Kyon {Silence Of Monochrome}

Kyon {Silence Of Monochrome}
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2011/06/21

ファミコン 以前と以後

小学生の頃、ファミコンが流行りました。
我が家にもいつしかファミコンがきて、最初は夢中になったものです。
ボンバーマンや、マリオブラザーズ・・・

しかし、私が違和感を感じ始めるのも、そう遅くはありませんでした。
友人同士で集まると、早速、ファミコン。
夢中で、皆で画面にくぎ付けになって、無言のまま・・

この「無言」が私の最初の気づきでした。
楽しいんだけど、何か、満たされていない。
会話したいのだけど、皆画面に夢中だから、話しかけても会話にならない。

時にはゲームの話になるけど、
それはあくまでゲームの話であって、
「その人」の話ではなかった。

「その人」の話・・例えば、どんな食べ物が好き、とか、
最近どんな本を読んで感動した、とか、
学校の勉強でここが悩みだ、とか、
先生の話や、家族の話、好きな人の話・・・

いわゆる生活に寄り添った、普通の話をしたかったのに、
ファミコンがきてからは、無言か「ゲーム」の話ばかり・・・
やがて、私はその場についていけなくなってしまいました。

何が違和感なのか、その時は解りませんでした。
仲が悪くなったわけでもなかったので、
自ら孤立を選択したとはいえ、とても寂しかったのを覚えています。
図書館に行っては、本を読む毎日。
ちょうどその頃、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に出会い、
ジョバンニの心象と自分の心象が強く重なったのを覚えています。

私は、ファミコン以前と以後を経験した者として、
それを境に、子供同士のコミュニケーションのあり方が
徐々に、しかし確実に変わっていったのではないかと思っています。

対し、今でもゲーム好きの主人には真っ向から反論されます。
「ゲームをやっている間も、ゲームについて楽しく話していたよ!」と。
たんに、私がゲームと相性が悪かっただけなのかもしれません。
ファミコンは、子供たちにコンピューターへの親和性ももたらしました。
だから、このネット社会も私達は違和感なく遊泳できるのだと思います。

しかし、私はあの時の「孤独感」を忘れられません。
会話したい事は沢山ありました。
面と向かって、ただ、日常の風景を話したかっただけなのです。
それが、皆とずれてしまったということは、
それ以後の子供達の感性や、思考、コミュニケーション能力のあり方について、
ある意味、示唆的ではなかったか・とも思うのです。