Kyon {Silence Of Monochrome}

Kyon {Silence Of Monochrome}
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2011/09/16

祝の島

美しい風景、そして、清く潔く生きる人々にもう一度会いたくて、
この映画を観に行った。
私自身、勇気をもらいたかった。

映画は静かにゆったりと流れる。
夏の光やセミの声が清々しい。

先祖代々の棚田を1人で耕し、作付し、収穫する老人の姿。
自分の代で終わってしまってもいいという、その潔さにいささか驚いた。
「人の手を離れれば、また原野に戻るだけ」
この言葉の裏に、どれだけの苦悩があっただろうと想像を絶する。
棚田に対する愛情が動作の一つ一つににじみ出ている気がした。

私の親戚も、棚田を営み米を作っている。
棚田百選にも選ばれた、それはそれは美しい風景だ。
だが、今の状況を私は聞く勇気が出ない・・
場所は福島とも隣接しており、放射能の汚染状況を記した地図だけをみても、
素人の私でさえ、目を覆いたくなった。
基準値以下なら安全と言われても、基準値が我々をそもそも不安にさせ、
不信感の巣窟となっている。
以前は新米ができる度に、
ほっぺたが落ちそうな程美味しい新米を送ってきてくれた。
しかし、311の原発事故以降、状況が一変してしまった・・・

私は、祝島のその棚田の老人と、親戚の棚田を重ねて見ていた。
そしてやっと少しだけ、私の拙い頭で理解できた気がした。
福島をはじめ、大切な農地や家畜、海を汚染された多くの農家や酪農家、漁師の方々の苦悩を、
そして消費者との悲しい心の乖離を生んでしまった、この事故の残虐さを。
毎日会見にて目にする東電幹部達の態度は、
事故の甚大さ、放射能汚染の実態の悲惨さを全く自覚していないのか、
その様子に怒りを通り越し、背筋が凍る・・


島民のある年配の女性が言った。
「人間の心理からしたら、原発推進も反対も同じだと思う。
原発が来てから、あんなに兄弟・いとこの様に良かった仲が引き裂かれた。
心はみんなズタズタ・・それが一番残念でならない。」

原発のもたらす「汚染」は稼働前、もしくは建設以前に既に始まっているという事だろう。
突如分け入ってくる札束を握りしめた黒い手・・
その手は人々の心を引き裂き、関係性を歪に変える。
その違和感をこの島民の人々は純粋な魂で敏感に感じ取り、
その相容れなさにもの凄い嫌悪と危機感を感じ、
こんなものが入ってきたら、島も人々も死ぬと、27年余り頑として拒否してきたのだと思う。
また、女性はこうも言う。
「ここは離島だから、陸続きの様にちょっと車で足を延ばして働きに行くという事が出来ない。
島で生きていく為には、海は文字通り「宝の山」。
 海は私達にとって宝です。だから守らなければならない。」
守っているものは、命そのものだという事。
命程、価値のあるものは無い・・だからこそ、人々の意思や結束は固く、志は揺るがない。
毎週月曜日の原発反対デモも欠かさない。
311以降、全国でも原発反対や脱核を掲げるデモが行われている。
一部では、またブームで終わるだろうと囁かれ、1980年代の反核運動の話も時に持ち出される。
しかし、今回は他国で起こったのではない、自国で起こった原発爆発事故だ。
私達は行進をしながら、思いを発しながら、
祝島の人々の様に、今度こそ、強い志でいなければならないと思う。
守るものは「命」。自分の命でもいい、大切な人の命でもいい・・
数々の失われた命を想うのでも、これから産まれてくる命を想うのでもいい・・
自分の感覚で、自分の事として受け止め、考え、歩き続けていく事が大事だと思う。
そして迷った時にはいつでも、この祝島の人々の姿に勇気づけてもらえるだろう。


一方で、祝島は極端に若者や子供が少ない。
老人たちも、自分達が余命いくばくもない事を自覚している。
こたつを囲んで世間話に花を咲かせるのが日課の老人達。
その中の1人の男性がぽそっと言った。
「死に方を選ばせて欲しいね。例えば薬が何種類かあってよ、眠る様に死ねるやつとか・・」
明るくふるまっていても不安なのだと思った。
不安だからこそ寄り添い合う仲間が必要なのだと思った。
今日も、被災地の仮設住宅で60代の男性の自殺が報じられた。
「孤独は死に至る病」という。
老人の自殺は特に、「無縁社会」といわれて久しい現代の闇の象徴の様に感じてならない。
祝島のしっかりと根付いたコミュニティの中で生きている老人たちでさえ、
死の恐怖と向き合っているのだ。
老体で孤独に生きる、というのはあまりにも辛すぎる。
そして私自身にも、そういった老後の不安はこれからつきまとう事になる・・

気心知れた仲間を持ち、共に分かち合い喜びあい、時には喧嘩し泣き、寄り添って生きる。
原発はそんなコミュニティの崩壊すら招く危険性を持っている。
事故が1度起こればなおの事、ここ東京であっても、
人々の心に更なる分断をもたらそうとしている。
いや、もう発生してしまっているのかもしれない。
放射能を不安な人々と、気にしない人々と。
原発問題、核の問題を真剣に考える人と、そうでない人と。
デジタル・デバイドや、認識の違いは、メディアの影響もあると思う。
人とのコミュニケーションが希薄化し、そこへデジタルの波が押し寄せ、
各種メディアへの依存が高まってきたからこそ、
この様な弊害が生まれてしまったのではないか・とも思える。
311以前は、祝島の様な地域コミュニティの復活は、
特に都心においては相当難しいのではないか・と感じていた。
しかし、311以後の数々の各地で繰り広げられるデモや人々の心の流れを見ていると、
ブームで終わらせずに、今後もしっかり継続できたなら、
そうしたコミュニティ的繋がりも、もしかしたら期待できるのではないか・・
それだけ人々にとって、この国にとって、
歴史的、危機的な「大事故」なのだと思う。


祝島の人々で印象的だったのは、とにかくよく笑う事。
過酷なデモを行っている時も、過疎化が急速に進み、未来への不安が拭えなくても、
笑顔と他者への労わりを忘れない。
素晴らしいと思った。
人は最終的に1人で死んでいくが、この島では魂はいつまでも一つなのだと感じた。
それは島が「命」そのものだからだ。
命は命に帰る・・そしてまた次の生命の営みの一つの支えとなる。
島そのものに、生きた温もりを感じる。

田舎の暮らしが全て勝っているという事ではないと思う。
多少の不便さや、単調さは否めない。
都会での暮らしの方が性に合っている・という事もある。
ただ、その魂のあり方や心の有り様は、生きていく上でとても参考になると思うのだ。
命として「生きる」という事はこういう事だよ・と、
祝島のおじちゃんやおばちゃんは、
身体をはって教えてくれている。
私達は一つの限りある命という事に変わりない。
命として、その1回しかない自分の人生を生きるのだから、
悔いが残らぬ様、精一杯歩いていきたいと思うのは、
誰しもの願いではないだろうか。

悲惨な世界的原発事故の渦中にあっても、
一生、放射能汚染に我身をさらす事になってしまっていても、
笑顔や愛しみ、労わりといった心を忘れたくないと思う。
自分の心を真っ先に開き、思い切り泣ける場所を大切にしていきたいと思う。
祝島の人々の姿は、私達の先を歩み、未来を語ってくれている。
これからも大勢の人々の心を支え、励まし続けてくれるだろう。
心から、「ありがとう!おじちゃん、おばちゃん」 と言いたい・・・


PS:祝島に千年以上続くという4年に1度のお祭り「神舞」は本当に美しい。
この島は、神様に守られているといっても過言ではない・・と思った。
形だけではない、魂のこもったものは、いつでもその放つ輝きが違うと思う。

海をじっと見つめる漁師のおじさんの眼差しは、
自然を知りつくし、尊び、自然と共に生きていく志の強さを感じた。