原発事故以来、外食に行く足どりが重い。
食品の汚染状況が日々悪化していき、
そもそもの基準値の高さに、自分自身が納得していないから、
自ずと食品・食材に過敏になる。
やむを得ず外食を取る事になっても、
まず野菜や肉の産地が店頭や、メニュー、ホームページに明記されているかチェックする。
これをみて、私のツレはあまりよい顔をしないし、
友人や知人クラスでは、もしかしたら亀裂が入るかもしれない。
「わたし、放射能が気になるから、遠慮しとく・・」
なんて「ダイエット中」よりも酷に響くだろう。
なぜなら、放射能は皆に平等で、
その影響の出方はあらゆる病魔にして酷く、そしてロシアンルーレットに近いからだ。
皆、心の底では、不安に思っている。
でも、それを認めたくない・・認めたら、大変な心労や手間暇・労力が待っていると誰もが思う。
だから、意識は安全ベクトルの方へ自然に傾く。
信じたいものだけ見聞きするようになっていく。
そして疑う事もなく、「基準値以内」だから「安全」と信じるだろう。
そこに、「基準値」に対する疑問や、
本当に「安全」か・など、考えてはあってはいけないのだ。
「忙しくって、そんなの考えている余裕がない」という言葉を聞いた事がある。
本音だろうと思う。
放射能は見えないから、無視しようと思えばできるし、
あとは思考停止させて、「安全宣言」に従っていればいい。
そのうち病気になるかもしれないが、
それは自分の健康管理や不摂生のせいかもしれない。
そして「人間、やがては死ぬのだし」という諦めにも似た結論と結果が待っている・・
放射能を心配して食材を選んだり、浄水器等をつかったり、色々と情報収集する事に、
「やっても無駄、考えても無駄、しょうがない」と
何度か言われた事がある。私も閉口する。
そこで思う。
なぜ、他人に「無駄」等と、そこまで言われなければならないのだろう。
無駄、取り越し苦労と思いながらも「そうか、心配なんだね、頑張って」でいいではないか。
私も、自分は放射能に対して策を講じるが、
「一緒にやろう!頑張ろう!!やらないとやばいよ」等とごり押しした事はない。
会話の中での、一節に過ぎないのに、
「無駄」等と、逆に過剰反応するのは、相手側にも不安心理があるのではないかと思う。
「図星」という言葉があるが、相手の弱点を突いたような事をいうと、相手が怒る場合がある。
それは相手が自分の中で一番気にして、触れられたくない部分、
見られたくない部分を見られた事への、過剰防衛反応とでもいうのか。
放射能問題の会話はそんな事と似ている気がする。
心の奥底では、本能のレベルで、「身体」自身が不安に感じていてもおかしくはない気がする。
それだけ、放射能は不気味で恐ろしいモノという事だろう。
人々にとって、放射能のミエル化がまだ確立されていないゆえに、
霊魂のように「信ずれば見える。信じなければ、みえません」の世界に未だ等しい気もする・・
防御するも、しないもその人の選択だ。
押し付ける事もないし、侮蔑する事もない。
それぞれの人生、それぞれの生き方だ。
だけど、例えば自分が、自分の放射能への不安や防衛策を相手に話すには理由がある。
いたずらに不安を煽りたいわけではなく、共感して欲しいわけでもない。
だんだんと自分に嘘がつけなくなってくるからだ。
不安とおもっているのに「安心」であるようにふるまうこと・・
心配なのに「安全」だと装って、食材を口に運ぶこと・・
そこの土地や食材は「危険」だと思っているのに、それを黙っていること・・
徐々に外面だけ装っていることに疲労し、嘘をつくことに耐えられなくなってきた。
だから最近は、「変な奴」「過敏症」と思われるのを承知で不安や不信感を口にするようにしている。
それで、離れていっても、それはそれで良いという前提で。
もしかしたら、その人の心の片隅に、私の言葉が一片でも残っていて、
いずれ役に立つことがあるかもしれない・・それはそれで良いではないか。
あらゆる情報を多方面から収集し、「チェルノブイリの子供達」など、
影の真実を知った人々は同じ様な悩みを抱えているのではないだろうか・・
ツイッターを通しても、日々それを強く感じる。
「しょうがない」という言葉は苦手だ。
「考えてもしょうがない」は思考停止を意味していると思っている。
思考を水の流れに例えてよく思う。
水は流れ続けているから、清らかなのだ。
思考も一緒・・流れ続けるから、クリアな能力を保っていられる。
そう信じている。
だから私は、これからもずっと、考え続けます。