Kyon {Silence Of Monochrome}

Kyon {Silence Of Monochrome}
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2010/07/14

夏の暑さ 冬の寒さ

昨日は肌寒かったのに、今日はまたぐんと気温が高い。
夏は暑さのせいか、集中力が落ちるので、
絵を描くペースが四季の中でもガクリと落ちます。
下書きしてある絵は沢山あって、
早く「私」を完成させろと言っているようで、
なんとなく焦ります。
絵を描く時も扇風機だけなので、日中はもっての外、
下手をすると汗で紙が湿ってしまうので大変です。

夏の酷暑の日に、ふと冬の寒さを想像してみますが、
うまく思い出せません。
寒くて寒くて震えるほどの日を何回も重ねてきているはずなのに、
どんなんだったっけ、という感じです。
逆に冬の極寒の日に、夏の暑さを思い出そうとしても同じです。
都合よく忘れてしまっている感すらします。

人の人生もこれと似ていて、本当に辛い時はその辛さの中で苦しみながら、
幸せだった時をを想像するのが難しく、
幸せな時も、それにどっぷりつかってしまっている時は、
他の苦労や悲しみもなんとなく忘れてしまっているように思います。
光や影は交互に私達を包み、巻き込み、翻弄しながら、
人生においての、夏の酷暑の日でも冬の極寒の日でも、
それぞれ生き抜けるような知恵と力を
私達に与えてくれているような気がします。

光の中で影を思い、影の中で光を想像する、そのちょっとした思考の練習が、
光や影の渦に溺れない為に必要なことかもしれません。

2010/07/10

内猫 外猫 隔てなく

夏は苦手です。少々夏バテ気味です。
クーラーによる外気の差がとても辛く、体力を奪われてしまいます。
家ではクーラーを使う時は設定温度は28℃、
ほとんどは扇風機で事足りてしまいます。
「夏」そのものは、季節の中でも一番青空がすがすがしいし、
日暮れ時の散歩も情緒があって好きだし、
鈴虫やヒグラシの音色が心地よくて好きなのですが、
ビルやショップ、電車などの冷えすぎた空間と外との差が
夏の身体を怠くする大きな要因に感じます。

夏になると、ワサビも定番の「おなかみせ」スタイルで、
大股を開きながら、ドベ~としていることが多くなります。
毛皮を着ているので、ちょっとの暑さでも大変です。
この時期は熱中症にも十分気をつけなければなりません。
以前、初めてワサビが来たその夏に、熱中症をおこし、
2日間ほど押入れから出てこなくなってしまったことがあり、
食事もとらず、だるそうにしているのを見て、焦りました。
それから、本当に暑い日には、冷房をドライにしてタイマーでかけておきます。
過保護と言われますが、その時のトラウマがあるので、
夏はワサビと私にとって要注意の季節です。

私の家の周りには野良猫も多いのですが、
外の猫たちにとっても、夏は大変な季節です。
先日は、酷く年老いて弱った白い猫がうつろな目を私に向けてきました。
思わずその汚さに「ぎょっ」としてしまったのですが、
その猫は飲み水を求めて、さ迷って家にたどり着いた様子でした。
私がためらっていると、猫好きの父が「水がほしいんだろう」と
桶に水を汲んで猫にさしだそうとすると、
猫はフラフラと弱々しく足を引きずって逃げてしまいました。

その時、私の胸は自己嫌悪感に苛まれ、きりきりと痛みました。

猫の世界は私の考えているよりも、
ずっとずっとシビアです。
外猫の現実は、飲み水と餌にありつけなければ、
この暑さの中で体力を消耗し、
もし病んでいたならば、真っ逆さまに死の淵へ落ちてしまう。
そうでなくても、他の猫との闘争や感染症、交通事故や、
悲しくも人間による虐待という恐怖も待っている。
明日は生きているかどうか分からない現実の中で、
外猫の眼は、家猫のそれよりもずっと厳しく苦悩に満ちた光を放っています。
その老いた白猫は、そのような厳しい現実を
その眼差しによって訴えていました。
それでもジタバタせずに、大騒ぎせずに、
運命を静かに享受しているようにも見えました。

ワサビも3年前にボランティアの方から譲り受けた野良猫です。
錆柄というのは、その柄の特性(あまり見た目に美しくない)からなのでしょうか、
飼われている猫は多くないようです。
生まれる数がもともと少ないのか、それとも引き取られる件数が少ないのか・・
私は要因が前者であることを祈ります。

外猫の過酷な現状を見る度に、
「ワサビ、おまえは幸せかい?」と問いかけます。
窓から外を眺めているワサビは静かに尻尾を振りますが、
真意はわかりません。
ある意味、親猫と引き離し、慣れた自然界から勝手に持ち出したのは、
私たちであり、彼女が望んだことではありません。
でも、外猫の過酷な生活とそれによって平均寿命はわずか3年というデータを聞くと、
家猫は長くて20年以上も生きることができますから、
その間、たっぷり愛情をそそいで、美味しい物を沢山食べてもらい、
快適な空間でゆっくりくつろいでもらえたら、それが彼女の幸せにつながってくれればいいと、飼い主の誰もが思うのではないでしょうか。
そして、それが小さな命を守るために私たちの出来ることなのです。

外の猫と家の猫、命の重さは同じなのに、
そこには「寿命」という格差がある。
それを生み出したのは私たちなのかもしれません。
だけど、猫たちは不平不満を言わずに静かに生きている。
お互い必要以上は争うこともなく、羨むこともなく、妬むことなく生きている。
私自身の小ささと醜さを浮き彫りにしてくれた、
そして、どんな命も重さは同じだという大事なことを教えてくれたあの老いた白猫は
もう亡くなっているかもしれません。
せめてあの時優しい言葉をかけてあげればよかった・・今でも心が痛みます。
それから、年老いた弱った猫を見かけると
「がんばれ。がんばって生きろよ」と心の中で声をかけています。
ぼろぼろになっても生き抜こうとする、その姿に敬意と尊敬の念をこめて。

2010/06/23

映画の話「愛のむきだし」

最近観た映画の話です。
「愛のむきだし」という4時間の大作を観ました。
それまで気にはなっていたのですが、
考え深いタイトルとその長さにずっと躊躇していました。
(これは腰を据えて見ないといけない)

しかし、見始めると同時に、
タイトルの割に意外とポップでテンポも絶妙な感じに進み、
人間の「心」の深部にまで及ぶ題材を扱っているのに解り易く、
しかし濃厚に細密に展開していく、その物語にぐんぐん引き込まれ、
4時間という長さは私は感じませんでした。

人の人格がどのように不可抗力の中で歪み、
妥協と許容の狭間で変容していくのかを痛烈に感じ、
このようなコンプレックスは、
種類は違くても根っこの部分で同じようなものが、
誰の心の中にでもあるのではないかと思うと、
人は本当に深いものだし、大変な中で生きているのだと思いました。

また人が「愛」によってどのように救済されうるのかも、
切なく苦しい程に表現されていて、
人(愛)によって人は傷つくけれども、
また人(愛)によって救われるという、、
一見単純なセオリーのようだけれど、
人間の人生の「元型」のような、
かけがえのない大事な部分を再確認できたように思います。

最後の30分の間に、化粧が全部落ちる程に一気に号泣してしまいましたが、
それは悲しいとか切ないとか、「感動した」などというような解り易い感情ではなく、
もっと心の深層のさらに奥深い所が共鳴して、
あふれ出てきたようなものに感じました。
それは透明で甘美な涙とは質の違う、
もっとどろどろとしたもので、
映画の内容から借りれば、「血の涙」のようなものだったかもしれません。

2010/06/22

宝石

 





家の近くには、アゲハ蝶の好む柑橘系の植物があります。
そこに、毎年蝶が卵を産みつけて行くのですが、
雨に流されないよう、ちゃんと葉の裏側に産みつけるので、感心します。
若い蝶が羽根を閉じたり開いたりして乾かしていました。
きっと産まれたばかりでしょう。
個人的に蝶は大好きなので、
その美しさにすっかり見入ってしまいました。



緑色のコロコロした姿の幼虫は可愛いのですが、
ややグロテスクな感もあり、
やはりこの美しさへの変貌には、
強い憧れを抱きます。
 
雨の日でも、風の強い日でも必死で枝に掴まりながら、
頑張って生きようとしている幼虫を見て、
「いつかあのような美しい蝶になって羽ばたいていけ」
と思います。
それは自分自身にも言い聞かせているような感じもします。

蛹の日々は長い。
それは人生の殆どの部分かもしれない。

しかし、せめて人生が終わる頃には、
蝶のような羽根で羽ばたいてみたい。
そう思います。



2010/06/09

雨の季節

雨はじとじとして嫌だという声は多いし、
腰痛および頭痛もちの私としても、
雨の日は痛みが出やすいので、
「雨よ、ようこそ!」とはならないのが本音です。
が、猫のワサビは、どうやら雨がお気に入りな様子。
朝からシトシト降りしきる雨を、窓から飽きずに眺めています。
多分、屋根にあたる雨粒が奏でる、雨音を聞いているのだと思います。
そういえば、何かで聞いたことがあるのですが、
絶対音感のある人では、雨音が様々なメロディーに聞こえ、
それがとてもうるさく感じる人もいるとか。
猫の聴覚も人間よりはるかに敏感といいますから、
どんな音に聞こえているのか、不思議です。

個人的に、上記の理由は抜きにして、
雨は好きでも嫌いでもありません。
なので、「雨か、嫌だなあ」と積極的に思わないようにしています。
「雨が降れば、植木に水をやらなくてすむわ」とか、
「肌が潤っていいわ」など、
前向きに捉えるようにしています。
これは、他の物事にも応用できて、
よくある話ですが、コップと水に例えると、
なみなみと注いだ水が、コップの3分の1になった時、
「もう3分の1しかない」
と思うよりは、
「まだ3分の1あるぞ」
と思うほうが気が楽になる、と同じ原理です。

他者を変えることはできないが、
自分自身、特に内面は、いかようにも変えることが出来る。

私には幸い「ワサビ」という良い心の師がいます。
「雨音は気持ちいいにゃ~」
そんな感じで、今日も朝早く、窓から外を眺めております。