Kyon {Silence Of Monochrome}

Kyon {Silence Of Monochrome}
上記をクリックするとKyonイラストのホームページとなります。ぜひご覧ください。

2009/12/17

過去からの手紙

20代の頃に書いた「日記」を久々に読みました。
丁度、井の頭公園デビューした頃のものです。
その頃、人生の袋小路に入り込んでしまったような私は、
お金を「虚構」だと思っていました。
日記にはこう書いてありました。

「お金に操られている生活は幻想に近く、お金で動くこの世の中も幻想のようだ」
「お金を得るために時間を売っている自分が時々悲しく思えてくる。
もっと大事なものがあるのではないか、自分という現実をもっと感じることが必要なのではないか」

10年以上たった今の自分の感性で見ると、
とても歯痒くて恥ずかしい文章ですが、
時間と仕事と自分自身と人間関係と、いくつもの狭間で不器用に立ち回っている自分の姿がぼんやりと脳裏に浮かんできました。
当時はアルバイトだったと思いますが、学生だったし実家でしたから、
そんなにお金に困っていたとは思いません。
ただ仕事を通して、人と関係することの難しさに悩み、社会人として行動することへの反発めいたもの、自己中心的な視野の狭さから、 あわよくば働きたくなかったのかもしれません。
しかし、流されるように仕事を任されて没頭し始め、社会人としての自覚を持ち始めた時から、
「お金は虚構」などと簡単には言えなくなってきたように思います。
生活するため、生きていくため、やはりお金は必要なのです。
祖母が生前「一番汚いものはお金だよ」と言っていましたが、
(これは小さい頃に言われたので様々な人が触って「不衛生だ」という意味だと思います)
「良いお金」の活かし方は沢山あると思います。
人へのプレゼントを購入したり、頑張った自分に少しご褒美をしたり、
友人と美味しいものを食べに行ったり・・
若い自分は日記にこうも書いています。

「仕事が重なり、我を忘れてしまう時、それはほぼ自分が幻になり下がったのと同じこと。
それこそ、絵も描けないくらい疲れきってしまう時、私は私を消してしまいたくなる」

この頃から仕事=お金は大事だが、自分を見失ってしまいそうで恐れていました。
仕事=お金=幻想という図式が頭の中で出来上がっており、それが精神的に脅威だったのです。
しかしそのうち、本当に流されるままに、私は自分を見失うことになり、
そのことすら気付かない日々が続くことになりました。
多忙と喧騒の日々から解放され、正常な自分に戻ったからこそ、
このように過去を冷静に見つめられるのかもしれません。
過去の自分は未来の自分に密かに警鐘を鳴らし、失っていく日々を予感し、
更に未来の(現在の)自分がその事実に気付くというのは、
何とも不思議な感じがします。

「仮面を付けてほぼ毎日を過ごしている。底の無い壺の中に手を入れてまさぐっている感じです」
この感じは何となく今も続いている気がします。
仮面の数は以前よりぐっと少なくなりましたが、私には世渡りするために「仮面」はまだまだ必要です。

日記には最後にこう書いてありました。
「自分が半透明から本当に無になってしまわないように焦っている」
誰もが生活している中で気づいていないか、あるいは見ないように封印している「恐怖」が、
そこにあるような気がします。
下手な文章でも、当時のその感覚が臨場感を持って表れました。

この過去の日記を読んで思ったのは、
「自分を見失う恐怖」と戦う自分、自分を見失いつつも仕事に専念しそれを楽しんでいた自分、
この二つの点が繋がって見えてきた線があり、それが未来への指針となってくれるだろうということです。
そしてこの二つの相反するものが絶妙なバランスを保ち、今平穏に暮らせているのは、過去の自分が悩み行動し、失敗もあったからこそなのだと思います。


「扉を開けると、狭い階段をゆっくりと降りていく、闇の中を独りで行く時幸せです」
絵を描くということが、過去も未来も私を支え続けてくれている、
唯一無二の「友人」であることは確かなようです。
この「友人」をいつまでも大切にせねばと、純粋に思いました。

さて、こうして今綴っている「日記」は、未来の自分にどう響くのでしょうか?