いつもの、何気ない会話だった。
その日も夜の午前をまわろうとする時間、
森のそばにあるなじみの坂道を帰宅の為に下っていた。
最近、また地震が頻発していた。
ツレの働くオフィス街で直下型の大きな地震が来たらさぞ大惨事だろう・・等と話していたら、
ツレがぼそっと言った。
「死ぬ時は死ぬんだよ。動物達も一緒。
自然に敵うわけがない。みんなそこは一緒だ。」
坂道に沿うようにして生い茂る森をみながら、ああそうか・・と思った。
この地球がたった1回の大きなくしゃみをしただけで、
もしかしたら、人間はおろか、生きとし生けるものすべてが滅ぶかもしれない。
そして、そういう歴史を、地球はずっとたどってきたのだと。
そう思うと、この森の住民たちも、私達の家族である猫達も、
人間も、なんら変わらない存在だということだ。
地球にちょっと、ほんの短い期間を住まわせてもらっている、
間借りしているだけなのだ。
それを、さも我が物顔で支配しようとする人間のなんと、愚かな事か・・
人間は絶えず死を恐れている。
死を思うから、よりよく生きれるのだ・とさえ聞く。
不安が、より慎重な生き方を選択させ、より長く健やかな生に結びつくとも・・
しかし、それは果たして、本当の事なのだろうか。
崇高な事なのだろうか。
猫たちが「明日事故って死ぬかも」とか、
「病気になるのは不安だわぁ」と悩む姿を私はみたことはない。
その日を気ままに、お日様の寝起きと同時に生きるだけ・・。
死ぬ前からじたばた死ぬことばかり考えているのは人間だけじゃないか?と思う。
死はいつでも近くにいる。それは紛れもない事実だ。
だからといって、じたばたしたくない・・
私がそう思うのは、自分の患った「パニック障害」にある。
この病との付き合いはもう10年以上にもなる。
以前、歳を取るごとに症状は緩和していく・
とカウンセラーにきいていたが、そのようでもある。
だが、火種はまだひつこく、無意識の領域で燻っている。
一度、不安に襲われると「死」に直結した莫大な不安が爆発的に増殖する。
「死」それしか考えられなくなる。
じたばたした感情が体中を、虫酸のように走るのである。
そして、目眩や過呼吸、しびれなどに襲われる。
しばらくすると安定し我に返るが、なんでこの様な不透明で不気味なものに襲われ、
大事な時間を費やさねばならないのか、なかば怒りにも似た感情が湧きあがる事もある。
この「不安」を感じさせる「思考」や「感情」などがなければどんなによいか、と思う事もある。
そんな時に、猫達の姿は、常に憧れとしてうつり、
堂々とした崇高ささえ感じるのだ。
本当の危機がやって来たとき、むしろたくましく生き続けるのは、
動物たちの方ではないだろうか。
死を恐れず、生きるために生きるだけ・・
生命の営みを自然のままに続けるだけ・・
そう思うと、人間は決して頂点に立つわけではない・と思う。
人間はむしろ、その脆弱さゆえに、
彼らを支配 しようとすることで、その威厳を保とうとしているのではないだろうか。
人のいじめや差別の構造そのものだと思う。
だから、私達は「飼う」という言葉は避けている。
共に生きるもの、暮らすもの、そして「家族」と言うようにしている。
私達と猫達は、地球にほんの一時住まう、小さな生命の一部である事、
産まれたと同時に、死に向かって生きている事、
それらになんらかわりはない。
だから、動物達を支配しようとしたり、虐待したり、殺めたりする事は、
人間の愚かさと弱さの象徴そのものであると感じる。
「国の偉大さ、道徳的発展は、その国における動物の扱い方で判る。」 とは、
ガンジーの残した言葉だ。
この国はどうだろうか・・。
生きるための「先生」はありとあらゆる場所にいる。
空を飛ぶ鳥たち、川を泳ぐ魚たち、屋根の上で眠る猫、大地を走る犬、
…数々の人間以外の生命たち。
押し付けるわけでもなく、説き伏せるわけでもなく、
かれらは静かに、生きるという事で、生の真理を教えてくれる。
もし、人間に救いがあるとしたら、
彼らに生きる真理を見出だすための思慮が、
まだ、残されている・・ということだろうか。