Kyon {Silence Of Monochrome}

Kyon {Silence Of Monochrome}
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2011/04/25

二人ぼっち

3月11日以降、原発震災により、生活が一変してしましました。
携帯が繋がりにくい中、gmailやTwitterはその機能を失わず、
混乱の中を駆け巡る一筋の光となったと思います。
私も今後の連絡手段にと、気軽にTwitterを初めて見たのですが、
そこは驚くばかりの情報の「宝庫」でした。
もちろん、情報の内容には玉石混合なところもあり、
十分精査する必要もある為、受け手にはそれなりのリテラシーと
時間が必要とも思います。
しかし、このメディアにはスピーディな自浄能力が備わっています。
そこに情報を発信する側と受ける側の見事な連係プレーというか、
人の良心まで垣間見れるところが素敵だと思いました。

しかし感動もつかの間、巷にあふれる情報は、もしかしたら、
有る程度加味されていたり、もしくは加工されていたり、
それこそ圧力と統制と権力という「添加物」まみれなのかもしれないという疑念を持った時、
特にこの原発関連において、言いようのない不安感に襲われました。
今まで信じてきたもの、守ってくれていると思っていたものが揺らいだのです。
テレビ、新聞でしか情報を収集していなかった時期、
私は多くの事を知らずにのほほんと来てしまったのか・・・
これまでの自分を大いに反省し、決別しようと思いました。
なので、今は一生懸命、日々毎時更新、発進される「情報」の波と格闘しています。
まだ備わっているリテラシーが脆弱で処理能力が追いつかないところが悲しいです。
しかし、これも訓練。
ネット、新聞、テレビ、ラジオ、書籍、雑誌、様々なメディアから抽出した情報を丹念に咀嚼できるよう頑張っていこうと思います。
そして可能であれば、大切な人にも教えたい。


一方で、私は絵を描く事が好きです。
描いている最中は、あの細かな作業がとてもつらい時もあります。
しかし、ゴールの先に見える特別な風景が私を魅了してやみません。
まるでマラソンのようです。
また絵を描く人物は私の中にもう一人います。
いつも心の奥深くに潜んでいて、たまに対話する時、それが絵となります。
最近は、あずきを失った悲しみと、原発震災の疲労ですっかり影をひそめていましたが、
そろそろまた出てきたがっています。
私も会いたい。
共にこれからも生きていき、死後も一緒に連れ添うであろう、唯一の友人。
だいぶ待たせてしまってごめんね。

2011/04/21

もう一つの闇

大手新聞の世論調査の結果では、大体においてまだ原子力を容認・推進している。
しかし質問には巧みなバイアスとニュアンスが使われている可能性があるし、
調査対象に関しても疑問を感じる点が残る。
某新聞では被災地を外したと聴いたが、ほんとだろうか?
ましてや原発に関する被災地を考慮していないとしたら、その調査を行う意味が解らなくなってくる。
対岸の火事の様に感じている人々に意見を求めたって、大概「保身」や「便利」「しようがない」で固まってしまうのではないだろうか。
ただ、今までタブーとされていた反原発・脱原発を声にして言えるようになってきた事は、
評価できると思う。日本全国で反原発運動も盛んになってきている。
私も先日行われた高円寺のデモには行った。
今出来る事を何とかやりたい・と半ば急かされる思いで行ったと思う。


ここ(日本)には、もう一つまだ大きい声ではなかなか言えないタブーがある。
「動物実験」だ。
これは原子力よりもずっと認知が低く、関心も薄い。
「動物愛護」=動物を愛しているか・人の命と同じと見ているか、という線引きがあるからだと思う。
海外の動物愛護団体の一部の過激な行動が、妙にクローズアップされるせいもある。
 しかし、私には原子力問題と動物実験の問題は、その種類は違っても、
根っこは一緒だという気がしてならない。
多くの学者・研究者の人類の繁栄・命の保護という大義名分のもと、
そして多くの私利私欲と利権がからむ中、
罪のない命が軽視され、抹殺されていくという点では、
残忍な実験の犠牲になる動物たちや、
福島原発の放射能による被爆者(特に子供たち)は一緒の様に思えてならない。

また、原子力が無くなったら、電気が使えなくなりますよ・という事と同じように、
動物実験できなくなったら、薬はのめなくなりますよ、病気になった時どうするんですか?という常套句が必ず付いてくる。
それは無知な人間にたいする「脅し」の様にも聞こえてくる。
しかし、原子力に代替エネルギーがあるように、動物実験にも代替策は多く存在する。
その点については原子力であれ、動物実験であれ、
反対するものは知識として装備すべきものだろう。
残念ながら私はまだ勉強不足だけど、直観・本能的に思う。
やはり、原子力は危険だし、動物実験は悲劇だ。
特に猫は脳神経系の実験に多く使われるという。
もしかしたら、私の常備する頭痛薬にも、
何万という猫達の魂が消費されていったのかもしれないと思うと、胸をかきむしられる。

これらの問題を語るには、まだまだ勉強が足りないと反省する。
でもそういう事実があり、事故が実際に起きた今、
クリーンエネルギーの発展を願うし、
化粧品等、なるべく動物実験していないメーカーから購入しようと思い実行に繋げている。
自分の中の認知的不協和状態を解消するには、
認知を曲げるか、無視するか、行動するか。
私はできる限り後者で有りたい。

また知らぬよりも積極的に知って、選択の幅を広げる事も大事だと思う。
1つの化粧水の選択が、やがてバタフライエフェクトのように、
大きな風となりますように。
少しでも小さな命が切り刻まれることなく、救われますように・・・
猫=動物を愛するものとしてのささやかな願いです。

2011/04/20

餓死する命

電子版DAYSの今週の写真を見て、もの凄く悲しくなる。
痩せこけた牛が力尽きている。
他の写真では、やはりとても痩せ衰えた馬が18日ぶりに餌を与えられている。

双葉郡の避難地域では、屋内の猫は生存率が10%だという。
かつての愛猫達は、空腹のあまり、共食いまでおこしているという・・・・
飼い主も断腸の思いで家を去ったのだろう。
または、2,3日程度の避難のはずが無計画に延ばされた結果の無残な現実なのかもしれない。

どうしても悲しくなるのは、彼らには一切責任が無いからだ。
しかも、鎖などで繋がれていたら本人たちの意思で逃げる事も出来ない。
この豊かな(今であっては幻想か)緑の大地で、餓死しなければならないなんて。

中には家族同然の家畜やペット達を置いてはいけないと、
高い放射線の中で今も暮らしている人々もいる。
気持ちは痛いほどわかる。
私にも愛する「家族」がいる。
私達ももし同じ立場におかれたら、置いてなど行けない、と毎日連れ合いと話し合っている。

それでも、未来ある人々は避難し命を守るべきだと思う。
せめて、小さな家族も一緒で有れたなら・・・
避難所などの対応問題も山積している。

日本ではずっと動物の命を軽視してきた感がある。
それが、今回の震災によってさらに露呈してしまった。
今やペット総数は、子供の数よりも多いと聞く。
それだけ愛される命があるというのに、
人間と平等に扱われないのはいったいつまで続くのだろうか・・・
やり切れない思いで一杯になる。

2011/04/19

チャイナシンドローム

映画「チャイナシンドローム」を見た。
1879年の作品で、奇しくもこの映画放映直後に、スリーマイル島の事故が起きた。

チャイナシンドロームとは、
炉心が溶融すると、その熱が地球の裏側を突き抜けてしまうという大事故を比喩したもの。
今現在、チェルノブイリ7級の事故が自国でおこっており、
連日の報道や会見等で、原子力関係のワードにすっかり慣れている身としては、
非常に解り易く、体験を追随しているようだった。
しかし、この映画は今から32年も前のもの・・
現実が映画を追体験していると言った方が適当かもしれない。

ジェーン・フォンダ演じる敏腕キャスターが、とある原子力発電所のレポートで、
「効率的」を「利己的」と言い間違えるシーンが印象深く、象徴的だった。

重大事故をその撮影中に目撃するが、キャスターはそれを特ダネとし、
午後のニュースで取り上げようとする。しかし、
即座に何者かに圧力をかけられ、その申請は尽く却下され、マスコミは黙殺を図る。

発電所を長年「愛した」室長の内部告発で、
重大事故の露呈が市民に測られるが、とんでもない結末が待っていた。
いささか大げさすぎるともおもったが、今現在がこんな状況にある為、
非現実な結末にも思えない自分がいた。

巨大すぎるエネルギーを制御しきれないのに、飼い慣らしていると勘違いしている人間の愚かさ、
どす黒い利権がらみの人間関係、
そこに光った一筋の愛と「良心」。
それも流れ星となって遥か彼方に消えてしまうのか。
この映画では結論は出なかった。

できることならば、映画「東京原発」と並んで、
ゴールデンタイムのお茶の間に届けて欲しい作品だ。
「原子力」=核の闇の部分を勇敢に懸命に映し出しているだけでなく、
サスペンスとしても見ていて面白いし、引き込まれる内容だった。
しかし、映画の場合はフィクションで終わり、ほっと一安心、現実に戻れるが、
今はフィクションが「現実」だ。

原子力の闇を描いた作品の数々は、
書籍であれ、映画であれ、「とんでも内容」として長く世間一般から黙殺・廃除され、
隠蔽さえされてきたと思うが、
なぜそうされてきたか、何となくわかってきた気がする。
描かれたフィクションが現実となりうる可能性を見事にはらんでいて、
あまりにも危険だったからではないだろうか?
そして周知されたあかつきには、受け手のリテラシーが問われるが、
皆が皆、冷静に判断できるとは言えないから、
それなら見せないほうがましだろうという解釈だろうか。
今も情報を発信する側に、そのような風潮は多く残っている気がする。


鑑賞後、寒々とした悲しみが襲い、怒りと共に混沌としていた。
1人の人間にはあまりにも巨大すぎる闇だ。
闇の中で、一匹の蛍を追いかけているような感じだった。
そしてその蛍すらも、結局は殺されてしまった・・・

それだけは、現実にならぬ様、願っている。

2011/04/11

おつかれ、くるみちゃん

先日無事に手術を終えて、ちょっと面白い感じになってしまったくるみちゃん。
歩いている姿は、壊れたミニ扇風機のよう・・・
大変だったね、お疲れさまでした。