Kyon {Silence Of Monochrome}

Kyon {Silence Of Monochrome}
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2012/10/24

「その時」を思う。

日増しに寒くなってくる。
猫達とより密接になる季節になった。
寒いと、先住猫のわさびは布団にもぐりこんでくる。
私の腕を枕にしてウトウトしているところは、可愛いというのを超えている。
妹分のくるみも、気が向けば布団にもぐってくる。
この子もまた、私の腕をまくらにして眼を細めていた。
なんという、至福の時間。

猫といるだけで、幸せを感じる。


昨今、SNSの爆発的な人気で、「つながり依存」ともネーミングされた問題が顕在化している現在だが、
猫達のおかげで、以前から風前の灯火だった人とのつながりは、
より一層希薄なものとなってしまった。
が、もともと孤独な性質。この期に及んで言及するほどでもない。
それよりも、猫との時間・・・
幸せと共に、不安でもある、この不思議な空間。

不安というのは、彼女達を失うということについてである。

家で暮らす猫達の寿命は、現在ではおよそ20年生きる子もいるという。
当然、多くの飼い主達は皆、可愛くてしかたのない我が子と20年以上暮らすつもりでいるだろう。
20年生きるという根拠も確証も何もないが、そう信じ込んでいる、私もその一人である。

しかし、されど、20年・・・
私が50にさしかかる頃、彼女たちも老猫となり、様々な問題と向き合いながら、
いずれは私より先に死んでしまうのだろう。
猫達が自分より先に老いて死ぬのは当たり前といえばそうなのだが、
それが受け入れられず、さみしくて不安でたまらないことがある。

生後4ヶ月で失った仔猫のあずき。
アサリからぴょんと出てきて、6ヶ月をともにすごした、カクレガニのピノ。

彼らを失った時の痛み、悲しみ、苦しみは今でも時折、
フラッシュバックしてくる。
そして、この手でもう一度抱きしめたい、会いたい・と強く思い、
叶わぬ願いに、また涙する。
それは、時間と共に、さらに濃い痕跡となって、私の脳裏に刻まれていくようだ。

我が猫の小さな背中に耳を当てると、
トットットットっと、心臓のせわしない鼓動が聞こえる。
そんなに生き急がないでおくれ・と思う。

猫達の誕生日が来る度に、会えてよかった・生まれてくれてありがとう、
という思いと共に、
もう年を重ねないでおくれ・と思う。

私よりも先に逝かないで、
ずっとそばにいておくれ・・と思う。

人は歳をとっていくにつれ、風貌も少しずつ変っていき、
生き方や思想、人間関係など様々なものを変化させ、
紆余曲折ながらも、人生をじっくりと円熟させていく。

しかし猫達は、ライフスタイルを大きく変化させることもなく、
太陽を追いかけるように日向ぼっこをしながら、夜は狩ムードで気の向くまま遊んだりというような、基本的ルーティンワークを保ちながら、
その可愛いままの姿で、幼い子供のような愛らしい無邪気なままの魂で、
突然、旅立ってしまう。
だから、この手からこぼれおちてしまう瞬間が、
想像以上に痛ましく、悲しく、切ないのだ。

生きているうちから、このように、死のことばかり、失うことばかり考えているのは、
他の生き物からしたらそうとう、滑稽だろう。
猫達に自由と余裕を感じるのは、そうした影を感じないからだろう。


なにより一番恐れているのは、彼女達を失うことにより、
傷つく「自分自身」ということには気づいているし、それはなんとも情けないことだと思う。

しかし、そうして不安にかられ、恐れる程に、
愛するものを失うということは、辛く苦しいものだというのも、真実だ。


光が差すところに、必ず影はできる。
生きるということは、死を想うこと。
死を想うことで、生きることに真剣になれるということもある。

愛する以上は、「その時」と、向き合わなければいけない。
そして、「その時」後悔しないために、今、愛すべきものを精一杯、大切にすることだと思う。

そう考えると、「今」という時間と空間、
1秒1秒流れる時の音の重みが、一層増してくるようだ。












2012/10/05

食は「命」、動物達は同じ「命」。

朝から、とある二つの報道に、ずっと心が囚われている。

一つは「食品ロス」の問題。
その量、年間500から800万トン。
米の年間生産量に匹敵するという。
賞味期限切れ等で廃棄される食品は、
加工品だけでも年間1200億円にのぼるのだとか。
食品ロスには「流通」「生産地」「消費者」三つの側面がある。
一番多いのは「消費者ロス」ではないかと経済学者はいう。
私達消費者が食べずに廃棄する分が大変深刻な量だということだ。
無駄な買い物はしていないか、冷蔵庫の中をいつも把握できているだろうか・・・
チェックポイントは沢山あると思うが、
ここで大事なのは、日々の食事に関して、
「素材から調理する」というのが大切ではないかと思う。
何が使われているのかわからない加工品は、
「生命」の存在を感じにくい。
毎日食事の際に言う「いただきます」は、
「大切な、尊い命を頂戴します。ありがとうございます。」
という気持ちの表れだと聞いたことがある。
そのとおりだと思う。
が、できあいの物や、加工品ばかりに頼る食卓は、その「命」が見えにくく、
「いただきます」の言葉も、そういう食事からは、ただの記号と化してしまうだろう。
食は身体を作るもの、命に繋がるもの、食は命そのものだ・という意識も、
そこでは芽生えにくいだろう。
そして「食」そのものが、だんだんと蔑ろに、
ぞんざいにされていってしまうのかもしれない。
それはまわりまわって、命の軽視に繋がりはしないだろうか?


そしてもう一つ・・・
動物の殺処分問題。
犬猫合わせて、この国では年間27万頭以上が殺されていくという。
その中には、飼い主の都合や、どうみてもワガママとしか言いようがない理由で、
毎日「動物愛護センター」に、持ち込まれていく。

とある老女のケースが紹介された。
今住んでいる場所では、規則で猫が飼えない・という。
そこで、泣く泣く3匹の、手塩をかけて育てた猫達を持ってきた。
その辺に放るわけにもいかず、どうしようもなかったという。
「この歳の猫は、結局、殺されることになるんですよ」と職員は言う。
持ち込む飼い主たちは何処かで『愛護』という言葉に救いを求めているのだろう。
その言葉により、自分を弁護させようとしているのかもしれない。
しかしそう名付いているどのセンターも、結局は、
全ての猫や犬を終生面倒見てくれるわけではなく、
その殆どが、ガスによって殺されていくのだ。

手塩にかけた猫達が「殺される」と聞かされても、
老女の気持ちは変わらないし、変れない。
そこで職員の最後の言葉が突き刺さった。
「この猫の不幸は、飼えないとわかっていた、その場所で飼われた時から、
始まっていたのかもしれませんね・・・」
厳しい言葉だが、長年飼い主達のありとあらゆる無謀で
無常な振る舞いを多く見てきた方だからこそ、
絞りだされた言葉だったのだろう。
非常に重く、悲痛な響きだった。

その住宅に住んでいたなら、きっと規則も前から知っていたはずでしょう、なのになぜ・・・?
そういう問いも職員からは投げ掛けられていた。
老女の答えは
「ただただ、可愛かった」と・・・

しかし、猫達の運命は、その結末はどうなのだろう?

猫達は、まだ幼い仔猫だったその時、
救われたことを幸せに感じていたことだろう。
やせ細っていたノミだらけの身体を癒してもらい、可愛がってもらい、
お腹一杯食べさせてくれたことを・・・
沢山、遊んでくれたことを・・・

最後に、老女は涙声で、
「今でも未練がある。沢山“遊んでもらった”から・・・」
と手を合わせていた。

 複雑な気持ちになるケースだった。
例えば病気で飼えなくなった、飼い主自身が亡くなってしまった・など、
どうしてもままならないケースもある。
この老女のケースは、老女の立場になって考えることも出来る。
1人身で寂しかったのかもしれない。
“遊んでくれた”という表現に、猫達への敬愛が感じられないこともない。
規則に従わなければ、老女が追いだされ路頭に迷っていたのかもしれない・・・
あの時、仔猫達を面倒見なければ、仔猫達はもっと短命だったのかもしれない・・・

だけど結局、猫達は、「人間の都合」で殺されていく。
生かすも殺すも人間次第、ということになっている、彼らの命・・・
そういう構図自体が許せないし、あまりにも残酷な現実だと思う。


「食品ロス」と「殺処分」、この二つの問題で、共通いているのは、
どちらも命を蔑ろにしているということ。
命を軽視している、または命の軽視に繋がっているということ。
自然や生命すら支配できるという人間のエゴと、
大量生産大量消費・経済利益優先社会の深い闇が根底にある。


「命」に繋がる・・・「命」そのものである食も、我々と同じ「命」を宿す動物達も、
そのシステムの中では商品でしかなく、
利益を生まなければ、不必要とされ、捨て去られていく。

捨てることに慣れてしまっている私達は、
捨てているその食品、その動物達に、
自分と同じ「命」があるということすら、忘れてしまっている。
いや、忘却した方が、心に痛みも感じることがなく、
その方が楽だということを本能的に知っているからこそ、
成るべくして、そうなったということかもしれない。

そうして、人の人による、「人の使い捨て社会」も現実に起こっている。
「戦争」は、その最たるものだと感じる。


人は「とりあえず生きるために、扱いの難しい事は、本能的・生理的に通常の意識から離れた、
遠い倉庫のような場所に、仮置きする」という。
簡潔に言えば、面倒なことは忘れ去る術を持っているということだろうか。
それは必然的な生活の術というか、
それがあるから、日常が普通に営めるということもいえるだろうが、
その影、その闇=忘れ去られた現実のなんと数が多く、悲しい実状の多いことか・・・
それらに臭いものにフタをするように生きている私達は、
私達の社会は、はたして健全といえるのだろうか?

私はそう思えない。
それらの歪は必ず存在し、そうした社会の闇は、
見えなくても隠されていても、心の隅に追いやられていても、
私達の心身の健康に、少なからず影響しているだろうと思う。

今が幸せ・というその時間が、
毎日の異常な大量食品ロスや、動物達の命と引き換えに成り立っているのだとしたら、
果たして本当に、幸せだろうか?
本当に、幸せで平和な社会なのだろうか?

私にはやはり、そうは思えない。