小学生の頃、ファミコンが流行りました。
我が家にもいつしかファミコンがきて、最初は夢中になったものです。
ボンバーマンや、マリオブラザーズ・・・
しかし、私が違和感を感じ始めるのも、そう遅くはありませんでした。
友人同士で集まると、早速、ファミコン。
夢中で、皆で画面にくぎ付けになって、無言のまま・・
この「無言」が私の最初の気づきでした。
楽しいんだけど、何か、満たされていない。
会話したいのだけど、皆画面に夢中だから、話しかけても会話にならない。
時にはゲームの話になるけど、
それはあくまでゲームの話であって、
「その人」の話ではなかった。
「その人」の話・・例えば、どんな食べ物が好き、とか、
最近どんな本を読んで感動した、とか、
学校の勉強でここが悩みだ、とか、
先生の話や、家族の話、好きな人の話・・・
いわゆる生活に寄り添った、普通の話をしたかったのに、
ファミコンがきてからは、無言か「ゲーム」の話ばかり・・・
やがて、私はその場についていけなくなってしまいました。
何が違和感なのか、その時は解りませんでした。
仲が悪くなったわけでもなかったので、
自ら孤立を選択したとはいえ、とても寂しかったのを覚えています。
図書館に行っては、本を読む毎日。
ちょうどその頃、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に出会い、
ジョバンニの心象と自分の心象が強く重なったのを覚えています。
私は、ファミコン以前と以後を経験した者として、
それを境に、子供同士のコミュニケーションのあり方が
徐々に、しかし確実に変わっていったのではないかと思っています。
対し、今でもゲーム好きの主人には真っ向から反論されます。
「ゲームをやっている間も、ゲームについて楽しく話していたよ!」と。
たんに、私がゲームと相性が悪かっただけなのかもしれません。
ファミコンは、子供たちにコンピューターへの親和性ももたらしました。
だから、このネット社会も私達は違和感なく遊泳できるのだと思います。
しかし、私はあの時の「孤独感」を忘れられません。
会話したい事は沢山ありました。
面と向かって、ただ、日常の風景を話したかっただけなのです。
それが、皆とずれてしまったということは、
それ以後の子供達の感性や、思考、コミュニケーション能力のあり方について、
ある意味、示唆的ではなかったか・とも思うのです。