ヶ月近く経ちますが、
全く悲しみが癒えません。
突然悲しくなったり、とても涙もろくなりました。
これがペットロスか、これは相当に辛いものだと身を持って体験しています。
そして、昨今の地震に、原発問題。
最近も20キロ区域の家畜の処分(処分・・なんて酷い言い方!)が報道され、
傷口に塩をすりこんでいるように、辛い日々が続いています。

最近になって大学で心理学を学び出したのは理由があります。
20歳の時、精神的ストレスを原因に「パニック障害」を発症しました。
別名、不安神経症。心身症の一種です。
電車の中での突然の呼吸困難。そして遠のく意識。
このままでは死ぬというもの凄い恐怖感は、おそらくなった者しかわかりません。
今まで3回救急車で運ばれました。
こうした症状の場合、紙袋などを使って二酸化炭素を吸い、
「大丈夫死なない」と言い聞かせながら安静にしていると、
30分くらいで落ち着くのですが、慣れないうちはコントロールが非常に難しいのです。
私はこの病ともう10年以上付き合っていますが、未だに新幹線や美容院・歯医者など、
すぐに立ち去れない状況が苦手です。
友人に旅行に誘われても断らざるを得ません。
ただ、電車においては急行や快速には乗れるようになってきました。
これは本人にとっては快挙です。
そうして、私はできるだけ自分自身で立ち直れるよう
地道に行動して治癒してきました。

私の周囲でも、ウツや心身症を患っている人は多くいます。
最近はメンタルケアにも気軽に行けるようになってきたので、
だいぶ偏見は薄れてきたと思いますが、
それでも会社の対応などをみてきていると、なまけているとか、扱いが分からない等、
まだまだ理解や認知は低いと感じています。

高校から大学へ進学する時も最初私は心理学科を希望したのですが、
親に猛反対されました。おそらく固有の偏見と思います。
それで第二希望だった社会学科にしたのですが、結局尻切れトンボで終わってしましました。
その反省とリベンジをこめて、意を決して編入したのです。
そして私を含む、他にも苦しんでいる人達の事を少しでも理解し、
すこしでも手伝えることができたら、という思いを携えています。
発症時よりだいぶ良くはなりましたが、
未だにパニック障害に特有の予期不安につきまとわれいている身です。
そして、最近になってやっと友人等にもカミングアウトできたというように、
自分自身が自分を偏見対象にしていたことを大いに反省しております。
なぜなら病気を治癒するのに大切なのは、
まず自分を信じる事、大切に思う事だからです。
そして心と体は密接に繋がっているという事を認識する事も重要です。

昨今の原発震災で、良くない兆候は心身に表れ始めています。
動悸が増え、ちょっと息苦しくなる時が多いです。
東京にいる身ですらPTSDに陥りそうなのですから、
被災地や避難されている方々、放射能を心配する親御さん達、
家畜を処分しなければならない方々、大切な家族を亡くされた方々・・・
を思うと、とくに以前から心身症や精神病を患っている方々は、
相当厳しい状況だろうと思います。

私は今、「知の力」を借りて、
自分自身で出来る事は何だろう・と模索しています。
人を少しでもお手伝いするという点で、
今学んでいる事は、今後、頼もしいツールになってくれると思っています。
若い頃の様にがむしゃらには処理できず、
ノロノロ進行ですが、全く違うのは目的意識、
そして今また再び学べる事に感謝している事です。


ガンジーは言っています。
「善き事はカタツムリの速度で進む」

2011/05/10

言葉と心

人は言葉を手にした瞬間に、
言葉以前の世界は無意識に埋没し、
再びその扉を開く事が困難になるという。

例えば文章の沢山書いてある紙がとじてあるものには、「本」などという名前=言葉がある。

ふわふわした四足のそれには、「犬」や「猫」などという言葉があてはまる。

言葉以前、つまりこれはなんだろう?と疑問を持った時に、
様々な解釈と空想と触感、自分の五感をフル稼働して、
「コレハナニ?」と頭をぐるぐるさせている、
万華鏡のような瞬間ではないかと、私は思っている。

それが、「これは本よ」と言われた瞬間、
「本」という言葉で全てが集約され、
まるで壺の中に、煌めく宝石が一瞬にして吸い取られてしまったかのような、
虚脱感を感じさせる。

無意識に閉ざされた扉は、
多分年齢でいう三歳以前くらいだと思うのだけど、
人の記憶もその年齢以前は思い出すのが困難とされているらしい。
「三つ子の魂100まで」というがそうであれば、
ぜひ開けてみたいものだ。その扉を。
しかし、何が隠れているか解らないし、
言葉で表現できない世界観を、
言葉で支配されているこの頭で理解し統合するのは非常に混乱すると思う。
そして、自分の記憶とはいえ、
パンドラの箱にもなりかねない。

ツイッターを始め、あらためて人の言葉の重要性を感じているが、
言葉では言い表せないものも莫大に孕んでいるのが人の心だ。
言葉1つで表現し理解するには、あまりにも深すぎる世界とも思う。

2011/05/07

Webサイト更新しました。

久々にホームページに作品をアップしました。
Loversに2作品【men/women】、Nostalgiaに1作品 【椿】です。

Twitterも始めました。
今更ながら、『つぶやき』の偉大さを理解しました。

自分がつぶやく事で、自分の内世界が変わり、
人々のつぶやきのおかげで、外世界も変わる。
情報の宝庫、出会いの掛け橋。

様々な出会いに感謝しております。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

2011/04/25

二人ぼっち

3月11日以降、原発震災により、生活が一変してしましました。
携帯が繋がりにくい中、gmailやTwitterはその機能を失わず、
混乱の中を駆け巡る一筋の光となったと思います。
私も今後の連絡手段にと、気軽にTwitterを初めて見たのですが、
そこは驚くばかりの情報の「宝庫」でした。
もちろん、情報の内容には玉石混合なところもあり、
十分精査する必要もある為、受け手にはそれなりのリテラシーと
時間が必要とも思います。
しかし、このメディアにはスピーディな自浄能力が備わっています。
そこに情報を発信する側と受ける側の見事な連係プレーというか、
人の良心まで垣間見れるところが素敵だと思いました。

しかし感動もつかの間、巷にあふれる情報は、もしかしたら、
有る程度加味されていたり、もしくは加工されていたり、
それこそ圧力と統制と権力という「添加物」まみれなのかもしれないという疑念を持った時、
特にこの原発関連において、言いようのない不安感に襲われました。
今まで信じてきたもの、守ってくれていると思っていたものが揺らいだのです。
テレビ、新聞でしか情報を収集していなかった時期、
私は多くの事を知らずにのほほんと来てしまったのか・・・
これまでの自分を大いに反省し、決別しようと思いました。
なので、今は一生懸命、日々毎時更新、発進される「情報」の波と格闘しています。
まだ備わっているリテラシーが脆弱で処理能力が追いつかないところが悲しいです。
しかし、これも訓練。
ネット、新聞、テレビ、ラジオ、書籍、雑誌、様々なメディアから抽出した情報を丹念に咀嚼できるよう頑張っていこうと思います。
そして可能であれば、大切な人にも教えたい。


一方で、私は絵を描く事が好きです。
描いている最中は、あの細かな作業がとてもつらい時もあります。
しかし、ゴールの先に見える特別な風景が私を魅了してやみません。
まるでマラソンのようです。
また絵を描く人物は私の中にもう一人います。
いつも心の奥深くに潜んでいて、たまに対話する時、それが絵となります。
最近は、あずきを失った悲しみと、原発震災の疲労ですっかり影をひそめていましたが、
そろそろまた出てきたがっています。
私も会いたい。
共にこれからも生きていき、死後も一緒に連れ添うであろう、唯一の友人。
だいぶ待たせてしまってごめんね。

2011/04/21

もう一つの闇

大手新聞の世論調査の結果では、大体においてまだ原子力を容認・推進している。
しかし質問には巧みなバイアスとニュアンスが使われている可能性があるし、
調査対象に関しても疑問を感じる点が残る。
某新聞では被災地を外したと聴いたが、ほんとだろうか?
ましてや原発に関する被災地を考慮していないとしたら、その調査を行う意味が解らなくなってくる。
対岸の火事の様に感じている人々に意見を求めたって、大概「保身」や「便利」「しようがない」で固まってしまうのではないだろうか。
ただ、今までタブーとされていた反原発・脱原発を声にして言えるようになってきた事は、
評価できると思う。日本全国で反原発運動も盛んになってきている。
私も先日行われた高円寺のデモには行った。
今出来る事を何とかやりたい・と半ば急かされる思いで行ったと思う。


ここ(日本)には、もう一つまだ大きい声ではなかなか言えないタブーがある。
「動物実験」だ。
これは原子力よりもずっと認知が低く、関心も薄い。
「動物愛護」=動物を愛しているか・人の命と同じと見ているか、という線引きがあるからだと思う。
海外の動物愛護団体の一部の過激な行動が、妙にクローズアップされるせいもある。
 しかし、私には原子力問題と動物実験の問題は、その種類は違っても、
根っこは一緒だという気がしてならない。
多くの学者・研究者の人類の繁栄・命の保護という大義名分のもと、
そして多くの私利私欲と利権がからむ中、
罪のない命が軽視され、抹殺されていくという点では、
残忍な実験の犠牲になる動物たちや、
福島原発の放射能による被爆者(特に子供たち)は一緒の様に思えてならない。

また、原子力が無くなったら、電気が使えなくなりますよ・という事と同じように、
動物実験できなくなったら、薬はのめなくなりますよ、病気になった時どうするんですか?という常套句が必ず付いてくる。
それは無知な人間にたいする「脅し」の様にも聞こえてくる。
しかし、原子力に代替エネルギーがあるように、動物実験にも代替策は多く存在する。
その点については原子力であれ、動物実験であれ、
反対するものは知識として装備すべきものだろう。
残念ながら私はまだ勉強不足だけど、直観・本能的に思う。
やはり、原子力は危険だし、動物実験は悲劇だ。
特に猫は脳神経系の実験に多く使われるという。
もしかしたら、私の常備する頭痛薬にも、
何万という猫達の魂が消費されていったのかもしれないと思うと、胸をかきむしられる。

これらの問題を語るには、まだまだ勉強が足りないと反省する。
でもそういう事実があり、事故が実際に起きた今、
クリーンエネルギーの発展を願うし、
化粧品等、なるべく動物実験していないメーカーから購入しようと思い実行に繋げている。
自分の中の認知的不協和状態を解消するには、
認知を曲げるか、無視するか、行動するか。
私はできる限り後者で有りたい。

また知らぬよりも積極的に知って、選択の幅を広げる事も大事だと思う。
1つの化粧水の選択が、やがてバタフライエフェクトのように、
大きな風となりますように。
少しでも小さな命が切り刻まれることなく、救われますように・・・
猫=動物を愛するものとしてのささやかな願いです。

2011/04/20

餓死する命

電子版DAYSの今週の写真を見て、もの凄く悲しくなる。
痩せこけた牛が力尽きている。
他の写真では、やはりとても痩せ衰えた馬が18日ぶりに餌を与えられている。

双葉郡の避難地域では、屋内の猫は生存率が10%だという。
かつての愛猫達は、空腹のあまり、共食いまでおこしているという・・・・
飼い主も断腸の思いで家を去ったのだろう。
または、2,3日程度の避難のはずが無計画に延ばされた結果の無残な現実なのかもしれない。

どうしても悲しくなるのは、彼らには一切責任が無いからだ。
しかも、鎖などで繋がれていたら本人たちの意思で逃げる事も出来ない。
この豊かな(今であっては幻想か)緑の大地で、餓死しなければならないなんて。

中には家族同然の家畜やペット達を置いてはいけないと、
高い放射線の中で今も暮らしている人々もいる。
気持ちは痛いほどわかる。
私にも愛する「家族」がいる。
私達ももし同じ立場におかれたら、置いてなど行けない、と毎日連れ合いと話し合っている。

それでも、未来ある人々は避難し命を守るべきだと思う。
せめて、小さな家族も一緒で有れたなら・・・
避難所などの対応問題も山積している。

日本ではずっと動物の命を軽視してきた感がある。
それが、今回の震災によってさらに露呈してしまった。
今やペット総数は、子供の数よりも多いと聞く。
それだけ愛される命があるというのに、
人間と平等に扱われないのはいったいつまで続くのだろうか・・・
やり切れない思いで一杯になる。

2011/04/19

チャイナシンドローム

映画「チャイナシンドローム」を見た。
1879年の作品で、奇しくもこの映画放映直後に、スリーマイル島の事故が起きた。

チャイナシンドロームとは、
炉心が溶融すると、その熱が地球の裏側を突き抜けてしまうという大事故を比喩したもの。
今現在、チェルノブイリ7級の事故が自国でおこっており、
連日の報道や会見等で、原子力関係のワードにすっかり慣れている身としては、
非常に解り易く、体験を追随しているようだった。
しかし、この映画は今から32年も前のもの・・
現実が映画を追体験していると言った方が適当かもしれない。

ジェーン・フォンダ演じる敏腕キャスターが、とある原子力発電所のレポートで、
「効率的」を「利己的」と言い間違えるシーンが印象深く、象徴的だった。

重大事故をその撮影中に目撃するが、キャスターはそれを特ダネとし、
午後のニュースで取り上げようとする。しかし、
即座に何者かに圧力をかけられ、その申請は尽く却下され、マスコミは黙殺を図る。

発電所を長年「愛した」室長の内部告発で、
重大事故の露呈が市民に測られるが、とんでもない結末が待っていた。
いささか大げさすぎるともおもったが、今現在がこんな状況にある為、
非現実な結末にも思えない自分がいた。

巨大すぎるエネルギーを制御しきれないのに、飼い慣らしていると勘違いしている人間の愚かさ、
どす黒い利権がらみの人間関係、
そこに光った一筋の愛と「良心」。
それも流れ星となって遥か彼方に消えてしまうのか。
この映画では結論は出なかった。

できることならば、映画「東京原発」と並んで、
ゴールデンタイムのお茶の間に届けて欲しい作品だ。
「原子力」=核の闇の部分を勇敢に懸命に映し出しているだけでなく、
サスペンスとしても見ていて面白いし、引き込まれる内容だった。
しかし、映画の場合はフィクションで終わり、ほっと一安心、現実に戻れるが、
今はフィクションが「現実」だ。

原子力の闇を描いた作品の数々は、
書籍であれ、映画であれ、「とんでも内容」として長く世間一般から黙殺・廃除され、
隠蔽さえされてきたと思うが、
なぜそうされてきたか、何となくわかってきた気がする。
描かれたフィクションが現実となりうる可能性を見事にはらんでいて、
あまりにも危険だったからではないだろうか?
そして周知されたあかつきには、受け手のリテラシーが問われるが、
皆が皆、冷静に判断できるとは言えないから、
それなら見せないほうがましだろうという解釈だろうか。
今も情報を発信する側に、そのような風潮は多く残っている気がする。


鑑賞後、寒々とした悲しみが襲い、怒りと共に混沌としていた。
1人の人間にはあまりにも巨大すぎる闇だ。
闇の中で、一匹の蛍を追いかけているような感じだった。
そしてその蛍すらも、結局は殺されてしまった・・・

それだけは、現実にならぬ様、願っている。

2011/04/11

おつかれ、くるみちゃん

先日無事に手術を終えて、ちょっと面白い感じになってしまったくるみちゃん。
歩いている姿は、壊れたミニ扇風機のよう・・・
大変だったね、お疲れさまでした。

節電対策

テレビをほとんど見なくなってもう随分と経つ。
見るとしたら、夕方のニュースか興味のあるNHKスペシャルぐらい。
視覚と聴覚を一気に束縛されるテレビより、
聴覚だけで情報が得られ、自分のイマジネーションも活用できるラジオの方がずっと楽しいし、
有意義と感じた。家事もその方がはかどる気がする。

今になって、1年程前に感じたテレビの有意性への不信感は何となく正しかったかもしれない、と自負している。
特に、震災以後、何事も無かったかのような内容のものには、怒りを通り越して悲しみすら感じてくる。
被災地の苦悩はまだ変わらず続いているし、原発は小康状態ではなく、むしろもっと甚大な局面に立たされ現地で作業されている方々や、近隣の人達は本当に苦悩されていると思う。そして200Km以上離れている東京でさえもはや安全ではない感が刻々と刻まれ、毎日毎時戦々恐々としているのは、私だけだろうか。
「フォビア(恐怖症)」と言われればそれまでだが。
少なくとも、テレビや新聞以外のメディアを活用している人は多方面から状況を直視し判断しているはずだ。そして、そう願いたい。


「使っていない電化製品のコンセントは抜く」
「使ってないパソコンの電源は切る」
以外に、節電にはこの際、観る必要もない、有意義でもない番組(テレビ)を消すことも視野に入れて取り組むべきではないだろうか。
そして、無駄に頭をぼんやりさせずに、静寂の中、
無画無音の他メディアとも向き合ってみつつ、
自分の人生観=今後どういう理念を持ってどう生きて行くのか、
見直してみる事も今必要な気がする。

2011/04/09

今必要なこと

今日は雨が降り注いでいる。風も強い。
少し不安な雨だ。
育てていた猫草をうっかり外に出したままだった事に後悔するのは過剰反応だろうか?
部屋の中で慌てて空の植木鉢に種を蒔いておいた。

新聞、テレビ、ラジオ、ネット、書籍等など、
いささか情報に取り込まれ翻弄されそうになっている自分がいて、
冷静に、沈着に、慌てずに、とたしなめる一方の自分ともがいている中で、
極端に情報を遮断してしまっている人達も見受けられる。
その人達は自ら情報統制している様にも見える。

どうせ、事態は悪化している。
なるようにしかならない。
人間死ぬ時は死ぬんだから・・・
そんな言葉を同じように聞く。
極端な閉塞感や、悲観する傾向は、特に災害時ではそれが強く表れる事があり、
その心理状態は、普通の時とは異なっていて、
それを自ら自覚することが必要だという。
自覚する事によって、マイナス思考の歯止めが利き、ちょっと立ち止まって冷静になれるからだという。

過剰反応してしまうのも、情報鎖国に自ら入ってしまうのも、
今は国中が非常事態だからいたしかたない現象だと思う。
しかし、「無関心」は正していくべきだと思う。
今刻々と変化していく事態を恐れずに見て行く事が、これからの未来につながると思っている。
なぜなら、私達1人1人の「無関心」(半ば誘導もされてきた)がこの事態を招いてしまった可能性もあるのだから。
命を大事にするということ、たった1度しかない人生を誠実に生きようとすることを、
最悪の状況を想定した上でも考えて行く事が必要なのかもしれない。
その為にはやはり、情報遮断を決め込む隣人ではなく、
良い事も悪い事もちゃんと話しあえる仲間が必要だと思う。

2011/04/08

くるみ入院


くるみちゃんに春の季節がやってまいりました。
朝晩ワーワーなきわめき、先住猫のわさび(雌)に必要にせまるので、
普段は温厚なわさびもたまらず、シャーッ!と怒っていました。

本日手術の為、入院。明日引き取りです。

明日は雨が降るらしい。また水道水に値がでてしまうのかしら。
政府では「外出して頂いても問題ありません」と言っていますが…

2011/04/06

偶然にも

広河隆一氏の「チェルノブイリと地球」という本を購入した。
ネットでの注文だったが、
この本は福島県郡山市から届いたものだった。

この本を梱包してくれた方はどのような気持ちだったろう、と思うと複雑な気持ちになる。

美しい写真が多く、そこが高濃度に汚染された土地だとは想像できない。
人々も何ら私達と変わらない、普通の素朴な人々だ。

良く聞いているラジオでは、「美しま福島」とうたっていた。
今も変わりない事実である。

東京では桜が満開と聞いたが、
同じく美しい桜は福島でも沢山咲き誇っているだろう。

2011/04/05

退避区域の命

空に罪は無い。
海に罪は無い。
大地に罪は無い。

大切に育てられた野菜や牛や馬たちに罪は無い。
大切に愛でられたペットたちに罪は無い。


罪深いのは人間だ。
どんどんと地球が汚染されていく。
そして私達の身体と心も静かに汚染されていくのか。



退避区域に取り残された牛達の写真や犬達の写真をみてそう思った。
それでも彼らは汚染された水を飲み汚染された草などを食べて生きて行くしかない。
彼らの、そして飼い主達の心の悲鳴が聞こえてくる気がする。


水俣病で最初に異変が出たのは海辺の猫達だったという。
松谷みよ子原作の「死の国からのバトン」では、その様子を静寂に物語る。


東京にも雨が降った。そして水道水の値が上がった。
その時に、私は外にいる猫達が心配になった。
彼らは外の雨水を飲む。身体も濡れているだろう。
もしかしたら真っ先に危機を教えてくれるのはかえらではないか。
いや、そんな事は絶対にあってはならない。
祈りにも似た思いが脳裏をせわしく駆け巡った。

犠牲者はいつも弱き者だ。
ましてや人間以外の動物たちに何の罪があるか。無い。

どうか私達の愛猫や、外で暮らす猫達の健康が脅かされぬ様、
地球上のすべての罪無き生命がこれ以上汚されぬ様、
脅かされぬ様に・・・

2011/04/02

明日の風は

メディアは日常を取り戻しつつあり、お花見の季節と言うこともあり、
被災していない人達は普通の暮らしを取り戻す事が、支援の一つだと言われている。
私もそれはそうだと思う。地震に関しては。
ただ原発の問題はどうだろう。
それに関しては、国中の誰もが「被災者」ではないだろうかと思う。
そして、地球規模の汚染が広がってしまうのではないかと心配でたまらない。

今日、被曝労働によって大切な息子さんを亡くされたお母様のインタビューを見た。
毎日繰り返される「会見」よりもはるかに解り易く、
お母様は本当に苦労され勉強されたのだということが痛い程伝わってきた。

私はこんなに悲しい犠牲のもと、電気を湯水のように使い続けてきたのかと思うと、もうどうしてよいか解らなくなってくる。多分、このインタビューを見た大部分の方は、今までの無知と無関心への罪悪感に苛まれ、同じような落ちて行く感覚を受けただろうと思う。

これで普通の生活をとりもどそう、などと笑顔で化粧しようとする方が難しい。
少なくとも私にとっては。
いままで知らなかったが、改めて知ってしまった事がこの3週間、溢れる程に狭い脳みそに詰まっている。

ただちに影響は無いだろうが、事態は長期化が懸念され、
私達がこれから生きて行く道の風景に必ずつきまとう「深い闇」が産まれてしまった。
いや、産まれたというよりは、ずっと昔からあったものを、私達が気付いていなかっただけかもしれない。

日常は取り戻しつつあるし、そのように何かによって誘導されている気もする。
私にもやるべき日常がある。しかし、心の中はもう日常には戻れない。
あまりにも大きすぎる問題が突きつけられている。
3月11日、その時から、私の心象はがらりと変わってしまった。
今は繁華街のネオンを見るのも正直辛い。
暗闇の中で光る街灯には助けられているが、その灯りも悲しい命の灯に見えてくる。

インタビューに答えてくれたお母様は賢く、そして勇敢だった。
何より子を思う母親の強さが身にしみ、
20年たっても癒えぬ心の傷がどれほど深いものか想像を絶する。
最後に「子供たちの真っ白な命を薄汚れた色で染めたくない」とおっしゃっていた。
未来を見据えた重い言葉に聞こえた。

今こそ本当の事を私達は知るべきではないだろうか。
それを知る手だては残念ながらメジャーの域にはまだないが、
やがてそれが開示されていく事を切に思う。

2011/03/29

現実は刻々と変化している

今まで無関心であったこと。
湯水のように電気を使い、今も依存せざるを得ないことを悲しく思う。

今、まさに歴史の中に私達は佇んでいる。

一番怖いのは「無関心」だ。
すでにテレビは通常にシフトし、何事も無かったかのような番組も流れている。
そうして、また人々は忘れて行くのだろうか。

しかし、今は過去ではなく、現実そのものなのだ。
今この現実がずっと連続している。
そして、事態は刻々と変化している。
どうか、平和な生活が、子供たちに未来ある明日が戻ってきて欲しいと思う。

「無関心」でも「喉元すぎれば熱さを忘れる」でも良くない。
また「過剰反応」でも「敏感」でも「無知」でもいけない。

私達は難しいバランスの中に立たされているが、
今は理性と本能とを上手に組ませて双方の言い分に耳を傾けつつ、
刻々と変化する現実を静かに、細かく見極めて行くことが必要だと思う。

2011/03/26

多角形情報選

高校生の頃はブルーハーツが流行っていた。
私は彼らの歌の中でも何故か、「チェルノブイリ」を気に入っていた。

1986年に起こったチェルノブイリ原発事故もおぼろげだが覚えている。
小学生ながら噂に翻弄され「雨は恐いな」と恐怖心を抱いた気がする。


今もしかしたらとんでもない事が起こっているのではないかと固唾をのんでいる。
民報では軒並み報道が少なくなったので、
ネットなども活用し、他の情報を進んで得ている。
新聞も雑誌、できれば書籍も可能な限り読むようにしている。
あらゆる方角からあらゆる情報を私は欲している。
 それはやはり、歴史的な大惨事の傍観者ではいられないからだ。
自虐的だが進んで恐怖しているようにも感じるし、
様々な情報に翻弄され、疲弊もする。
しかし、本当に怖いのはこれら今起こっている事に無関心である事だと思う。
だから私はあらゆるメディアに釘付けで絵がとてもじゃないけど描けません・・・・・

また根本的に、マズローの欲求段階説を思い出すが、
衣食住と身の安全が確保されているのが前提条件で、欲求の最上階にあるのが自己実現なわけで、とてもそれどころでなくなってしまっているのは、
自分自身が本能的に危機を感じているのではないかとさえ思えてくる。
その不安を解消するために、私は正確な情報を欲してやまないのかもしれない。

今日は初めてホットスポットと「晩発障害」という言葉を初めて知った。
とくに後者の言葉の意味を知ると、
「直ちに影響が無い」という言葉がどういう含みを持っているかが垣間見れてしまう。

でも一方で核実験の多かった1970年代、
その頃の大気中にはかなりの放射能が漂っていたのでは・という意見も聞いた。
そしてその中で私は産まれ空気を吸いミルクを飲み野菜を食べて育ってきた。
と思うと、何となく、そうだよねえ・・・・・・と納得してしまった。

とにかく幽霊にしても、放射能にしても、幸か不幸か高いイマジネーションを持つ人間にとって
目に見えないものと言うのは、100倍にも1000倍にも恐怖感が増大してしまう。
今は「空想」よりも的確で早い情報、そちらのほうが優先させ、
その高いイメージ能力を活用する事が大事だと思う。

2011/03/22

私の頭では想像できない

辛い思いや悲しみはためておかずに吐露してしまうのが良いという。
できることなら、それをしっかりと受け止めてくれる相手が存在するといい。

毎日毎時の報道で胸がつまり、書かずにはいられない。
吐露する相手のいない私には書くことしか手立てがない。

手塩にかけて育てた野菜を捨てるのは断腸の思い・・・
大切に育ててきた家畜を置いて避難してきている・・・

こんな素朴で自然で大事な営みをしてきた人々にいったい何の罪があるというのだろう。

見えない悪魔に追い立てられて、想像を絶する思いで避難してきた人達、
それでも留まっている人達、留まる事しかできない人達の事を思うと、
スーパーなどでみかける一連の人々の行動は本当に悲しく思う。

何も出来ないし、何が出来るかも解らない。
募金をできるだけして、質素な暮らしでいることしかできない。
日々の報道の中には不透明な部分も多く、
今はネット等他のメディアで解消できるが、
背筋の凍る情報も多い。

となりで愛猫がニャアとなき、パソコンに両手を乗せて鼻で挨拶をしてきた。
今は彼女たちが私の精神の手綱だ。

2011/03/21

知ろうとすること

深夜の番組。
福島県が原子力と歩んできた経緯のドキュメントを短く放映していました。
素朴で人柄のよさそうな町の人々、お年寄りが出てきて、
インタビューに答えている。
原子力発電のおかげて雇用が生まれ、財政も潤った。
当時町の人の4分の1が、原子力発電従事者だったという。
バスで仕事に向かう姿が映し出される。
安全だと信じてこれまで歩んできたのに・・
現在被災された方々の声が胸に突き刺さる。

東京のバブル期の都心の映像がながれた。
まるで宝石をちりばめたかのような煌びやかな町。
眩しすぎる程のネオンや灯りは今もそんなに変わっていない気がする。
東京はその電力の殆どを東北などの原子力発電からまかなっているという。
福島の原発が人々の犠牲と共に生み続けてきた電力も、
私達東京に住む者たちの為のものだった。

今この状況に私は憤りを常に感じている。
今まで知ろうとしなかった自分に、そして事実や真実を知らない人もまだ大勢いるだろう。
 結局、大事な事は報道されないまま、
時が絶ち、また私達は元の闇の中にもどってしまうのではないだろうか。
それではいけない気がするし、この国にとっても危険だと思う。

気付けば見えてくる。見ようとすれば、どんどんと見えてくるものだ。
私が今まで何も考えずに湯水のように使ってきた電力。
それが何なのか自分の中ではっきりとしてきた以上は、
停電になってももう文句など微塵も言う気はないし、
小さな灯りの中で暮らすのも、私にとってはむしろその方が精神衛生上に良い。
心配なのは夏場だが、その対策も今のうちに情報を入手し知恵を絞ればなんとかなると思う。


宮城 仙台は私の大好きな祖母の出身地でもある。
だから震災関連の報道には常に耳を傾けている。
震災から11日たったが、テレビは通常番組が枠を取り戻してきた。
だが私の心は震災と原発に粉々にされて、日常にはもう当分戻れない気がする。
なので、本当の情報、事実、真実をあらゆるメディアから日々掘削している。
今回初めてツィッターを活用するようになった。
デマなどには注意が必要だが、
そえでも有意義な情報の宝箱の様に思う。
新聞にテレビ、ラジオ、ネット・・・・情報の選択肢はこの時代多く持っていたほうが良い。
 そして自分の判断で取捨選択していけばよいと思う。


今日は久々に雨が降り、寒さも増している。
被災地は大丈夫だろうか。
被災されている方々の健康は大丈夫だろうか。
また原発で命がけで作業されている方達は大丈夫だろうか。
無力すぎる私には何も出来ないが、
せめて節電、質素な生活、そして現実と真実を知る為のアンテナはいつまでも頭のてっぺんに立て、
知る事見る事を恐れないよう、踏ん張りたいと思う。

2011/03/19

節電の日々

私の住む町は計画停電に1度も入った事がありません。
埼玉に住む親戚は一日に2回も停電したといっていました。
それを聞くと、さらに不公平感がましたといいますか、
これはもっと節電しないと!と本当に最小限の電気で日夜頑張っています。
そして、いままでどれだけ電気を無駄使いしていたかと痛感。反省。
我が猫達には悪いのですが、
大好きなホットカーペットもしばらくお休みです。
そうしたらば、
いつのまにか仲良く?一つのベットで寝ていました・・・
 寒かったんだね。でも一緒なら温かいよね!!

絵的に、桶に入ったニ匹の猫がどんぶらこ~と漂流している様に見えてしまいます。

今回、本当に生活を見直すことができました。
そして、その奥にあるもっと重大な問題、
今までこんなにも恐ろしい原子力発電に頼りきり、
その真の姿を見ようともしなかった自分自身に
大きな一石を投じる事となりました。


早速、図書館に行って原発関係の本を読みあさっています。
そこで「被曝治療83日間の記録」という本は本当に壮絶でした。
読んでいて非常に切なく、辛かった。
被曝というけれど、ではそれはいったいどういうことなのか、
尊い二人の生と死の記録が、本当の事を語ってくれています。

今まで、何も知らず知ろうともしなかった自分が本当に情けない。
そして、今まさにその被曝覚悟で必死に作業されている方達がいます。

目先の事に混乱して買占めしている場合では無いように思います。

この先、この国はどこへ向かおうとしているのでしょうか・・
安らかな猫達の寝顔を見ながら、気が遠くなっていく感じがしています。

2011/03/13

2011.3.11

2時46分、もちこたえるかとおもいきや、どんどん酷くなる。
私の部屋の物が散乱し始め、
猫達の目が野生に戻った!

2匹でまるで申し合わせていたかのように、
一目散に押し入れの中へ・・・


その後の様子・・
怖かったね・というように、お互いに寄り添っています。

それから二日経ちましたが、
まだまだ余震が続く。
そのたびに。1人+2匹はおどおどしています。


日本は今、大変な事になっている。
地震、原発・・・
被災者の方々の事を思うと言葉が見つからない。

2011/02/21

くるみ

我が家に12月末に来たくるみちゃん。
くるみのために奮発して購入したキャットタワーを気に入ってくれて、
一番上がお気に入り。
瞳をクリクリ動かして真下を悠々と見ています。
ブログの更新を怠っていた間にすっかり大人の雰囲気になりました。
先住のわさびとはまた違った美猫さんです。

耳が大きくてすらっとしていて鼻が高いとこがわさびと真逆です。

私としてはどちらも可愛いし、愛くるしい。

くるみは今5か月ちょっと。体重はもう2.4キロあります。
時々のわさびとのとっくみあいのじゃれ合いがいささか心配になりますが・・・
ゆっくりと仲良くなってほしいものです。

2011/01/06

写真集「捨猫」

荒木経惟氏の「チロ 愛死」は、本屋で心臓をぐっと掴まれてから、
私の本棚に大切な一冊として置いてあります。
本当ならば、たった4ヶ月で亡くなったあずきも、
枯れるまで生きてほしかったし、
わさびや、新しく家族となれたくるみも、
よぼよぼになって、もう私たちの事がわからなくなってしまうとしても、
生きて生き続けて欲しいと思い、それが私たちの望みです。


先日、また心臓を鷲づかみにされました。
「捨猫」という写真集です。
我が家の猫が通う病院に置いてあり、私は待合室で衝撃を受け、
しばらく思考が停止してしまいました。

世の中に、猫の可愛らしさや愛くるしさを絶えず放出し、
その魅力を伝えようとする写真集は星の数ほどあります。
しかし、ある「真実」を教えてくれる本はそうそう出会えません。
そういう意味で、「チロ愛死」は私の中で、
私が知るべき「現実」を露わにしてくれていた1冊ゆえに、
私の本棚に並ぶ本の中でも大事な1冊となっています。
しかし、このチロちゃんは、大切な家族として一生を終える事の出来た
ある意味、数少ない幸運な猫ちゃんだったと思います。
人間にただ好奇心や興味本位だけで飼われ、
飽きた等というような、身勝手で理不尽な理由で捨てられて、
その後の過酷な運命を必死で生き、あげく、
のたれ死んでいく多くの命の「現実」と「真実」が「捨猫」という写真集には
刻銘に、痛烈に、しかし愛を持って映し出されていました。

「臭いものには蓋をする」事に、私たちは慣れて行き、
見なくてもいいものは見ないに越したことはない中で平然と生きている。
斯く言う私自身も・・
しかし、あずきが亡くなり、痩せて小さくなった亡骸を抱いた時、
この子の兄弟の事、母親の事をふと考えました。
もしこの子と同じ病に犯されていたら、
兄弟たち子猫はきっと生きてはいけないだろう。
そうでなくても、外には危険がいっぱいある。
車や病気、動物虐待・・・
私は縁があってあずきと出会えたが、
それでもたった一つの命さえ救う事が出来なかった・・・

命の重みをあずきが自らの命と引き換えに教えてくれました。
その教えは、私には抱えきれないぐらい大きくて神々しいものです。
そして彼は、自分達のようなか弱くて小さな命が、
この世界でどのような扱いを受けているのかも訴えかけてきたように思えてなりません。

今の微力な私には、真実を「見て」「知る」ことしかできませんが、
それでも、今後知らないで生きていくのと、知って生きていくのでは、
全く人生の重みが違うと思います。
私の力で今、救え愛していけるのは、わさびとくるみだけです。
しかし彼女たちの背後にある無数の無念な魂に、
私は悲痛な感情を抱かずには居られません。
人間の欲と傲慢さの犠牲となった無垢な命に、
私には掛ける言葉も探せません・・・