絵を描くとき以外、音楽を聞かない。
というより、聞けなくなった・・という表現のほうがしっくりくるかもしれない。
音楽は、異なる自分を導く「鍵」のようなものだ。
異なる自分は、日常の自分とは違う。
日常とは合い入れない者である。
生きる為に仕事をする。自分にとっての日常である。
それは今も昔も変わらない。
その為の努力や人間関係を今ではもう拒否しないし、
違和感も感じない。
それなりの喜びもあり、楽しさもある。
ただ、そこにいる自分は、コアにいる「自分」とは確かに違う自分である。
ある一つのペルソナである。
鍵に導かれる自分は、絵を描く自分である。
それは、時間にも人間関係にも、金にも支配されない。
束縛されることを嫌う。
そういう自分と、日常の社会的存在としての自分は、
10代、20代の頃は常に齟齬を生み、
その不協和音に苦しんできた。
今はだいぶ「住み分け」ができてきている。
しかし、むやみにその扉を開けることはできない。
できないというか、したくないのだ。
だから、絵を描く自分の存在は、
日常・普通に接する人々に 明かすこともないし、
必要もないと思っている。
扉の向こうにいるのは、一番コアな自分である。
時に自我を凌駕するesであり、idである。
タナトスであり、エロスである。
感情であり、欲望である。
生きていくのに、絶妙なバランス感覚を要することは今も昔も変わらない。
ただ、「世間」というもの、「ヒト」というものに、
慣れてきたことには違いない。
2014/08/30
2014/08/27
ミラーニューロン
【ミラーニューロン】という言葉がある。
目の前の対象の動作やしぐさなどを、見ているだけで、
脳内では同じことを「行っている」というのだ。
そしてそれは、無意識のうちに・・・
自分の知らない間に観察学習が行われているということだろうか。
たとえば「似たもの夫婦」という言葉があるように、
近しい人と思考や行動が似てくるのも、
こういった理由があるという。
「子は親の背中を見て育つ」というように、
子供の言動の背景には、やはり親の存在が大きい。
そう思うと、なるべくならば、
笑顔で明るく、裏表のない人を「対象」にしたいものだ。
そして、自分もそういう誰かの観察学習の「対象」になっているということを自覚すれば、
おのずと取りたい言動も定まってくるのではないか。
目の前の対象の動作やしぐさなどを、見ているだけで、
脳内では同じことを「行っている」というのだ。
そしてそれは、無意識のうちに・・・
自分の知らない間に観察学習が行われているということだろうか。
たとえば「似たもの夫婦」という言葉があるように、
近しい人と思考や行動が似てくるのも、
こういった理由があるという。
「子は親の背中を見て育つ」というように、
子供の言動の背景には、やはり親の存在が大きい。
そう思うと、なるべくならば、
笑顔で明るく、裏表のない人を「対象」にしたいものだ。
そして、自分もそういう誰かの観察学習の「対象」になっているということを自覚すれば、
おのずと取りたい言動も定まってくるのではないか。
2014/06/20
2014/05/02
猫達のことば
人間の言葉は猫には通じない。
もちろん、そうだ。
猫の言葉も、残念ながら、人間にはわからないことのほうが多い。
猫達もおそらく、そう感じていることだろう。
私たちのしてほしいことと、
ニンゲンがしてくれることには、なんだかちぐはぐなことが多いななぁ・・と、
思っていながらも我慢していること、多々あるだろう。
しかし猫達の素晴らしいところは、
それでも、彼女たちなりの愛情表現を、おくすることなく体当たりで表現してくれることである。
たとえば、信頼しあっている猫同志は、お互いの鼻をつんと触れさせる。
ニンゲンにそれが通じるかどうかはわからないけれど、
大好きなニンゲンにはとりあえず同じことをやってみる。
また猫達は愛着のあるものに身体をこすりつけることがある。
「大好き」というその表現が、またもやニンゲンに通じるかどうかはわからないけれど、
猫達のその「身体言語」で、『とっても大好きだよ~!』と言わんばかりに、
おでこや身体を、私たちにこすりつけてくる。
人間は様々な観察や研究等で、猫達のそういった感情表現をおおよそ理解しているから、
その「言葉」がある程度わかることができる。
しかし猫達がそれを知っているはずはなく、
だけども、そういう愛情表現を行ってくる・・行ってみるというその心意気に、
わたしはとても感動するのだ。
毎日、毎日、鼻をつんとされながら、おでこをごちんとされながら、
大したものだなぁ~と、感動している。
もし、そこに学びがあるとするならば、
人も、その関係性の中で、
とりあえず「あなたを信頼しています」といった思いや、
「あなたが好きです」といった感情を怖がらずに、
自分なりに表現してみることが、大切なのではないかということ。
どうせそんなことしても・・とか、そんなことを言っても・・
としり込みするのではなく、
言葉を持った人間同士、声に出してみるということが大切なのではないかと思う。
共通言語を持たない猫と人間であっても、こんなに深い愛情を感じることができるのだから、
人間同士、やってやれないことはない。
もちろん、そうだ。
猫の言葉も、残念ながら、人間にはわからないことのほうが多い。
猫達もおそらく、そう感じていることだろう。
私たちのしてほしいことと、
ニンゲンがしてくれることには、なんだかちぐはぐなことが多いななぁ・・と、
思っていながらも我慢していること、多々あるだろう。
しかし猫達の素晴らしいところは、
それでも、彼女たちなりの愛情表現を、おくすることなく体当たりで表現してくれることである。
たとえば、信頼しあっている猫同志は、お互いの鼻をつんと触れさせる。
ニンゲンにそれが通じるかどうかはわからないけれど、
大好きなニンゲンにはとりあえず同じことをやってみる。
また猫達は愛着のあるものに身体をこすりつけることがある。
「大好き」というその表現が、またもやニンゲンに通じるかどうかはわからないけれど、
猫達のその「身体言語」で、『とっても大好きだよ~!』と言わんばかりに、
おでこや身体を、私たちにこすりつけてくる。
人間は様々な観察や研究等で、猫達のそういった感情表現をおおよそ理解しているから、
その「言葉」がある程度わかることができる。
しかし猫達がそれを知っているはずはなく、
だけども、そういう愛情表現を行ってくる・・行ってみるというその心意気に、
わたしはとても感動するのだ。
毎日、毎日、鼻をつんとされながら、おでこをごちんとされながら、
大したものだなぁ~と、感動している。
もし、そこに学びがあるとするならば、
人も、その関係性の中で、
とりあえず「あなたを信頼しています」といった思いや、
「あなたが好きです」といった感情を怖がらずに、
自分なりに表現してみることが、大切なのではないかということ。
どうせそんなことしても・・とか、そんなことを言っても・・
としり込みするのではなく、
言葉を持った人間同士、声に出してみるということが大切なのではないかと思う。
共通言語を持たない猫と人間であっても、こんなに深い愛情を感じることができるのだから、
人間同士、やってやれないことはない。
2014/01/29
ずっと、家族を待っている。
時が経つのは早いものだ。
最終公開日から、なんと1年も経ってしまっていた。
その間、私の生活には大なり小なり、変化があった。
それを記述するつもりはないし、必要も無いだろう。
寒い日々が続く。
我が家の猫達は、小さな電気ストーブの前に陣取り、
ぬくぬくと温まりながら、丸くなって眠っている。
今夜のニュースでは、久々に心が痛み、
治りきっていない傷に塩を塗り込むような思いがした。
厳寒の冬、福島の飯舘村。
2011年3月11日の原発事故で住民は避難を余儀なくされ、
残されたのは、家族同然のペット達・・・
今も家族の帰りを、ずっと、待っている。
映されたのは、一匹の犬。
避難先では動物を連れ込むことが許されなかった為、
大切な犬を連れていくことができなかった。
週に二回、様子を見に行く。
積雪で真っ白な景色、吐く息は白く、飲み水も凍る寒さの中で、
はちきれんばかりの「笑顔」(私にはそう見えた)を見せて駆け寄ろうとする犬。
とても甲斐甲斐しく、愛らしく・・・
雪の中、足は凍えて、体も小刻みに震えている・・・
別れ際に涙を見せる、老いた飼い主。
「できるなら連れて帰りたい」
犬もきっと、泣いていた。
涙を見せまいとして、顔を見せぬよう、陰に隠れたように見えた。
私にはそう見えてならなかった。
悪いのは、飼い主でも、もちろん残されたペット達のせいでもない。
悪いのは、あの日の原発事故。
そして、その「原発」を長い間許してきた、国。
私達・・・
だから私は、やはり原発を好きになれない。
その気持ちは今でもずっと、変わらない。
ぬくぬくと丸くなっている我が猫達を見て思う。
もしここが、ある日、居てはならない「強制避難区域」に指定されたら・・・
そうではなくても、地震等の災害で、住めないことになってしまったら・・・
避難先で「ペットはご遠慮ください」といわれてしまったら・・・
外でテントでもはって、この子達と過ごすのか?
可能であっても、長期的にみて現実的ではない。
では、「強制」の文字を恐れることなく、ここに居続けるのか?
いや、多分、ライフラインが止められて、経済活動の一切が無くなった町では、
食料にも水にもありつけなくなる。
そんな不安定極まりの無い中で、長く過ごすことはできないだろう・・・
あの原発事故により、断腸の思いで家族同様の動物達をおいてきた人々の思い、
残された動物達の恐怖、不安、悲しみ・・・
我が猫達も、私達の姿を追い求めて、毎朝毎晩、
涙無き涙を流し、
声にならぬ声を出し続けることだろう。
私自身も、怒りと悲しみと不安と・・・
それこそ、気が狂ってしまうかもしれない・・・
それでも、原発を続けなければならないのだろうか?
こんな悲しい思いを、そこいらに撒き散らしてまで。
それらは放射能と同様、見えないし、
人間は二つの目があっても、心の目で見ようとしなければ結局何も見えないから、
ほうっておけば、そのうち忘れ去ってしまうよ。
そういうことだろうか・・・
そういうことでいいのだろうか・・・
心に負った深い傷は、本当に実感をともなって痛むものだ。
心の目で見えた真実は、脳裏に焼き付き、消去も忘却もできない。
むしろ時とともに、より鮮明に蘇ってくることさえある。
それはとても苦しいことだ。
だがそれは、人が同じ過ちを繰り返さない為、その長き経験に基づいて、
人間自身に備わった、一つの重要な防衛本能なのかもしれぬ。
もうすぐ、都知事選。
一都民として参加し、
その行く末を、見守りたい・・・
最終公開日から、なんと1年も経ってしまっていた。
その間、私の生活には大なり小なり、変化があった。
それを記述するつもりはないし、必要も無いだろう。
寒い日々が続く。
我が家の猫達は、小さな電気ストーブの前に陣取り、
ぬくぬくと温まりながら、丸くなって眠っている。
今夜のニュースでは、久々に心が痛み、
治りきっていない傷に塩を塗り込むような思いがした。
厳寒の冬、福島の飯舘村。
2011年3月11日の原発事故で住民は避難を余儀なくされ、
残されたのは、家族同然のペット達・・・
今も家族の帰りを、ずっと、待っている。
映されたのは、一匹の犬。
避難先では動物を連れ込むことが許されなかった為、
大切な犬を連れていくことができなかった。
週に二回、様子を見に行く。
積雪で真っ白な景色、吐く息は白く、飲み水も凍る寒さの中で、
はちきれんばかりの「笑顔」(私にはそう見えた)を見せて駆け寄ろうとする犬。
とても甲斐甲斐しく、愛らしく・・・
雪の中、足は凍えて、体も小刻みに震えている・・・
別れ際に涙を見せる、老いた飼い主。
「できるなら連れて帰りたい」
犬もきっと、泣いていた。
涙を見せまいとして、顔を見せぬよう、陰に隠れたように見えた。
私にはそう見えてならなかった。
悪いのは、飼い主でも、もちろん残されたペット達のせいでもない。
悪いのは、あの日の原発事故。
そして、その「原発」を長い間許してきた、国。
私達・・・
だから私は、やはり原発を好きになれない。
その気持ちは今でもずっと、変わらない。
ぬくぬくと丸くなっている我が猫達を見て思う。
もしここが、ある日、居てはならない「強制避難区域」に指定されたら・・・
そうではなくても、地震等の災害で、住めないことになってしまったら・・・
避難先で「ペットはご遠慮ください」といわれてしまったら・・・
外でテントでもはって、この子達と過ごすのか?
可能であっても、長期的にみて現実的ではない。
では、「強制」の文字を恐れることなく、ここに居続けるのか?
いや、多分、ライフラインが止められて、経済活動の一切が無くなった町では、
食料にも水にもありつけなくなる。
そんな不安定極まりの無い中で、長く過ごすことはできないだろう・・・
あの原発事故により、断腸の思いで家族同様の動物達をおいてきた人々の思い、
残された動物達の恐怖、不安、悲しみ・・・
我が猫達も、私達の姿を追い求めて、毎朝毎晩、
涙無き涙を流し、
声にならぬ声を出し続けることだろう。
私自身も、怒りと悲しみと不安と・・・
それこそ、気が狂ってしまうかもしれない・・・
それでも、原発を続けなければならないのだろうか?
こんな悲しい思いを、そこいらに撒き散らしてまで。
それらは放射能と同様、見えないし、
人間は二つの目があっても、心の目で見ようとしなければ結局何も見えないから、
ほうっておけば、そのうち忘れ去ってしまうよ。
そういうことだろうか・・・
そういうことでいいのだろうか・・・
心に負った深い傷は、本当に実感をともなって痛むものだ。
心の目で見えた真実は、脳裏に焼き付き、消去も忘却もできない。
むしろ時とともに、より鮮明に蘇ってくることさえある。
それはとても苦しいことだ。
だがそれは、人が同じ過ちを繰り返さない為、その長き経験に基づいて、
人間自身に備わった、一つの重要な防衛本能なのかもしれぬ。
もうすぐ、都知事選。
一都民として参加し、
その行く末を、見守りたい・・・
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