Kyon {Silence Of Monochrome}

Kyon {Silence Of Monochrome}
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2012/10/24

「その時」を思う。

日増しに寒くなってくる。
猫達とより密接になる季節になった。
寒いと、先住猫のわさびは布団にもぐりこんでくる。
私の腕を枕にしてウトウトしているところは、可愛いというのを超えている。
妹分のくるみも、気が向けば布団にもぐってくる。
この子もまた、私の腕をまくらにして眼を細めていた。
なんという、至福の時間。

猫といるだけで、幸せを感じる。


昨今、SNSの爆発的な人気で、「つながり依存」ともネーミングされた問題が顕在化している現在だが、
猫達のおかげで、以前から風前の灯火だった人とのつながりは、
より一層希薄なものとなってしまった。
が、もともと孤独な性質。この期に及んで言及するほどでもない。
それよりも、猫との時間・・・
幸せと共に、不安でもある、この不思議な空間。

不安というのは、彼女達を失うということについてである。

家で暮らす猫達の寿命は、現在ではおよそ20年生きる子もいるという。
当然、多くの飼い主達は皆、可愛くてしかたのない我が子と20年以上暮らすつもりでいるだろう。
20年生きるという根拠も確証も何もないが、そう信じ込んでいる、私もその一人である。

しかし、されど、20年・・・
私が50にさしかかる頃、彼女たちも老猫となり、様々な問題と向き合いながら、
いずれは私より先に死んでしまうのだろう。
猫達が自分より先に老いて死ぬのは当たり前といえばそうなのだが、
それが受け入れられず、さみしくて不安でたまらないことがある。

生後4ヶ月で失った仔猫のあずき。
アサリからぴょんと出てきて、6ヶ月をともにすごした、カクレガニのピノ。

彼らを失った時の痛み、悲しみ、苦しみは今でも時折、
フラッシュバックしてくる。
そして、この手でもう一度抱きしめたい、会いたい・と強く思い、
叶わぬ願いに、また涙する。
それは、時間と共に、さらに濃い痕跡となって、私の脳裏に刻まれていくようだ。

我が猫の小さな背中に耳を当てると、
トットットットっと、心臓のせわしない鼓動が聞こえる。
そんなに生き急がないでおくれ・と思う。

猫達の誕生日が来る度に、会えてよかった・生まれてくれてありがとう、
という思いと共に、
もう年を重ねないでおくれ・と思う。

私よりも先に逝かないで、
ずっとそばにいておくれ・・と思う。

人は歳をとっていくにつれ、風貌も少しずつ変っていき、
生き方や思想、人間関係など様々なものを変化させ、
紆余曲折ながらも、人生をじっくりと円熟させていく。

しかし猫達は、ライフスタイルを大きく変化させることもなく、
太陽を追いかけるように日向ぼっこをしながら、夜は狩ムードで気の向くまま遊んだりというような、基本的ルーティンワークを保ちながら、
その可愛いままの姿で、幼い子供のような愛らしい無邪気なままの魂で、
突然、旅立ってしまう。
だから、この手からこぼれおちてしまう瞬間が、
想像以上に痛ましく、悲しく、切ないのだ。

生きているうちから、このように、死のことばかり、失うことばかり考えているのは、
他の生き物からしたらそうとう、滑稽だろう。
猫達に自由と余裕を感じるのは、そうした影を感じないからだろう。


なにより一番恐れているのは、彼女達を失うことにより、
傷つく「自分自身」ということには気づいているし、それはなんとも情けないことだと思う。

しかし、そうして不安にかられ、恐れる程に、
愛するものを失うということは、辛く苦しいものだというのも、真実だ。


光が差すところに、必ず影はできる。
生きるということは、死を想うこと。
死を想うことで、生きることに真剣になれるということもある。

愛する以上は、「その時」と、向き合わなければいけない。
そして、「その時」後悔しないために、今、愛すべきものを精一杯、大切にすることだと思う。

そう考えると、「今」という時間と空間、
1秒1秒流れる時の音の重みが、一層増してくるようだ。












2012/10/05

食は「命」、動物達は同じ「命」。

朝から、とある二つの報道に、ずっと心が囚われている。

一つは「食品ロス」の問題。
その量、年間500から800万トン。
米の年間生産量に匹敵するという。
賞味期限切れ等で廃棄される食品は、
加工品だけでも年間1200億円にのぼるのだとか。
食品ロスには「流通」「生産地」「消費者」三つの側面がある。
一番多いのは「消費者ロス」ではないかと経済学者はいう。
私達消費者が食べずに廃棄する分が大変深刻な量だということだ。
無駄な買い物はしていないか、冷蔵庫の中をいつも把握できているだろうか・・・
チェックポイントは沢山あると思うが、
ここで大事なのは、日々の食事に関して、
「素材から調理する」というのが大切ではないかと思う。
何が使われているのかわからない加工品は、
「生命」の存在を感じにくい。
毎日食事の際に言う「いただきます」は、
「大切な、尊い命を頂戴します。ありがとうございます。」
という気持ちの表れだと聞いたことがある。
そのとおりだと思う。
が、できあいの物や、加工品ばかりに頼る食卓は、その「命」が見えにくく、
「いただきます」の言葉も、そういう食事からは、ただの記号と化してしまうだろう。
食は身体を作るもの、命に繋がるもの、食は命そのものだ・という意識も、
そこでは芽生えにくいだろう。
そして「食」そのものが、だんだんと蔑ろに、
ぞんざいにされていってしまうのかもしれない。
それはまわりまわって、命の軽視に繋がりはしないだろうか?


そしてもう一つ・・・
動物の殺処分問題。
犬猫合わせて、この国では年間27万頭以上が殺されていくという。
その中には、飼い主の都合や、どうみてもワガママとしか言いようがない理由で、
毎日「動物愛護センター」に、持ち込まれていく。

とある老女のケースが紹介された。
今住んでいる場所では、規則で猫が飼えない・という。
そこで、泣く泣く3匹の、手塩をかけて育てた猫達を持ってきた。
その辺に放るわけにもいかず、どうしようもなかったという。
「この歳の猫は、結局、殺されることになるんですよ」と職員は言う。
持ち込む飼い主たちは何処かで『愛護』という言葉に救いを求めているのだろう。
その言葉により、自分を弁護させようとしているのかもしれない。
しかしそう名付いているどのセンターも、結局は、
全ての猫や犬を終生面倒見てくれるわけではなく、
その殆どが、ガスによって殺されていくのだ。

手塩にかけた猫達が「殺される」と聞かされても、
老女の気持ちは変わらないし、変れない。
そこで職員の最後の言葉が突き刺さった。
「この猫の不幸は、飼えないとわかっていた、その場所で飼われた時から、
始まっていたのかもしれませんね・・・」
厳しい言葉だが、長年飼い主達のありとあらゆる無謀で
無常な振る舞いを多く見てきた方だからこそ、
絞りだされた言葉だったのだろう。
非常に重く、悲痛な響きだった。

その住宅に住んでいたなら、きっと規則も前から知っていたはずでしょう、なのになぜ・・・?
そういう問いも職員からは投げ掛けられていた。
老女の答えは
「ただただ、可愛かった」と・・・

しかし、猫達の運命は、その結末はどうなのだろう?

猫達は、まだ幼い仔猫だったその時、
救われたことを幸せに感じていたことだろう。
やせ細っていたノミだらけの身体を癒してもらい、可愛がってもらい、
お腹一杯食べさせてくれたことを・・・
沢山、遊んでくれたことを・・・

最後に、老女は涙声で、
「今でも未練がある。沢山“遊んでもらった”から・・・」
と手を合わせていた。

 複雑な気持ちになるケースだった。
例えば病気で飼えなくなった、飼い主自身が亡くなってしまった・など、
どうしてもままならないケースもある。
この老女のケースは、老女の立場になって考えることも出来る。
1人身で寂しかったのかもしれない。
“遊んでくれた”という表現に、猫達への敬愛が感じられないこともない。
規則に従わなければ、老女が追いだされ路頭に迷っていたのかもしれない・・・
あの時、仔猫達を面倒見なければ、仔猫達はもっと短命だったのかもしれない・・・

だけど結局、猫達は、「人間の都合」で殺されていく。
生かすも殺すも人間次第、ということになっている、彼らの命・・・
そういう構図自体が許せないし、あまりにも残酷な現実だと思う。


「食品ロス」と「殺処分」、この二つの問題で、共通いているのは、
どちらも命を蔑ろにしているということ。
命を軽視している、または命の軽視に繋がっているということ。
自然や生命すら支配できるという人間のエゴと、
大量生産大量消費・経済利益優先社会の深い闇が根底にある。


「命」に繋がる・・・「命」そのものである食も、我々と同じ「命」を宿す動物達も、
そのシステムの中では商品でしかなく、
利益を生まなければ、不必要とされ、捨て去られていく。

捨てることに慣れてしまっている私達は、
捨てているその食品、その動物達に、
自分と同じ「命」があるということすら、忘れてしまっている。
いや、忘却した方が、心に痛みも感じることがなく、
その方が楽だということを本能的に知っているからこそ、
成るべくして、そうなったということかもしれない。

そうして、人の人による、「人の使い捨て社会」も現実に起こっている。
「戦争」は、その最たるものだと感じる。


人は「とりあえず生きるために、扱いの難しい事は、本能的・生理的に通常の意識から離れた、
遠い倉庫のような場所に、仮置きする」という。
簡潔に言えば、面倒なことは忘れ去る術を持っているということだろうか。
それは必然的な生活の術というか、
それがあるから、日常が普通に営めるということもいえるだろうが、
その影、その闇=忘れ去られた現実のなんと数が多く、悲しい実状の多いことか・・・
それらに臭いものにフタをするように生きている私達は、
私達の社会は、はたして健全といえるのだろうか?

私はそう思えない。
それらの歪は必ず存在し、そうした社会の闇は、
見えなくても隠されていても、心の隅に追いやられていても、
私達の心身の健康に、少なからず影響しているだろうと思う。

今が幸せ・というその時間が、
毎日の異常な大量食品ロスや、動物達の命と引き換えに成り立っているのだとしたら、
果たして本当に、幸せだろうか?
本当に、幸せで平和な社会なのだろうか?

私にはやはり、そうは思えない。









 
















2012/07/19

脱原発ポスター展。After311

【脱原発】私に何ができるだろうか?と昨年の3月11日以降から、
ずっと考えてきた。
そして、今も考えている。

官邸前の抗議行動やデモに参加したり、パブリックコメントを書いたり・・・
私ができることは、とても小さい。
ゾウに立ち向かうアリの心境だ。

いつか、京都大の小出先生がインタビューで、
「音楽でも絵でも何でも、自分のできる形で表現して行くこと。」
それが大事だとおっしゃっていたことが、
今でも胸の奥深くにある。

そして、先日の『さようなら原発 1000万人アクション』では、
様々な著名人が多数参加される中で、
私は個人的に奈良美智さんのお話がとてもこころに響いた。
微力ながらも絵を描くものとして、とても理解できるお話だった。


・・今回、【脱原発ポスター展】への作品の出展は2度目です。
『視覚言語』である絵は、世界の共通語。
なにかが伝えられるのではないか・という願いを込めて描きました。

・・私は日本という国に、とても女性的なものを感じます。
それは母性にも似た、優しさと育みの魂。
時に厳しく、 時にあたたかく包み込む。
絵の中の女性はこの国を表し、豊富な水資源に囲まれた国であるという象徴に、
彼女は人魚の姿をしています。
その美しい身体に、産みつけられた54個の不気味な卵・・・





{2011年3月11日の原発事故で、空や海や大地、自然界に生きる動物達の、
悲しい悲鳴が聞こえた気がしました。
放射性物質は目に見えず、においも無く、味も無い。
けれども、私達の生活や身体や心を、静かにゆっくりと蝕んでいく・・・
不気味で見えない陰におびえながら、
それでも生きていかなければならないこの国の現実を、
自分なりに視覚化してみようと思いました。}

これが、私の想いです。
 そして、精一杯、できることです・・・

この1枚の絵が、誰かのこころの代弁者となることができたなら、
幸いです。








2012/07/18

ピノ

大切なものは、やがてこの手のひらからこぼれおちる。

大切なものが多いほど、失うことへの恐れと悲しみも
それに比例して多くなり、深くなっていくように思う。

だからといって、大切なものが無くては生きていけない。
大切なもの=愛すべき存在があってこその人生だと思う。

愛すべき存在。私にとってはわさびとくるみ・・・猫二匹、この子達であり、
あさりから突然飛び出してきた、ピノという小さなカニであり・・・


5ミリほどの小さな小さなそのカニは、
オオシロピンノという隠れ蟹の一種。
アサリなどの二枚貝と共存しているらしい。
ほとんどの人は、自分達が食しようとしているそのアサリに、
そのカニが生きている事、その存在事態にも気づかないだろう。


でも、ピノは確かに生きていた。
アサリから飛び出した瞬間から、
7月14日のあの日まで、半年間生きていた。
あの小さな小さな身体で、キッチンの小さなシャーレの中で、
ずっと、たくましく、生きていた。

私は食事や洗い物などでキッチンに立つたびに、
ピノに話しかけた。
その愛らしさ、可愛らしさにどんどんと魅かれた。
今まで億劫だったキッチンでの作業が、ピノと会うことで、
楽しくなっていった。
ピノに会うことが、楽しみになっていた。

ピノとのそんな生活はずっと続くだろうと思っていたので、
ピノの飼育日記もつけはじめていた。
1年、2年・・・その命は、ずっと続くだろうと思っていた。

そんな矢先の、ピノの死だった。


7月はカニ座の月。
ピノは、夜空の星のひとつになってしまった。


抱きしめようにも、小指にもあまるほどの大きさだ。
私はピノを、小さな小瓶に入れて、
両手で包みこんで一晩、泣いた。

命や魂に大きさや重さという、物理的な概念はそもそも存在しないのだろうと思う。
ピノの魂は私の中で大きな存在となっていた。
それはカニと人間という種族の壁を越えて、
魂の触れ合いがあったという、何よりの証拠だった。


ピノの最期、私は珍しく海の夢を見た。
美しく広がる、清々しい海であった。
小波の音が優しく聞こえ、それは、幼い頃に見た海岸の風景にも似て、
心を優しく包み込むようであった。
私は、その後、強烈に海に行きたいと思った。
そして、ピノの死があった。


私はこの夢は、この子が見せてくれた、最後のメッセージだったのではないかと思う。
「僕の故郷だよ。素晴らしいところなんだ。」と。

そして「帰りたい」と。

その想いを思うと、私はとても切なくなる。
そして、できることは、彼の生まれ故郷の熊本の海には行けないが、
やはり、「海」に帰してあげることだろうと。


ピノ、今までありがとう。
君がいたから、私の半年間は、なんだかとても、キラキラしていたようだった。

それは水面の輝きのように。






2012/06/07

映画「フード・インク」~安田節子氏・枝元なほみ氏の対談を聞いて

TPP=環太平洋戦略的経済連携協定。
今月にでも野田首相は参加表明をするのでは…という懸念が広がっている。
そもそも、TPPとは何なのか。
まずTPPを推し進めてくる米国(多国籍企業)を知ることから始めたらよいのではないだろうか、
そして米国を知り日本の未来を推測するためのよい参考になると思い、
この映画『フード・インク』を観ることにした。

冒頭から整然と商品の並ぶ、清潔感のあるスーパーが映る。
山積みにされた大量のトマト。
そして「これは、トマトという『概念』を食べているに過ぎない」という
不可思議な言葉が続く・・・

大量消費時代(これも仕組まれたシステムと思う)の効率至上主義にのっとった食の「工場化」。
畜産の飼育場や養鶏場も例外ではない。
今、鶏は従来より半分の日数で育つように改良(操作?)され、49日で育つ。
人は胸肉の部分を好むという。だから、従来よりも胸肉が大きく育つようになっている。
それを「化学技術の成果だ」と手放しに喜んでよいものか?
不自然ではないだろうか?
鶏自身はその急激な成長についていけず、成長した鶏は立とうとして何度もよろけ、
中には骨折するものもあり、悲しいうめき声を上げながら生きたえ、処分される。
鳥たちは太陽の光の届かない暗がりで一生を終える。
大企業に雇われ、借金まで背負った養鶏家は、
圧力に屈して口を閉ざし、多くを語らず、内部の撮影も許されない。
鳥達が寝静まった頃に回収しにくる者達は、これも下層にいる者達ばかり…
それは畜産現場でも同じで、汚れ役はマイノリティや低所得者にまわされる。
ある現場での話では、従業員は「豚」と同様に扱われるという。
「豚はすぐに殺されるから、快適さを考慮する必要はない」
そして鶏も豚も牛も、末端にいる従業員も、虐待されるという…

「豚を命ある者として扱わないということは、私達自身にもふりかかってくることだ」と指摘したのは、
この映画の後、お話をお聞かせ頂いた料理研究家・枝元なほみ氏の言葉だ。
そして思い出すマハトマ・ガンジーの言葉・・・
「国の偉大さ、道徳的発展は、その国における動物の扱い方で判る」


上記場面での下層級の人々の扱いに対して、
ふと原発労働者や、映画「イエローケーキ」でみたウラン鉱山の人々を思い出した。
被曝を強いられる過酷な現場の作業員達・・・
その扱われ方や構図は、畜産現場の人々のそれと酷似しているようにも思えた。


畜産工場の場面では出血性大腸菌0-157についても言及している。
もともと牛は草食であるのを、安価で太らせるため飼料にコーンを与えた結果、
牛の胃袋の大腸菌が変異したのだという。
この牛に五日間牧草を与えれば、大腸菌はほぼ死滅するが、
しかしそれを大企業はやろうとしないという。
そして現在の食の「工場化」は、この菌をばらまくには都合のよいシステムとなってしまっている。

ここで対照的な畜産農家が出てくる。
開放型の牧場を営んでいる。とても清潔感あふれる生き生きとした現場だ。
動物達も命あるものとして大切に扱われている。
しかし政府はこれを「不衛生」な現場というのだという。「開放型だから」不衛生だと…
映画を観る限り、私には工場の方がはるかに不衛生に見えたのだが。

牛達は悠々と歩きながら太陽の下、青々と茂った牧草を食べる。
牛達の糞は、そのまま牧草の肥料となる。
自然な循環がそこで生まれる。持続的なシステムだ。
が、先の畜産工場では、糞尿も垂れ流しである。目もそむけるような画面がそこに広がった。
その糞が0-157に汚染されていれば、汚染が拡大してしまう。
たった一匹の汚染でも、あっという間に広がってしまう。
この状態が衛生的とはとても思えない。
そしてこうした牛の肉が、外食や、私達の食卓にまぎれこむ可能性も十分にありうる…
実際の痛ましい死亡事故も取り上げられていた。
昨今の日本ではユッケ死亡事件が、まだ耳に新しい。


一つの企業が、種からスーパーまで一挙に支配している。
代表的なのはモンサントだ。
TPPでは、遺伝子組み換え食品の表示義務の撤廃が「貿易障壁」とされ、
撤廃される恐れがある。
そしてそれを機に、更なる流入が懸念されている。
米国では既に、遺伝子組換えのコメが開発済みだという。
例えば10キロ1000円のカリフォルニア米が、味もさほど国産の物と変わりなく、
しかも「放射能がない」とうたわれた時、消費者は飛びつくだろう・と
遺伝子組み換え食品、食糧安全問題の専門家・安田節子氏は言う。
「その時が一番、恐ろしいんです」

そこで、最近、近所のスーパーに安価な中国産米が売られていたことを思い出す。
そして、とある新聞の記事でも「輸入米が食べたい人が25%」とがあったり、
「輸入米に食指動かす外食産業」、
「輸入米:じわり人気…消費者の抵抗感和らぐ」といった記事もあったと記憶している。
最近では「パンの購入額が、コメを抜いた」という記事もあった。
穿った見方ではあるが、TPPの伏線にも見えてくる。
TPPでは関税撤廃で、コメ農家は壊滅的、といわれている・・・



ある家族の場面。低所得者だが不必要に太っている感じがする。
常食は安価で買えるハンバーガー。野菜を買うよりも安くすむ。
しかし夫は糖尿病で、その子供も同じ病気だという。
薬代がまた高価だ。だから生活を切り詰めるために、また安価で高カロリーな食に頼る。
疑問を抱きつつも、そういった負のスパイラルが延々と続く…
肥満はむしろ、低所得者に多いと聞いたことがある。
その原因と流れが改めて、解った気がする。
米国では糖尿病に罹患する人が増えており、
特にマイノリティにおいて、2人に1人が糖尿病だという。
子供も増加傾向だという。
あの「シッコ」でみた自由診療・高額医療社会で、どう病と闘うのだろうか?
低賃金での労働や長時間労働、それが低価格を求め、安くて簡単な食材に頼ることとなり、
それらの不健康な食材のために病に倒れ、今度は薬漬けとなる…
その節々で、大企業にうまく搾取されている。
そんな容赦ない「金儲けシステム」が、負のスパイラルとなって私達にのしかかっているように思えてならない。

ハンバーガーの肉に付着していた0-157で幼い子供を失った母親は言う。
「私達よりも、大企業の方が守られていると感じます」



命の素となる食べ物…、命そのものである食べ物を、
あたかも「工業製品」のようにして扱うその姿に、私は胸を悪くした。
病気を防ぐために投与する大量の抗生物質、
成長ホルモン、赤みを増すための薬剤、
アンモニアで洗浄し「清潔」だとされる肉・・・
特定の農薬に耐性を持つよう遺伝子操作された穀物・・・
そして、次はクローン動物の肉・・・?
いったい、私達は何を食べさせられてきたのだろうか?
これから、何を食べさせられていくのか・・・
そして、1つの企業が種から食卓までを支配する世界。
その危うさ。異様さを、私は今まで知らなかった。疑問にも思わなかった。
それは、今のこの国の原発の真の姿、電力会社の姿とも重なる。

「食がビジネスに汚されてしまった。電気も同じ。同じものが根っこにある。
儲かる仕組みでいたいという…」と、対談で枝元氏は言っていた。


私もかつてはファーストフードをよく利用していた。
カップ麺やできあいの総菜も多く利用していた。
早くて安くて便利な食品。お腹が空けばすぐに満たしてくれるモノ。
夫婦共働きで忙しくても、手ごろに素早く食べれる、優れモノ。
しかし、それらから私はもう長いこと、距離をおいている。
それは、「命=食べ物」だと改めて思いなおし、
その一口が、明日の自分、明日の血の一滴を作っていくのだ・と感じた時からだった。

対談で安田節子氏は
「血の一滴を作るのは、口から食べる、その食べ物です。
そして、どの時期にどんな食べ物をたべればよいかということもあるのです。
食べ物で病も癒せるのです」と言っていた。
先祖代々、受け継がれてきた、日本人の身体に刻まれている「食べ方」。
四季折々の食べ物・食べ方を継承していくことの大切さを語っておられた。
「力のある食べ物が必要。食の力を信じ、大事にしましょう」枝元氏も強く訴えていた。

即席食品やGMO食品、添加物まみれの食材、人工的に操作された食材に、
そういった癒す力や、食本来の持つパワーがあるだろうか?
一時の空腹を満たし、一時の快楽は得られるかもしれない。
しかしそれだけのことに感じる。
私達は、食材の下ごしらえもできない程に、忙しいのだろうか?
ドリンク剤やジェル状の食品で栄養補給して、
さらに走り続けねばならない程、忙しい時間を生きているのだろうか?
もしもだとしたら、上記の食品はそういったシステムから必然的に生まれたといえるのかもしれない。
そして食のあり方を変えるためには、社会そのもののシステムを見据え変化させていくことも不可欠だと強く感じる。

そこで、映画の最後に印象的な文章が綴られる。

「私達には システムを変えるチャンスが 一日に三回ある」

そして、消費者は自分達の真の影響力を知らない・という。
何を選び、何を食べるのか。
1日三回の食卓に、その手の中の「選択」に、私達の未来がかかっているともいえる。
そう思うと、ちょっと希望も湧いてくる。
まだまだ小さくてもやれそうなことがあるではないか。
まずスーパーに行ったら、食材をひっくり返し、成分表示を確かめることからでも、
はじめたらどうだろうか。

私達は無力ではない。
安全な食品を求める権利がある。
そして、その選択が、やがては世界をかえることにもなるかもしれない。
内容は非常にシビアで、辛い場面も多くあったが、
そういう希望を抱ける作品だった。

そしてTPPは食の安全を脅かし、私達の選択肢を奪う危険をはらんでいる。

無料で頂いたこの可愛らしいリーフレットによれば、
「食の安全基準さえ「貿易障壁」とみなし、撤廃を強いる…」とある。

現在、TPPについて(またはGMOや食品添加物等、食の安全についても)
マスコミでは多くを語られず、これからも真の報道は望めないと思う。
だから疑問を持ったことに対して素直に関心を持ち、自分で情報を得ていかねばならない。
自分の無知を知り、知ることから始めることは、今の時代、とても大切で有意義だ。


TPPのことを知る上で、解りやすいHP。
「サルでもわかるTPP」

「フード・インク」公式サイト