2015/12/16

死が教えてくれたもの

無農薬の野菜を宅配で頂いている。
それらには時々「贈り物」が付いてくる。
これまで、小松菜やレタスにくっついてきたカタツムリは、2匹ともすくすくと育ってきた。
一匹にいたっては、来月で2年目を迎える。

この前は、セロリの葉っぱに、同じような鮮やかな緑色の青虫が付いてきた。

私は蝶が好きで、機会があれば育ててみたいと思っていた。
なので、早速、その青虫とセロリの葉を虫篭に入れた。

その後、この虫ははたして何者なのか気になり始めてきた。

気になると止まらない。
早速ネットで検索をすると、この子は蝶ではなく、「コナガ」という蛾の一種であることが分かった。
農家の人々にとっては「重要害虫」だそうだ。

可愛らしいモンシロチョウをイメージしていた私は、ちょっと怖気ずいてしまった。
「害虫」と呼ばれ、しかも、見た目も可愛いというわけではない・・・

しかし、一回コミットしてしまったから、このまま、ゴミ箱というのはまずありえない。
外の庭に放ってしまうにも、心がためらう。

ふと、ケースをみると、セロリの葉をちょこちょこ食べながら、可愛らしいフンをしているではないか。その時にふと、青虫に愛おしさを感じた。

猫の時もカタツムリの時もそうだったが、食し排泄する姿を見ると、心にじわっとあたたかいものが走るのは、生きるものにとって食べることと排泄することがいかに重要なことであるか、深い本能の域で感じている生命への感嘆として、染み出でてくるものなのだろうと思う。
私は子を持ったことがないが、人間の子であっても、それは同じ感覚ではないだろうか。

しかし、成虫まで育てるか、「害虫」と呼ばれるものを成虫まで育てた暁にはどうしたらよいものか、気持ちが右往左往し定まらないなか、セロリの葉と青虫をケースに入れたまま、数日が経った。


そして、昨晩、何気なく青虫のケースをみると、黒いものが見えた。最初はセロリの葉が枯れて小さくなっているのだろうと思っていたが、
よくよく見ると、それはあの青虫の変わり果てた姿であった。

それが理解できた瞬間、私の胸はきゅうっと締め付けられ、罪悪感の波がわぁっと押し寄せた。


地球上に生まれてきた命に無駄なものはなく、それぞれが各々の役目を背負い、生命の輪の中で意味のある存在として生きているという。


このコナガを誰が「害虫」としたか。
それは人間の都合であり、自然界ではその様な存在ではなく、むしろ彼らは、その生命の営みの中で大切な一部であるのだろうと思う。

またこの「害」という認識について、見る立ち位置でも異なってくるだろう。
見方を変えれば、自然にとって、人間の存在そのものが「害」となっているということもありうる。
ニワトリや豚、牛からみれば、人はどのような存在だろうか・・


見た目の美しさ、そういった基準も、人間と自然の間ではかなりの乖離があり、
可愛いとかそうでないといったものの見方は、私自身の美意識による偏った見方=「偏見」そのものである。

これら偏見が、もしかしたら、この子の命をうばったのかもしれない、という強い罪悪感と羞恥心が、私の身体を貫いたように感じた。


そこで、ふと考えた。
今はネット検索で様々なことを調べられるが、
知らないでよいことは、あえて知らないでいた方が、もしかしたらうまくいくこともあるのではないだろうか。
正体を知らないでいれば、このセロリの葉についてきた青虫がどのような成虫になるのか、楽しみながら一緒に暮らせることも可能であったかもしれない。

人が「知ること」については、気になる報道もある。

昨今、出生前診断の話題が盛んに取り上げられてきているが、
あるニュースでは「染色体異常の疑いがある陽性と判定され、113人が羊水検査などで確定。うち97%に当たる110人が人工妊娠中絶を選んだ」とあった。(http://news.yahoo.co.jp/pickup/6121243)
この問題については様々な議論があり、私の知識自体が浅くて深くは語れない。
ただ、人の倫理としてどうなのだろうとか、命の選別になりはしないかなどと、思うところは沢山ある。

人の知識欲がいかに強いか、そしてそれが、人の行動や選択に様々なエフェクトを及ぼしている。
それが良いことなのか、どうなのか、私にはわからない。
だが、青虫については、知らない方が良かったと思う。

人は希望を持てば、その方向に自らを導く力がある。

「予言の自己成就」とも呼ばれる心理現象だが、思ったように物事が進むというのは、良くも悪くも、自分の心が方向を決めて、行動に影響を及ぼしているということがある。

私は、青虫の「接し方」や「育て方」を、「害虫」というネガティブなワードと、自ら調べて知り得た情報に基づき自分の内なる偏見を賦活化させて、無意識のうちに決めていたともいえる。
それは、わが愛猫やカタツムリたちとは、見えにくいが異質のものであっただろう。
結果的に、ひとつの命の消失を導いてしまったと言わざるを得ない。

ここでも、「環境が合わなかったから」とか、「季節がわるかったのだ」などと、自分の中で自己弁護の言葉が生まれる。傷つきをガードしようとする一種の心的防衛機制であると思うが、
罪悪感と消失感が、それも空しくかき消していく。心に嘘はつけない。


心の中で、何度も合掌した。そして「ごめんね」と謝罪した。


知りすぎることの弊害と、無意識化に蠢き存在する、自分の中のおぞましい「偏見」・・
これらが行動を抑制しコントロールまでしているということの恐ろしさを、この小さな命は教えてくれた。

これがもし、国レベルで起こっておこったら、どうだろう。
過去、ヒトラーが行った大虐殺は、その最たるものではなかったか。

今の我が国では、人間として生きる権利が、国民にしっかりと担保されているのだろうか。
それは今後、崩壊するということは決して無いと言えるのだろうか。


かつて「偏見」について学んだこともあったが、それが生かされていないことに改めて気づく。

偏見、言い換えればステレオタイプとは、人に当然のごとく存在するものだし、この情報化社会において、情報の取捨選択や、状況を瞬時に把握する為には必要な「知識」ともいえる。

大切なのは、自分がどのような「偏見」を持っているかということに気づき、常に俯瞰的であるということ。
その存在と質に自覚的であれば、時に感情に突き動かされそうになった時も、
一呼吸おいて立ち止り、判断や行動を客観的に見つめ、少し冷静に対処できるのではないだろうか。

テレビ、新聞、街に溢れる広告やヴィジュアル・・様々なメディアで流される情報も、
人に偏見を形成し、活性化させる要素を多いに持つ。
こうした力が我々の潜在化で作用しているということも、ある程度理解しておかねばならない。
「批判的な態度で物事を見る」大切さが言われる所以は、人の心がいかに脆く操作されやすいかということにあるのだろう。


あの美しい青虫が再確認させてくれたことは、
表面的な知識や感情で判断するのではなく、心の奥深いところで感じ、見ることの大切さ。

最初に出合った時の喜びと、命への賛歌を忘れずに、
そして、この地上に生きている命は、猫であっても人であっても、青虫であっても、
全て「同じ命」であるということを、
文字通り、命を通して、教えてくれた。


私は、野菜についてきたカタツムリたちを、いつも「幸運の使者」と呼んできたが、

今後の人生において、大切な気づきをくれたこの青虫も、
私にとっては「幸運の使者」そのものであった。


ありがとう。